46講 壬申の乱の発端と経緯

大海人皇子と政権掌握

大海人皇子の登場

 

皇太子の中大兄皇子は、中国の文物制度を摂取し、古い制度や慣習を打破しようとする進歩派で、新しい官僚層と協働していきました。それに対し、(こう)(たい)(てい)大海人(おおあまの)皇子(おうじ)は、ある程度は進歩的な政策も是としますが、反面では保守的な基盤に立つことも忘れないという態度でした。それゆえ、大海人皇子は黒幕的官僚政治家となって兄の中大兄皇子を操る鎌足を毛嫌いし、官僚貴族層よりも改新派に対立する貴族・豪族と結んで隠然たる力を持ちました。

改新政治への不満が広がり、政治不信が高まるにつれ、人びとの期待は大海人皇子に集まり新羅親征が大敗北を喫するころになると、大海人皇子の実力はもはや鎌足・中大兄にも全く無視できないものになりました。

「天智天皇紀」らよれば、白村江の惨敗の翌年、664年二月九日、中大兄は「皇太弟(大海人皇子)に命じて、冠位の階名を増し換えること、及び氏上(うじのかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)等の事をのたまわった」としています。つまり、大海人皇子は統治上の最重要綱目である冠位や氏族の支配のことを任され、相当な権力を委任されたわけです。逆に言えば、鎌足・中大兄が氏族支配を大海人皇子の任せることで諸氏族を懐柔しなければならないほど改新派への風当たりが強くなっていたのです。

大海人皇子は命に応じて二十六階の制を定め、大氏の氏上(氏の代表者)には大刀を、小氏の氏上には小刀を、伴造(とものみやつこ)らの氏上には楯。弓矢を賜り、また民部。家部を定めています。ここに大海人皇子による政権掌握の兆しが歴然としてきたのです。

 

安全弁となっていた鎌足

改新派の政治に疑問をもつ大海人皇子が実力をつけるほど、皇太子中大兄との衝突の危険は増大しました。

このような政権内部の不安要因に対し、鎌足はどのように対応したのか。恐らく大海人皇子の力量とその存在価値を認めていた鎌足は、何とかして両者の対立を緩和しようとつとめたのです。中大兄の皇女を大海人皇子の夫人に入れるなどして両者の結びつきを深め、あるいは中大兄がその子・大友皇子に露骨に政権の実権を握らせようとするのを抑えて、大海人皇子も重用するようにしむけたりしています。

しかし、所詮は水と油のような二人がただで済むはずもなかったのでした。

皇太子中大兄は、近江の大津京に遷都した翌年668年正月三日に即位され、天智天皇となられました。そして七日、群臣を琵琶湖畔の浜楼に集めて宴を開きました。「大織冠伝」によれば、その席上、両者の間に決定的な衝突が起こっています。

大津遷都に不満を抱いていた大海人皇子は、日ごろの憤慨が込み上げてきたのか、遂に長槍を取って躍り出て、槍先を宮殿の板敷に突き刺したのです。天智天皇はこの攻撃的な振る舞いに腹を立て、憤然として刀を取って大海人皇子を斬り殺そうとしました。処が近侍していた内臣(うちつおみ)、老獪な鎌足が天皇を諌め、取り鎮めて大海人皇子を救ったのです。この事件以来、大海人皇子も鎌足を重んじるようになったといわれます。こうして老獪な鎌足は、チャンスを巧みにとらえて、見事に両者間の安全弁的役割を果たしたわけです。

しかし、それね束の間、翌天智天皇の八年、669年、十月十六日、鎌足が五十六歳で没するとその安全弁も失われたのでした。

 

天智天皇の崩御

大友皇子の登場

鎌足の没後、政権は皇太弟大海人皇子、太政大臣大友皇子、左大臣蘇我赤兄、右大臣(なか)(とみの)金連(かねのむらじ)御史(ぎょし)大夫(たいふ)に蘇我(はた)安臣(やすのおみ)()(せの)人臣(ひとおみ)(きの)大人(うし)臣で構成されました。長年操られていた天智天皇は、鎌足の死後は自力で政権を動かす気力もなく、取り入ってきた赤兄らを鎌足に代わって重用しました。蘇我赤兄、即ち有間皇子事件で皇子を陥穽にはめた謀略家です。

天智天皇にすれば、鎌足とともに推進してきた改新政治の後継者として自分の子である大友皇子を推したかったでしょう。また、大海人皇子を後継者にすることは長年の労苦が水泡に帰するようで忍び難かったのではないかと思われます。赤兄はそうした天智天皇の親子の情と迷いに乗じるように、大友皇子を太政大臣に据え、鎌足がそうしたように皇子を操ることで政権を掌握し、大海人皇子を排除しようとしたのです。

こうして無気力化してきた天智天皇の下、政権はかっての鎌足・中大兄に代わってやはり官僚主導型である赤兄・大友政権というべきものへ移行しつつありました。そして、反改新派、旧勢力層を懐柔してその支持を得ていた大海人皇子は、政権内で疎外され、孤立したのです。

ここに改新政治で権力を握ってきた官僚貴族が推す大友皇子と改新政治に不満を抱き、官僚貴族に反感を持つ氏族らがいただく大海人皇子との対立構造が鮮明化してきたのです。そして、このように大化の改新の矛盾が、赤兄・大友対大海人皇子の極度の緊張関係というかたちで表面化してきたとき、かろうじて両派の上に立って均衡を保ってきた天智天皇の崩御という事態が起こったのでした。

 

野に放たれた虎

天智天皇の十年、671年十月十七日、重い病に(かか)られた天皇は、大海人皇子を呼び寄せて後事を託そうとされました。この時の状況を「天武天皇即位前紀」は次のように伝えています。「天皇、臥病したまいて、痛みたもうことはなはだし。ここに蘇我臣安麻呂を遣して、東宮(大海人皇子)を召して大殿に引き入る。時に安麻呂は素より東宮の(よしみ)したまう所なり。密に東宮を顧みたてまつりて(もう)さく、「有意(こころしら)いて(のたま)え」と。

東宮、ここに隠れる(はかりごと)有らんことを疑いて慎みたまう」と。

即ち、重病に臥された天皇は安麻呂を使いとして大海人皇子を呼び出されたのですが、皇子と親しかった安麻呂は「天皇のお言葉には心して応えなされ」と忠告したのです。

これによって大海人皇子は何か謀略が仕組まれていると察知し、天皇が皇位を譲ると言われたのに対し、「自分は病気がちで政務には耐えられない、皇后が即位されて大友皇子が皇太子となって補佐するのがよいでしょう。私は天皇のために出家して功徳を積みます」と応えたのです。皇子はその日のうちに剃髪し、武器類を朝廷におさめ、十九日には僅かの供と吉野山に入ってしまいました。

安麻呂がほのめかした謀略とは、おそらく蘇我赤兄による大海麻呂の殺害だったと思われます。赤兄は皇子が皇位継承を承諾した場合、即座に暗殺しようと企んでいたのです。処が大海人皇子が全くその気を見せず、見事なまでに権力欲を捨てたかのような演技をしたため、付け入る隙を見出せないまま吉野へ逃がしてしまったのです。人びとはこれを「虎に翼をつけて放てり」と噂したと言います。

 

註 太政大臣

  令制における太政官の長官で、令制上の最高官である。天智天皇のとき大友皇子が任命されたのが初めで、令では則閥の官といい、適任者がなければ次官とするもので常置の官ではなかった。