安岡正篤先生「一日一言」 その一

私の蔵書の中から、ランダムに、記憶を呼び戻しつつ、安岡先生の言葉を、一日一言としてまとめてみたい。
安岡先生は、「佳いものは何でも佳いが、結局、佳い人と、佳い書物と、佳い山水との三つである」と云われた。至言である。この三つの中で、一番大切で、生きて行く上で大きな意義のあるのは「佳い人とのご縁」であろう。何かの機会にご縁で深く結びつくのは人生の華と言えるかもしれないのであります。佳い人と会い、会話を楽しみ、一献を共にする時、人は生きて佳かったと思うのではなかろうか。佳い人との出会いは、お互いの価値観が合致した時に結びつくことが多い、常に自己反省に務めて心魂の錬成をなすべきだと思う。鳥取木鶏会を通じて結ばれてもいる同士が更に同志となり日本の一隅を照らす一灯となりたいものであります。そこで、私の学びました安岡先生の言葉の数々をご披露して参りたいと思います。  平成24年10月

1日 勝縁を結ぶ 大抵は思いがけない書を読んだとか、友を得たとか、そういう縁によって、平生意識的・無意識的に求めたいた事がいい実を結ぶ。それで出来るだけ勝れた縁、勝縁を結ぶことを心がけなければならない。こういう心がけを以て、先ず自分自身の精神革命をやらないと、本当に安心して暮せない。(人間維新)
2日 苦中に学有り どうしても世の中の苦労をなめて、世の中というものがそう簡単に割り切れるものではないということがしみじみ分かって、つまり首を捻って人生を考えるような年輩になって初めて学びたくなる。また学んで言い知れぬ楽しみを発見するのであります。然し、若い人でも逆境に育ったり、或は病気をしたりして、うかうかと暮せないような境遇に立ったものは、やはりこれに魅力を持つようであります。      (論語・老子・禅)
3日

機慧、敏慧

学問求道というものは、常に反芻する必要がある。繰り返し、繰り返し反芻することが大事であります。散漫を防ぐことに心掛けねばなりません。それと同時に、頭をよく働かせる。頭というより寧ろ心を働かすということ、専門用語で言うと、「()(けい)」、「(びん)(けい)」です。頭を働かすなら機智でよいのですが、知慧、即ち機械的な智性の作用よりももっと深い生命を含んだものの意味で機慧といいます。
4日 精神の行き詰まり 我々日本人は明治以来えらく、それこそ世界の奇跡などと言われて大層な進歩繁栄をしたもののように、いつの間にか自惚れておったのですが、実はその間にとんでもない抜かりが沢山あったのであります。あらゆる行詰りは究竟(きゅうきょう)すると、心の精神行き詰まりに外ならないのですが、これが中々気づかないものなのです。             (日本の運命)
5日 虚と進化

物の生命が、自然であればあるほど無意識ですから、言い換えれば「虚」である。虚を致すことに極まるとは、つまり造化と一体になることです。そうすると雑駁莫でありませんから、静になります。機械でも本当に性能がよくて完全に動いている時は、しんとした観じ、落ち着いた感じがします。それが雑駁になってくる程ガタガタ騒がしくなって来る。静を守ること篤いというのは統一が深いということです。    (東洋学発掘)

6日 精神革命こそ 人間そのものをよくする以外に人類の幸せはあり得なくなる。人間の精神を強靭なものにすることによって、環境をよくしなければいかん。自然科学を発展させようと思えば、その何倍もの力を注ぎ、精神風俗をよくすることに懸命にならなければ人間は滅亡に向かって驀進するということになる。科学技術にうつつを抜かしておる人間は、往々にして哲学や道徳を馬鹿にする。これほどの倒錯、錯誤はない。まさに反対である。(東洋人物学)
7日 天が与えた道を求める 人間が学問をするということは、万物の驚異である。学問に依って始めて人間は真の人間になるということができる。それほど学問は人間にとって大切なことである。しかるに、その学問が人間にとっていつのまにか何の意味だかわからぬものになってしまうことも頗る多い。元来、学問は天が与えた道を求める心、真理、智を愛する心の発展に外ならない。     (老荘思想)
8日

正しく生活すること

勉強するとか修養するということは、何かふだんやりつけない窮屈なことだと考えてる人が実に多いのです。そうではなくて、学問するとか修養するということは、我々の生活を正しくするということです。もっと率直にいうなら、いかに安心な、いかに自然な合理的生活をすることができるかと言う事です。 (講演)
9日 学ぶ意味は明徳を知ること 人が学ぶ最も大なる意味は、また大人のやる学問は、我々が天より得ているところの明徳、つまり色々な感覚、感情、情操、熱意的精神、そういうものを、出来るだけ光輝を発せしめてゆく、明らかにしてゆくことにあります。              (人物を創る)
10日 学んで思わざれば(くら) 「学んで思わざれば(くら)し。思うて学ばざれば(あやう)し」で、人間、学ばぬと真実がわかりません。そういう人生の生きた問題を解決することの出来る正しい学問を身につける、というのが教養というものであります。そして、そこからさらに進んで人間というものの本質、それから生ずる根本義について、明確な概念あるいは信念を持つことが大事であります。     (人物を修める) 
11日 善を学ぶ

学というものは、何か付け加えるというような方便的、手段的なものでは決してない。そもそも元来持っておる、生まれつき具えておるものを発達させるためのものである。天の生ずるところ、親の生んでくれたところを全くして、それをおとさない、いい加減なことにしない、というのが善学、善く学ぶと言うのである。 
                (天地にかなう人間の生き方)

12日 真人間になる やはり人間に大事なことは、真人間になるということです。真人間になる為には学ばなければいけない。人間の人間たる値打ちは、古今の歴史を通じて、幾多の聖賢が伝えてくれておる道を学ぶところにある。教を聞くところにある。これを()いて頼り得るものはない。              (運命と立命)
13日 道を学ぶ 人間も木と同じことですね。少し財産だの、地位だの、名誉だの、というようなものが出来て社会的存在が聞こえて来ると(ふところ)の蒸れと一緒で好い気になって、真理を聞かなくなる、道を学ばなくなる。つまり風通しや日当たりが悪くなるわけです。そうなると色々な虫に喰われて、つまらぬ事件などを起し意外に早く進歩が止まって、やがて根が浮き上がり、最後には倒れてしまう。       (活学第三編)
14日 青少年は早く若朽(じゃっきゅう)する 「少年老い易く、学成り難し」とし誰も吟ずる朱子の詩句であります。これは大人が感ずる心境で、青少年時代には、こんなことを感ずるものではないのですが、青年としては特に速く自覚して置かねばならぬもっと恐ろしいことがあります。志を立てて努力しないと、案外速く青年もだめになるということです。                    (日本の父母と青年に)
15日 学習とは 学習とは、頭に覚えた事をこういう所でマイクの前で喋るだけでは問題にならない。我が身につけて、それを実行しなければ宝の持ち腐れに終わってしまう。だから、まず頭に学んで、朝な夕な、火花の散るほどこれを習う。実行する、身につける、それでこそ初めて嬉しい、喜ばしい。  (安岡先生に学ぶ人物学)
16日 自分を作り直す 学問というものは矢張り現実から遊離したものは駄目でありまして、やはり学問というものは自分の身につけて、足が地を離れぬように、その学問、その思想を以て自分の性格を作り、これを自分の環境に及ぼしてゆくという実践性がなければ活学でありません。(講演集)
17日

体現、体得

学問・知識などというものは単なる論理的概念に止まっておる間は駄目でありまして、これを肉体化する、身につけるということが大事であります。所謂、体現・体得であります。西洋で申しますと、enbody 或はincarnateと言うことであります。そうなると直ぐ顔や態度に現われる。  (大学と小学)
18日

学ぶ妙味

どんな科学の一分野、どんな一物からでも、それを究め尽くせば必ず真理に到達してゆく。結局、最後は大きな宇宙、天、地といったような問題にぶつかる。どこから入ってもいい、どこから入っても、あらゆる学問というものを追求してゆけば結局こうなる。ここに学問の妙味がある。           (東洋哲学講座)
19日 学問は楽しく 学問・求道することは何か難しいことのように思う誤解が多い。然し、決して難しいことでも、煩わしいことでも何でもないのでありまして、却って我々が常に何か意義あることに全身全霊を打ち込んでいくのは楽しいことなのです。学問することは楽しいものであります。               (朝の論語)
20日 逆境・難境 人間は逆境・難境に遭遇すると、いかに学問が大切であるかということが分ります。真の学問をやっておれば、しみじみ問題を考えることができる。考えることが出来れば、自らそこに光も差す、期待もわく、また楽しみも生じてくるというものです。だから人間はやはり学問をしなければいけません。 (干支の活学)
21日 技は偽

現代文明の一つの危険は、自然を犠牲にして、技巧に走ったということ、その禍を今も深刻に受けております。自己疎外・人間疎外も、つまりそれです。技巧の技という字は、手扁に支で、支は分派、岐れるという字であり、本流に対して支流・分派・派生・末梢化・分裂・衝突になります。つまり、技は偽に通じます。人が為す、それが真実を自然を誠を失うと、「いつわり」になります。            (青年の大成)

22日

無心に働く

我々は怠けておってはいかん。と云って色々邪念・妄想を持ってもいかん。身を挺して無心にとにかく働く。そうすることによって、先ず自分自らの「平和と歓喜の曙光を迎えよう」。自分がいかに無力であっても、多数集まれば、一つの灯がいかにほのかであっても、千灯万灯ともなれば、それこそ輝く大いなる光になるのと同じことである。         (心に響く言葉)

23日 一点集中 人間生活の秘訣は、全て自分の精神をある何ものかに集中するにあります。我々はいつでも、意義のある、感激のある仕事に自分の全身全霊を打ち込んで暮らすに限るのであります。精神を、ある一つの事に集中すると霊感や機智が生ずるもので、そうすると異常なことが出来るものであります。        (運命を創る)
24日 内と個に徹する 人間は現象的に煩雑になればなるほど、根源から遠ざかり生命力が弱くなる。内面生活の充実を忘れて徒に煩雑な外面の現象にとらえられておると、だんだん生命力が減退してくる。だから生命力を強くする為には常に内にかえらなければなりません。内に反って己に徹し個に徹するほど力が出でくるのであります。(呻吟語を読む)
25日 人間は精神が根本 人間の人間たる所以は心を持っておると言うこと、大自然の思想、造化の神の営みによって人間は精神の世界を持つようになったと言うことです。草木で言えば根から始まる、人間で言えば精神が根本、心が始まりである。これをお留守にしては駄目だということが、この頃では哲学よりは寧ろ科学の分野からこれを論断するようになった来ました。           (講演集)
26日

.敏とは

敏と言うのは、我々が与えられた素質や能力を出来るだけ活発に働かせることであります。事業で言うならば、例えば工場をフルに働かせて能率と成績をあげることです。つまり鈍の反対であります。敏行とか敏求ということは人間に大切なことです。而るに我々は折角与えらておる自己の素質や能力をフルに使わぬものであります。                  (暁鐘)

27日 理想は無限 理想というものを天を以て表しているのは、それが一番能く理想の本質を表しているからであります。理想というものは第一無限でなければならない。造化が無限そのものなんだから、従って理想というものはあくまでも無限でなければならない。そして同時に変化そのものでなければならない。限りなく変化を含むものでなければならない。無限ということは変化ということです。これは理想の特質ですが、それを表すもの天に()くものはない。天は無限である。天ほど変化にとんだものはない。      (東洋学発掘)
28日 百にして百と化す

淮南子(えなんじ)」の中には、(えい)(きょ)(はく)(ぎょく)のことを()めて「行年(ぎょうねん)五十にして四十九の非を知る」と言うておる。さらに続けて「六十にして六十化す」と書いてある。要するに六十にして六十化すと言うことは、エビの如く常に生命的であり、新鮮であり、進化してやまぬと言うことであります。だから「七十にして七十化す」となれば、なお目出度い。「百にして百化する」ことが出来れば、こんな目出度いことはないのであります。             (干支の活学)

29日 有志者の集いを

仏人・A・カレル氏も、『人間、この未知なるもの』で力説しているように、「現代社会をよく革新するためには、一般俗人と見解や生活態度を異にした有志者のグループを作る必要がある。そうした人々の数は必ずしも多きを要しないと。この恐ろしい、失われゆく人間性を回復することは、どうして出来るか。それは結局個人の中においてより外はない。     (人生の大則)

30日 大衆心理の本質 人間はとかく、日常生活の退屈に流れてしまって、何かと刺激を要求するものであります。何か珍しい話を聞きたがるものである。ニュースを求めるものである。そのニュースもただのニュースでは面白くない。何か変わった事、刺激の強いもの、異常なものほど実は満足するのであります。これは世界どこの国でも大衆心理と言うものでありましょう。人間はとかく、自分の存在、自分の責任、自分の使命というような事を忘れていい気になって他を論じ易い。      (講演集)
31日 没頭する とにかく、人間は常に感激を以て時には食も忘れ、何かに没頭する、精進する。そうすると、外にどんな苦労があっても、それとは別に何となく心が楽しく、自然とくだらない浮世の煩いなど忘れることができます。そして生き生きと働いて行く事ができますから年などとりません。               (朝の論語)