佐藤一斎「言志録」その五 岫雲斎補注
わが鳥取木鶏会で言志録四巻を5-6年前に輪読し学んだ。このホームページに記載されないのが不思議だとの声が関西方面からあった。言志禄は、指導者たるべき者の素養として読むべきものとされたものである。言志四録の最後の言志耋録は佐藤一斎先生八十歳の著作である。岫雲斎圀典と同年の時である。
平成23年10月度
1日 | 118. 古今一等の人物 |
世間第一等の人物と為らんと欲するは、其の志小ならず。余は則ち以て猶お小なりと為す。世間には生民衆しと雖も、而も数に限り有り。茲の事恐らくは済し難きに非ざらむ。前古已に死せし人の如きは、則ち今に幾万倍せり。其の中聖人、賢人、英雄、豪傑、数うるに勝うべからず。我れ今日未だ死せざれば、則ち梢出頭の人に似たれども、而も明日即し死になば、輒ち忽ちに古人の?中に入らむ。是に於て我が為したる所を以て、諸を古人に校ぶれば、比数するに足る者無し。是れ即ち愧ず可し。故に志有る者は、要は当に古今第一等の人物を以て自ら期すべし。 |
岫雲斎 気宇壮大な志を持てということであろう。 |
2日 | 119. 己を恃むべし |
士は当に己れに在る者を恃むべし。動天驚地極大の事業も、亦都べて一己より締造す。 |
岫雲斎 いい言葉じゃ。 |
3日 | 120. 己を失えば |
己れを喪えば斯に人を喪う。人を喪えば斯に物を喪う。 |
岫雲斎 |
4日 | 121 独立自尊 |
士は独立自信を貴ぶ。熱に依り炎に附くの念起すべからず。
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岫雲斎 |
5日 | 122 真実の己と仮の己 |
本然の真己有り。躯殻の仮己有り。須らく自ら認め得んことを要すべし。 |
岫雲斎 |
6日 | 123 惜陰 |
人は、少壮の時に方りては、惜陰を知らず。知ると雖も太だ惜しむには至らず。四十を過ぎて已後、始めて惜陰を知る。既に知るの時は、精力漸く耗せり。故に人の学を為むるには、須らく時に及びて立志勉励するを要すべし。しからざれば則ち百たび悔ゆるとも亦竟に益無からむ。 |
岫雲斎 |
7日 | 124. やむをえざる勢 その一 |
雲烟は已むを得ざるに聚り、風雨は已むを得ざるに洩れ、雷霆は已むを得ざるに震う。斯に以て至誠の作用を観るべし。 |
岫雲斎 |
8日 | 125. やむをえざる勢 その二 |
已む可からざるの勢に動けば、則ち動いて括られず。枉ぐ可からざるの途を履めば、則ち履んで危からず。 |
岫雲斎 |
9日 | 126. 飲食は薬の如し |
周官に食医有りて飲食を掌る。飲食は須らく視て常用の薬餌と為すべきのみ。「食は精なるを厭わず。膾は細なるを厭わず」とは、則ち是れ製法謹厳の意思なり。「食の饐して?し、魚の餒して肉の敗るるを食わず。色の悪しきは食わず。臭の悪しきは食わず」とは、即ち是れ薬品精良の意思なり。「肉多しと雖も、食気に勝たしめず」とは、即ち是れ君臣佐使分量の意思なり。 |
岫雲斎 周官と言う書物に食医という官名の事あり。飲食を掌るもの。飲食物は薬と同じと考えるべき。飯は精白でもよいし、膾はどんなに細くてもよい、と言う意味は注意して作れの意である。飯の腐って味のおかしいもの、魚の爛れて腐ったものは食べない、色の悪いもの、臭いの悪いものも食べない、これらは薬品をよく吟味する意味と言える。肉は多くとも飯より多くはダメと言う事は昔の調剤法にも適切な指摘があったということか。 |
10日 | 127 . 聖人無病 |
聖人は強健にして病無き人の如く、賢人は摂生して病を慎む人の如く、常人は虚羸にして病多き人の如し。 |
岫雲斎 |
11日 | 128 常に病む人 |
身恒に病む者は、其の痛みを覚えず。心恒に病む者も、亦其の痛みを覚えず。 |
岫雲斎 |
12日 | 129 待てば晴れる |
需は雨天なり。待てば則ち霽る。待たざれば則ち沾濡す。 |
岫雲斎 |
13日 | 130 急げば失敗 |
急迫は事を敗り、寧耐は事を成す。 |
岫雲斎 |
14日 | 131 人間には平等に道理一貫 |
茫々たる宇宙、此の道は只だ是れ一貫す。人より之を視れば、中国有り。夷狄有り。天より之れを視れば、中国無く、夷狄無し。中国に秉彜の性有り。中国に惻隠羞悪辞譲是非の情有り。夷狄にも亦惻隠羞悪辞譲是非の情有り。中国に父子君臣夫婦長幼朋友の倫有り。天寧んぞその間に厚薄愛憎有らんや。此の道の只だ是れ一貫なる所以なり。但だ漢土の古聖人の此の道を発揮する者、独り先にして又独り精なり。故に其の言語文字、以て人心を興起するに足る。而れども其の実、則ち道は人心に在りて言語文字の能く尽くす所に非ず。若し道は独り漢土の文字に在りと謂わば、則ち試に之を思え・六合の内、同文の域、凡そ幾ばくか有る。而も猶お治乱有り。其の余の横文の俗も、亦能く其の性を性として、足らざる所無く。其の倫を倫として、具わらざる所無し。以て其の生を養い、以て其の死を送る。然らば、則ち道豈に独り漢土の文字のみに在らんや。天果して厚薄愛憎の殊なる有りと云わんや。 |
岫雲斎 |
15日 | 132 死にざま |
聖人は死に安んじ、賢人は死を分とし、常人は死を畏る。
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岫雲斎 |
16日 | 133. 聖人に遺訓なし |
賢者は没るに臨み、理の当に然るべきを見て以て分と為し、死を畏るることを恥じて死に安んずることを希う。故に神気乱れず。又遺訓有り、以て聴を聳かすに足る。而して其の聖人に及ばざるも、亦此に在り。聖人は平生の言動、一として訓に非ざる無くして、?するに臨み、未だ必ずしも遺訓を為さず。死生を視ること、真に昼夜の如く、念を著くる所無し。 |
岫雲斎 |
17日 | 134. 堯舜の訓誥 |
堯・舜・文王、其の遺す所の典謨訓誥は、皆以て万世の法と為す可し。何の遺命か之に如かん。成王の顧命、曾子の善言に至りては、賢人の分上、自ら当に此くの如くなるべきのみ。因りて疑う。孔子泰山の歌、後人仮託して之を為すかを。檀弓の信じがたきは、此の類多し。聖人を尊ばんと欲して、而も郤って之が累を為すなり。
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岫雲斎 |
18日 | 135. 常人の臨終 |
常人は平素一善の称すべき無くして、偶病篤きに及び、自ら起たざるを知り遺嘱して乱れず、賢者の為の如き者有り。此は則ち死に臨みて一節の取るべきに似たり。然れども一種の死病の証候、或は然るを致すこと有り。是れ亦知らざる可からず。 |
岫雲斎 |
19日 | 136 死に安んずるのは誰か |
気節の士、貞烈の婦、其の心激する所有り。敢て死を畏れざるは、死を分とする者の次なり。血気の勇の死を軽んじ、狂惑の夫の死を甘んずるは、則ち死を畏るる者より下れり。又釈老の徒の如きは、死に処するに頗る自得有り。然れども其の学畢竟亦死を畏るるよりして来る。独り極大の老人、生気全く尽き、溘然として病無くして以て終る者は、則ち死に安んずる者と異なる無きのみ。
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岫雲斎 |
20日 | 137 . 死生と変易 |
生物は、皆な死を畏る。人は其の霊なり。当に死を畏るるの中より、死を畏れざるの理を揀び出すべし。吾思う。我が身は天物なり。死生の権は天に在り。当に順いて之を受くべし。我の生るるや、自然にして生る。生るる時未だ嘗て喜ぶを知らざるなり。則ち我の死するや、応に亦自然にして死し、死する時未だ嘗って悲しむを知らざるべきなり。天之れを生じて、天之れを死せしむ。一に天に聴すのみ。吾れ何ぞ畏れむ。我が性は則ち天なり。躯殻は則ち天を蔵するの室なり。精気の物と為るや、天此の室に寓せしめ、遊魂の変を為すや。天此の室より離れしむ。死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而して吾が性の性たる所以の者は、恒に死生の外に在り。吾れ何ぞ焉れを畏れむ。夫れ昼夜は一理、幽明も一理、始を原ねて終に反り、死生の説を知る。何ぞ其の易簡にして明白なるや。吾人当に此の理を以て自ら省みるべし。
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岫雲斎 |
21日 | 138. 躯殻と性 |
死を畏るるは、生後の情なり。躯殻有りて而る後に是の情有り。死を畏れざるは生前の性なり。躯殻を離れて而して始めて是の性を見る。
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岫雲斎 |
22日 | 139 . 亡霊観 |
亡霊の形を現わすは、往々にして之れ有り。蓋し其の人未だ死せざる時に於て、或は思慕の切に、或は遺恨を極め、気既に凝結して身に遍く、身死すと雖も、而も気の凝結する者散ぜず、因りて或は崇を為しを為す。然れども聚る者は散ぜざるの理無し。譬えば、猶お冬月水を器に貯うれば、凍冱して氷を成し、器は毀たると雖も、而も氷は尚存し、終に亦漸尽せざる能わざるがごとし。 |
岫雲斎 幽霊が形を現すことは時にある。その人が生きている時、何か思い込み、強い憤慨があり気が凝縮して身体に広がっておると死んでもその気が散らない。 |
23日 | 140 .活きた学問 |
経を読む時に方りては、須らく我が遭う所の人情事変を把りて注脚と做すべし。事を処する時に臨みては則ち須らく倒に聖賢の言語を把りて注脚と做すべし。事理融会して、学問は日用を離れざる意思を見得するに庶からん。 |
岫雲斎 経書を読む時は、自分が体験した人情や事件を参照にして解釈するがよい。 |
24日 | 141. 読史眼 |
一部の歴史は、皆形迹を伝うれども、而も情実は或は伝わらず。史を読む者は、須らく形迹に就きて以て情実を討ね出すを要すべし。 |
岫雲斎 |
25日 | 142 読書の感想 |
吾れ書を読むに方り、一たび古昔聖賢・豪傑の体魄皆死せるを想えば、則ち首を俯して感愴し、一たび聖賢・豪傑の精神尚お存するを想えば、則ち眼を開きて憤興す。 |
岫雲斎 |
26日 | 143 .古往の歴史と今来の世界 |
古往の歴史は、是れ現世界にして、今来の世界は、是れ活歴史なり。
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岫雲斎 |
27日 | 144 . 聡明の横と竪 |
博聞強記は聡明の横なり。精義入神は竪なり。 |
岫雲斎 |
28日 | 145. 死に学問 |
一耆宿有り好みて書を読む。飲食を除く外、手に巻を釈かずして以て老に至れり。人皆篤学と称す。余を以て之を視るに、恐らくは事を済さざらんと。渠れは其の心常々放かれて書上に在り。収めて腔子の裏に在らず。人は五官の用、須らく均斉に之れを役すべし。而るを渠れは精神をば専ら目に注ぎ、目のみ偏して其の労を受け、而して精神も亦従いて昏かいす。此くの如きは則ち能く書を視ると雖も、而て決して深造自得すること能わず。便ち除だ是れ放心のみ。且つ孔門の教えの如きは、終食より造次順沛に至るまで、敢て仁に違わず。試に思え、渠れは一生手に巻を釈かざれども放心斯くの如し。 能く仁に違わずや否やと。 |
岫雲斎 |
29日 | 146 学者今昔 |
孔門の諸子、或はァァ如たり。或は行行如たり。或は侃侃如たり。気象何等の剛直明快ぞ。今の学者、終歳故紙陳編の駆役する所と為り、神気奄奄として奮わず。一種衰颯の気象を養成す。 孔門の諸子とは霄壌なり。
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岫雲斎 |
30日 | 147伯魚庭に走る |
伯魚庭に趨り、始めて詩礼を聞く。時に年蓋し已に二十を過ぎぬ。古者子を易えて之を教うれば、則ち伯魚は必ず既に従学せり。而るに趨庭の前、未だ詩礼を聞かず。学ぶ所の者何事ぞや。 陳亢も亦一を問いて三を得るを喜べば、則ち此より前に未だ詩礼を学ばざりしに似たり。 此等の処学者宜しく深く之を思うべし。
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岫雲斎 |
31日 | 148. 「信」三則 その一 |
信を人に取ること難し。 |
岫雲斎 |