「人つくり本義」その二 安岡正篤 講述 「人つくり本義」索引

          人づくり入門  小学の読み直し 

三樹(さんじゅ) 一年の計は(こく)()うるに()くはなし。

十年の計は木を樹うるに如くはなし。

終身の計は人を樹うるに如くはなし。  菅子・権修


平成22年10月1日

 1日

小学書題 

(小学序文)

古は小学・人を救うるに、灑掃(れいそう)・応対・進退の(せつ)、親を愛し長を敬し、師を尊び友に親しむの道を以てす。

 2日

皆、修身(しゅうしん)斉家(せいか)治国(ちこく)(へい)天下(てんか)(もと)たる所以(ゆえん)にして、而て必ずそをして講じて、之を幼穉(ようじ)の時に習わしめ、其の(しゅう)・知(とも)に長じ、()・心と(とも)に成って而て扞格(かんかく)(かち)へざるの(かん)無からんことを欲するなり。

 3日

今、其の全書見るべからざると雖も、伝記に(まじ)り出づるも亦多し。読者往々(おうおう)(ただ)に古今()を異にするを以て、之を行うべからざるにあらざるを知らざるなり。

 4日

今、(やや)蒐集して以て此の書を為し、之を(どう)(もう)に授け、其の講習を(たす)く。庶幾(こいねがわ)くは風化(ふうか)の万一に(おぎない)あらんと云うのみ。
      敦熙(とんき)丁未(ていみ)三月(さく)(たん)  (しゅ)(かい)(あん)

 5日 人間の根本的なこと

灑掃(れいそう)は拭き掃除、応対、進退は応対作法のこと。こういう根本的なことが出来て初めて修身(しゅうしん)斉家(せいか)治国(ちこく)(へい)天下(てんか)といったことに発展することが出来る。

 6日 人間の原理・原則

学問に限らず、如何なる問題にしても、それを進めてゆく上の原理・原則というものがある。ルールというものがある。これを無視してはスポーツも出来ないし、碁・将棋もすることが出来ない。

 7日 人間の基礎条件を厳格に

手術をするにも、基礎条件というものがある。先ず、あらゆる消毒から始まって、器械・器具を整え、医者も看護婦も手を清めて、そうして精神を統一してはじめて手術にかかる。この基礎条件を厳格にすればする程成功する。

 8日 小学は

人間生活の根本法則

小学は人間生活の根本法則である。だから昔から人を教えるには小学を以てするのである。人間生活のよって立つ根本はなんと言っても道徳であります。従ってその道徳の基本的な精神・情緒といったものを培養しなければ人間の生活は発達しない。ことに灑掃(れいそう)などというものは科学的に言っても大事であります。

 9日 立つこと

人類文明の第一歩は人間の前足が手になると同時に頭が活躍しはじめたことにあるわけで、従って弊害もそこから始まると考えて間違いないのであります。
第一、     立つということは、地球の引力の法則に反するから、それだけでも疲れる。だからお楽にという時には必ず横におなり下さいということであります。立つことによって生じた病気や弊害は沢山あります。例えば、胃下垂だの内臓下垂だのというものはみなそうであります。

10日 四つん這

そこで人間は時々四つん這いになると全く物を考えない。これは動物に還るのであるから当然のことであります。その点、古人はよく考えております。禅堂や道場等ではつとめて拭き掃除をさせた。毎日学問、朝から晩まで修養では神経衰弱になって、胃腸障害を起し勝ちであります。従って、これは労働ではなくて本当は養生であり、療養であったわけであります。

11日 応対

また応対ということも大事なことであります。人間というものは何かによって自分を試練しなければならない。相対するものがあって初めて我々の意識や精神機能が活発に働くのであります。

12日 一番の根本が応対

アーノルド・トインビーがその歴史研究に用いている一つの原理は challenge(チャレンジ) and(アンド) response(レスポンス) という事でありますが、良い意味に於いても、悪い意味に於いても、この二つによって世の中が動いてゆく。そうしてその一番の根本が応対であります。

13日 人は応対によって決まる

人は応対によって先ず決まってしまう。武道などやると尚更よく分るのでありますが、構えた時に本当は勝負がついている。やってみなければ分からない、などというのは未熟な証拠であります。尤もそれがわからないから面白いのでもあります。

14日 人間は応対次第

応対というものは実に微妙なもので、人間は応対によって泣いたり笑ったり、すべったり、転んだりしておると言って宜しいのであります。

15日 幼稚の時に習わしめるのが肝要

そういう灑掃(れいそう)・応対・進退のしめくくり、また親を愛し、長を敬し、師を尊び、友に親しむの道は、みな修身(しゅうしん)斉家(せいか)治国(ちこく)(へい)天下(てんか)(もと)たる所以(ゆえん)であって、しかもこれを幼稚の時に習わしめる。この幼稚の時に習わせることが大事であります。後年になってそれが色々に現われて来る。

16日 絶えざる練磨

そうして、「其の(しゅう)・知と(とも)に長じ、化・心と(とも)に成って而て扞格(かんかく)(かち)へざるの(かん)無からんことを欲するなり」。扞格(かんかく)は矛盾・衝突であります。人間は絶えざる練磨によって矛盾・衝突が無くなり、だんだん本能的・直感的になって来る。

17日 其の習・知と与に長じ

自動車の運転一つにしても、最初のうちは車と運転者とか(あい)扞格(かんかく)して抵抗し合っておるけれども、だんだん練習しておるうちにそういう扞格(かんかく)がなくなって、車と人が一体になって来る。スムースにいくようになる。つまり無意識的活動になって来る。そうなると、意識や知性では知ることが出来ない真実の世界。生命の世界に入ってゆく。即ちこれが「其の習・知と与に長じ」であります。

18日 直観の世界

扞格(かんかく)がある間は、そこに意識があるから知性に訴える。それが次第に知と共に長じて、無意識的に行動するようになる。その直観というものは内的生命の統一から出来るもので、相対性知性の及ぶところではない。そうして物事は次第に化してゆく。

19日 時間をかけて習熟する必要

ここに所謂、心の世界・直観の世界というものが開けて来る。これが「()(こころ)(とも)に成る」というもので、物事はどうしても時間をかけて習熟する必要があるのであります。価値のあるもの、精神的なもの程インスタントでは駄目であります。肉体でも、動作・活動でも、修練を加えて初めて医学的に所謂全解剖学的体系の統一活動というものが出来るようになるのであります。

20日

学問もそうであります。「今其の全書見るべからずと雖も伝記に(まじ)り出づるもの亦多し」だから昔の話だからと言って、これを捨てるということは、原理・原則に反する。

21日 人間の原理・原則の書

人間の原理・原則というものは古今東西などによって変わるものではない。人間として生きてゆく以上どうしても行わなければならぬもので、行うことの出来ないもの、行うてはならぬものであったならば人間が知る筈がないのである。それを知らないで、昔のことだからと言うので放っておくということは、これは無知である。

22日 成人の書

これを童蒙の書の如く考えるのでありますが、それ間違いで、小学は童蒙の書であると共に、立派な成人の書というべきであります。

23日 人間の三不祥と三不幸

荀子(じゅんし)に曰く、「人に(さん)不祥(ふしょう)あり。(よう)にして而も(うべなえ)て長に(つか)へず。(せん)にして而も()(つか)へず。不肖にして(うべなえ)て賢に(つか)へず。是れ人の三不幸なり」。

24日 愛だけで

敬を忘れている現代人。

日本人は孟子は読むが荀子は余り読まないようであります。然し、経世済民の上から言えば、荀子の方がはるかに現実的で社会的であります。また人物履歴もすぐれた人であります。孟子を読む以上は荀子も必ず読んで欲しいものであります。
「幼にして而も肯て長に事へず」、幼にして長に事えないということは、いとけなくして敬することを知らないということになる。敬というものは、東洋哲学は言うに及ばず、西洋でもしきりに説くことであって、例えばカントの道徳学にしても、これを一つの基本にしておるのでありますが、それにもかかわらず人はみな愛だけを説いて敬を忘れている。

25日 愛は動物にもあり

愛は禽獣でもこれを知り、且つ行うことが出来る。人間が動物から進化して来た一つの原動力は愛と同時に敬する心を持つようになったことであります。

26日 恥ずるから慎む

現実に満足しない。即ち無限の進歩向上を欲する精神的機能が発して敬の心になる。換言すれば現実に甘んじないで、より高きもののより貴きものを求めるという心が敬であります。そうすると相対的原理によって必ず恥ずるという心が湧いて来る。恥ずるから慎む。

27日 愛するだけでは人にならない

愛というものは敬や恥の心を生かす体液のようなものであります。人間の内臓や血管というものは、血液をはじめとするあらゆる体液の中にある。血球も塩水の中に浮いている。従って、愛するだけでは人にならないのであります。

28日 忘れている

敬と恥

今日も愛ということはみんなが言うけれども、敬とか恥とかいうことは全く忘れてしまっている。忘れるどころかこれを無視し、反感を持ち、否定しようとしている。

29日

然し、幼児はこの心を最も純真に持っておるのであります。幼児は物心ついて片言を話すようになると、明らかに敬の対象を求める。両親の揃っておる時には、専ら母を愛の対象とし、父を敬の対象とする。愛されると同時に敬する。

30日 敬を本能とせよ

しかも自分も敬されることを欲するのであります。どんな小さな子供でも、お前はえらいとか言って誉められると必ず喜びの笑みをもらす。だから子供に対しては叱ることは構わないけれども、無暗にさげすむことはいけない。これは子供の価値を否定することになる。つまり不敬であります。

31日 国民教育の根本的な欠陥

その幼児が今日敬することを知らなくなってしまった。これは今日の国民教育に根本的な欠陥がある証拠であります。今までは親の言うことは聞かなくとも、先生の言うことだけはよく聞いたものであります。処がその先生が今では敬されずに侮られる。挙句の果ては警察の力を動員しなければ中学校や高校の卒業式を行うことが出来ない。こんな教育ならば止めたほうがましであります。「(せん)にして而も肯て貴に(つか)へず」「不肖にして肯て賢に事へず」要するに同じことであります