徳永圀典の「般若心経」独自意訳

私は毎朝起床して洗面したら直ちに勤行を永年欠かさない、四代前までの先祖12人の戒名を称名し読経する。
般若心経は永年の研鑽も重ね自分なりの一定の理解がある。
勿論、悟ったという意味ではない。私はお経は生きている人間へのものでなくてはならない、
お経は「生の哲学」だと心から信じている。そして、死と日々対峙する時間が毎朝の読経であると思つている。

自分なりの考えをご披露する。平成1621日 徳永圀典

般若心経の:原文

独自意訳は太字

説明

般若波羅蜜多心経


真理の智慧で覚る心の教え

と意訳する。

仏道の根本思想は「空」である。般若心経はそれを「色即是空」「空即是色」と両方から説いている。そのエッセンスの「空」は「因縁の原理」を理解しないと分からない。空と因縁とは表裏一体である。

 

「因縁生起」とは、一切は、みなことごとく因と縁の和合により生じ起こるということである。これは自明の理である。「因」により直接「果」が生ずるのではなく因と縁の和合の結果である。ご縁という触媒を大切にということである。

 

凡人の迷いとはこの因縁の理を悟れない事から起きる。これがあらゆる「迷い」の源泉である。この因縁の道理を明らかにするのが悟りである。冷たい現実は、非情だが、そのまま受け入れざるを得ないのが因縁の原理でもある。

般若波(はんにゃは)()(みっ)多心経(たしんぎょう) 
観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)
(ぎょう)(じん)般若波(はんにゃは)()(みっ)多時(たじ)(しょう)(けん)五蘊(ごうん)(かい)(くう)()一切(いっさい)()(やく)

「真理の智慧で覚る心の教え」


観自在菩薩が、甚深にして微妙なる般若波羅蜜多の修行をされた時、万物を構成する五蘊はみな空であるとご照覧されて一切の苦厄から抜け出された、即ち覚られた。

(じん)(じん)ー極めて深い
微妙(みみょう)ー玄妙なる
五蘊(ごうん)
ーこの世や体や精神を構成している万物。
般若とは智慧の意味。真理を体得した者の智慧が般若の智慧である。梵語でパンニャーという。
波羅蜜多も梵語、彼岸に到るの意である。彼岸は悟りの世界を意味する。梵語はパーラミター。

甚深微妙なる般若波羅蜜多の行とは、六波羅蜜のこと。--布施(ふせ)(ほどこし)持戒(じかい)(いましめ)忍辱(にんにく)(しのび)精進(しょうじん)(はげみ)禅定(ぜんじょう)(おちつき)般若(はんにゃ)(ちえ)の修行である。

 

五蘊とは、(しき)(じゅう)(そう)(ぎょう)(しき)である。形あるもの、形のないもの、有形物質と無形の精神の集合を意味する。この世や体や精神を構成している悉くである。
(しき)物質的存在はすべて(しき)という。
(じゅう)(そう)(ぎょう)(しき)ー物質に対する精神、心のこと。感情・知覚・意思・意識のこと。識が精神作用の中心。
主観も客観も、一切の事々物々、みな五蘊の集合である。

(しゃ)利子(りし)(しき)不異(ふい)(くう)()不異色(ふいしき)色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)受想(じゅうそう)(ぎょう)(しき)亦復如(やくぶにょ)()

舎利弗坊よ、全ての眼に見えるもの即ち「色」は実体が無く究極的には空だよ。そして「空」も色と言えるのだ。色は空、空も色。精神作用の受、想、行、識も物質と同様に究極は実体がなく空なのだ。

万物はすべて移り変わる。だから存在していると思っているが、それは仮の、一時的な存在、仮有(けう)ある。「有るようで、無く、無いようで、ある」これが世界の実体であり実相。
(しゃ)利子(りし)舎利(しゃり)(ほつ)尊者(そんじゃ)
ー釈迦の弟子

(しゃ)利子(りし)()諸法(しょほう)空相(くうそう)不生(ふしょう)不滅(ふめつ)不垢(ふく)不浄(ふじょう)不増不減(ふぞうふげん)


舎利弗坊よ。この、万物の実体は空であるから、生ずると言っても、何も新しく生ずるものではない。滅すると言っても、全てが一切無くなってしまうのではない。汚いとか綺麗とか、増えたとか減ったとかは、夫々の事物の囚われによる錯覚なのだよ。

五蘊により作られたものはみな空である。眼に見える有形の物質、眼に見えない無形の精神とかが集まって出来ている森羅万象は悉く空なる状態だ。生ずると言っても、何も新しく生ずるものではない。滅すると言っても、全てが一切無くなってしまうのではない。汚いとか綺麗とか、増えたとか減ったとかは、夫々の事物に囚われ、肉眼で見る差別の偏見から生じている錯覚。達観すれば、心眼で見れば、万物は、不生にして不滅、不垢にして不浄で、不増にして不滅。

()故空中(こくうちゅう)無色(むしき)無受想(むじゅうそう)(ぎょう)(しき)無眼(むげん)耳鼻(にび)(ぜつ)(しん)()無色声(むしきしょう)香味(こうみ)触法(そくほう)無眼界(むげんかい)乃至(ないし)無意識界(むいしきかい)


そのような訳だから、空による認識世界の中には、色もないし、受・想・行・識の精神世界もない。眼・耳・鼻・舌・身・意もない。色・声・香・味・触・法も無いし眼界から意識界もなく、一切は実体がないのだよ。

一切の客観世界、眼に見、耳で聞き、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、身に触れる世界はすべて実体がない、あるように思うのは識だが、それも実は実体がない。

 

受・想・行・識―この四つは、意識-こころ-の世界で全て主観に属する。主観の主観は第四の識で、この意識が客観の色と交渉し関係することにより生ずる心象―こころの姿―が受と想と行の三つである。それも「空」だと言う。

 

眼界乃至意識界――十八界を言う。
六根――眼・耳・鼻・舌・身・意(心の作用の事)六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)(山伏が唱える)
六境――色・声・香・味・触・法
六識――見・聞・嗅・味・触・知

 

眼界―眼を中心とする一つの世界。
最初の「眼界」と最後の「意識界」の中間に「耳の世界」「鼻の世界」「舌の世界」などを乃至という言い方でまとめ、省略している。

 

我々の住んでいる世界、色は、つまり一切のものは全て空なる状態。ただ因縁により仮に有るものだから、執着すべきなにものでもない。識が無ければ「心、ここにあらざれば、見れども見えず」。
私たちの認識が無ければ一切の万物は存在しない。「因縁により出来ている一切は皆空なり」

 

この般若の空に徹底すると、生の儚なさを知ると同時に、だから生の尊さを知ることになる。生は、はかないが故に尊いのである。死なねばならぬからこそ生が尊いし在り難い。生の限りない尊さを味わうものにして、初めていつ死んでも構わないという尊い体験が生まれる。いつも明日という人は今日の尊さを知らないといえる。

無無明(むむみょう)(やく)無無明尽(むむみょうじん)乃至(ないし)無老死(むろうし)亦無老死尽(やくむろうしじん)


そして、無明も無いし無明の尽きることもない。老死もないし老死の尽きることもないのだよ。

主観的にも、宇宙の真理を語る智慧そのものもまた空だ、というのが「無明もない」「老死もない」と言う事。要するに十二因縁も空。

 

十二因縁――因縁の内容を十二の形式により説明したもの。
―無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死

要するに因縁の範囲を示したもの。

 

万物は、このように空なるのが実体だから、執着し囚われないことだという。諦めることだ。諦められない人こそ宗教が必要なのだ。小さい自我に囚われている限り人生は苦である。心眼を開き、因縁の真理に徹して無我の天地に参加すれば煩悩も、捨てるべき無明―迷いもない、という事であろう。至難である。

 

仏陀釈尊は言われた。「過去の因を知ろうと思えば、現在の果を見よ。未来の果を知ろうと思えば、現在の因を見なさい」と。因果応報の因縁の原理は冷徹にして冷厳なる真理である。

無苦集滅(むくじゅうめつ)(どう)

四諦、即ち苦諦も集諦も滅諦も道諦さえも無い。

四諦(したい)」――苦を除去する真理
苦諦(くたい)――この世は苦であるという絶対真理。
集諦(じゅうたい)――苦の原因を考える、苦の原因は煩悩や執着という真理。
滅諦(めつたい)――苦を消滅させる真理。
道諦(どうたい)――無明を無くし悟りに至る、無明を消滅させる真理。

 

(はっ)正道(しょうどう)――仏陀はこの悟りの世界へ行く方法を八つ示された。
正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定

無智(むち)(やく)無得(むとく)()無所得(むしょとく)()

万物は智も無ければ所得するものも無い空なのだ。見えるものも、見えないものからも、何も実体は得られない、だから次のようになるのだ。

およそ一切の万物は、全て皆空-かいくう-「空の状態」。「五蘊」も無い、「十二因縁」も「十八界」もない。「四諦」もない、「一切は空だ」ということ。存在するあるゆるものは仮生だとし一切を否定する。

 

その空を悟ることが、般若の智慧を体得したこととなる。一切は空なりと悟ることが、般若の智慧を体得したということ。我々はすぐ智慧に囚われるが、しかしそんな智慧というものも、もともとあろう筈がない。智慧ばかりではない、そういう体験をしたらば、何か「所得」があると期待するが、利益や功徳などあろう筈も無いのだ。というのがこの意味。ここまで、すべてを否定したこととなる。

菩提(ぼだい)(さつ)()般若波(はんにゃは)()(みつ)多故(たこ)(しん)()けい()()けい()()無有(むう)恐怖(くふ)遠離(おんり)一切(いっさい)顛倒(てんどう)夢想(むそう)究竟(くうきょう)涅槃(ねはん)

「このような菩薩の般若波羅蜜多の智慧の教えによるが故に、即ち無所得の境地で心を綺麗さっぱりとするからこそ、心にわだかまりが無くなる。心にわだかまりや障害がないから何の恐怖も有り得ない、転倒し夢想するような妄想から心が解放されて安心―あんじんーが生じ究極の覚りを得られるのだ。」

ここが般若心経の核心だと私は思う。無所得にして初めて所得がある。「あはれみをものに施すこころよりほかに仏の姿やはある」慈悲の心こそ菩薩、仏の心。

最終にして最上の涅槃が、究境涅槃、即ち悟り。往生するとは死ぬことではない。この世でこの境地を得る事が極楽浄土、生きて心の浄土を得るのだと思う。

三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)()般若波(はんにゃは)()(みつ)多故(たこ)得阿耨多羅三藐三(とくあのくたらさんみゃくさん)菩提(ぼだい)

三世の諸仏、即ち無限にして悠久の過去未来の覚者も、この般若波羅蜜多の智慧に拠るから「あのくたらさんみゃくさんぼだい」と言うこの上ない智慧を得られるのだよ。

「あのくたらさんみゃくさんぼだい」とは、全ての智慧が集まっておる、無上正等覚、この上もない真実な悟り、という意味である。

故知(こち)般若波(はんにゃは)()(みつ)()()大神(だいじん)(しゅ)()大明(だいみょう)(しゅ)()無上(むじょう)(しゅ)()()(とう)(どう)(しゅ)能除(のうじょ)一切(いっさい)()真実(しんじつ)不虚(ふこ)

このようなわけだから、般若波羅蜜多の智慧は大神呪、即ち大真言であり、大明呪、無上の大真言であり、これと等しい真言は無く、これにより一切の苦厄を取り除けられる、これは真実にして大真言なのだ。

 

故説(こせつ)般若波(はんにゃは)()(みつ)多呪(たしゅ)即説呪曰(そくせつしゅわつ)掲諦(ぎゃてい)掲諦(ぎゃてい)波羅掲諦(はらぎゃてい)波羅僧掲諦(はにそうぎゃてい)菩提薩婆訶(ぼうじそわか)般若心経(はんにゃしんぎょう)

このように菩薩は般若波羅蜜多の真言を説かれ「この真言で悟りの彼岸に達した。みなも悟りの彼岸へ行かしめた。凡ての人々を行かしめた。かくして自分の覚りの道は成就した」即ち「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそうぎゃーてい、ぼうじそわか」と唱えられて般若心経を説き終わられた。

これは翻訳されない呪文である。秘蔵真言文である。強いて説くならば、「ぎゃーてい」とは往く事に於いてであり、どこに行くのかは、向こうである。悟りの彼岸である。「はらそうぎやーてい」、はらは、向こう、そうぎやーてい、は到達する。仏と一緒になる。「ぼうじそわか」、菩提は悟り、そわか、は成就を意味する。として纏めてみると、

「こうして悟りの彼岸に行った。みなも悟りの彼岸へ行かしめた。凡ての人々を行かしめた。こうして自分の覚りの道は成就した」、となる。

 

このようなお経は下手な解説をしないほうがあり難いのかもしれないが、現代人にはやはり知的アプローチが重要であろう。何故ならば、中世の飢餓と貧困と戦乱の鎌倉時代の大衆には来世に救いを求めさせるしか救いが無かった。更に多くの人々は無知であった。当時と異なりレベルの高い現代人にはそれなりの知的アプローチが宗教にも必要と思うから敢えて挑戦して独自意訳とした。

 

私は宗祖の教えの理解も大切だがお釈迦様の言われた言葉がどうしてもっと直接に我々に伝わらないのかに疑問がある。お釈迦様は、あの世の事は言われなかったと聞いている。そして、人を拠り所にするな、仏法を拠り所にしなさいと。あくまでも頼りにしなくてはならぬのは自分だと言われた。自分がしっかりしなくては誰も助けてくれない。これは本当に真言中の真言だと確信する。そして、言われた、自分で自分の心を鍛えなさいと。それには自分の姿を反省して正しい生活をすることだと。頼りになるのは自分の心だと。私はこの心の持ち方が最高の救いだと信じている。

 

上述の通り、お釈迦様は自分を神格化されていない。お釈迦様の臨終の言葉がある。「人生は苦に満ちている。然し、この世は美しい。人の命は甘美なものだ」である。

 

人生は諦めてはいけない。人生は自分の努力、心がけ次第で開拓できるというのは真言であり真実であり真理だと思う。お釈迦様もそう言われているように思う。般若心経の教えも結局は心を説いている、これが私の仏教理解であります。山家集「一切は心より転ず。」徳永圀典「一切は心より発する。」完