人物と教養A  安岡正篤先生講話 

安岡正篤先生が、住友銀行の主管者(しゅかんじゃ)(住友銀行では経営者の謂いであり部・支店長の事)に対して十回に亘り講話された事がある。時は昭和51年から52年にかけてであった。安岡先生の高弟である岩沢正二副頭取の時であった。その全講話記録を開陳する。
                  平成248月吉日 徳永岫雲斎圀典
平成24年10月

1日 複雑劇的な中国 それに較べると将に中国は易姓革命の国であります。もうその歴史というものはあらゆる戦争、革命、叛乱の繰り返しでありまして、実に複雑で劇的です。 従って日本とは対照的な民族性や社会道徳を作り上げていますから彼らを日本人的に考えるとしばしば誤ります。
2日 メファーツ

例えば「()法子(ファーツ)」という語があります。日本人はこれを「仕方ない、もう駄目だ」という意味に解しておる。処が、向こうのメファーツは、同じ仕方がないでも決してそんな消極的なものではない「仕方ない、よしっ!やり直しだ」という積極的な決意を含んだメファーツなのです。それは彼等が絶えず異民族の侵略や征服これに対する叛乱・革命を経験して凡そ安定とか永続とかいうことに信を持てない地位も名誉も、財産

も、生命すらも確かでないということを身を以て体験している民族だからであります。だから、昔は名刺でも彼等のものは日本人のようにごたごた書いてなかった。ただ、名前だけが刷ってあって、時に出身県名ぐらいを書きとめる程度になっていました。それだけ地位だの名誉だのというものに信をおかない。何事に対しても懐疑的であり虚無的です。
3日 信じるのは裸の人間同志の交り

然し人間である限り何かを信じなければ生きてゆけません。そこで中国人が最後に信じるのは、裸の人間同士の交であります。最も虚無的である中国民族が最も人間的でありまして、彼らの親友の交、信義・道徳というものは本当に深いものです。

(岫雲斎は懐疑的、共産主義によりこの見方は破綻したと見る。現代は小中国人ばかりでこれは戦前の大人の時代か。だが傾向は認める、)それで中国人を相手に仕事をしようとすれば、先ず裸になって、信じられる、頼られる、愛される人間にならないといけません。
4日 老酒(らおちゅう)中国人

と言っても反面に於てまた当然ですが、彼らは老獪な人間であります。容易に喜怒を外に出さないし、真実を表さない。相許さない。老獪の老という字が最もよく中国文明を表しております。

これは年を取るという意味の外に、なれる(、、、)ねれる(、、、)という意味を持っておる。酒でも老酒(らおちゅう)と言います。
5日 生一本の日本人

これに対して日本は生一本と言うように、純粋で、怒り易く、きびきびしている。それだけ単純であります。所謂、なま(、、)のです。友達とのつきあ

いにしてもそうです。向こうは仲の悪いものほどお互いに慇懃丁寧ですが、相許した仲は却って他人からみるとそっけないものです。
6日 日本人に分からぬ点 かって私は山東で呉佩孚将軍を訪ねたことがあります。その時に、もう亡くなられましたが根本中将が、呉佩孚と最も親しいという或る知名人を供につけてくれました。向こうへ参りましたところが呉将軍の側近で私もよく知っておった人物が、密かに私に「将軍と 懇談される時は、あの人物と一緒に来てはいけません。あの人は将軍に信用されていないのです」とこう言って注意してくれました。そういう所が、どうも日本人には分らない。だから大きな失敗もするわけです。
7日 複雑怪奇な中国人の典型 また局面一転すると福転じて禍となるというような人物も多い。毛沢東などもその一人でありまして、なかなか複雑怪奇な人物であります。私が親しくしていた湯恩伯将軍がいつか彼についてこう言う面白い話をしてくれました。或る時将軍が水を飲んでおった所が、傍で毛沢東も熱心に何か読んでおる。それで将軍が 英雄哲人の本でも読んでおるのかと尋ねたら毛沢東はいや、そんなものは読まない。英雄哲人は放っておいても英雄哲人であるからどうでもよい。政治の秘訣は、悪党小人を如何に支配し操縦するかということだと答えたという。これを聞いて湯将軍も改めて考えさせられたということです。
8日 単純居士では翻弄されるだけ 毛沢東という人はそういう人ですから自分の都合次第でいつどうなるか分らない。文化革命以来、多年の同志である劉少奇を初めとして大勢の人を所謂粛清しましたが、こういうことは我々日本人には想像も 出来ないことです。だから、日本が中国を相手にしようと思えば、到底(なま)では太刀打ち出来ません。単純居士では翻弄されるだけです。
9日 (ろう)()のこと 日中事変最中の、まだ小倉先生も元気で南京におられた時でしたが、日中両国の学者が集まって懇談したことがあります。その時、向こうの老学者が「日本軍が侵入してきた一番困ることは、わが国の(ろう)()を壊すことだ」と言いました。陋はいやしい、規は道徳・規律で、つまり一般庶民、下層階級の道徳・規律のことを中国では「(ろう)()」というわけです。こに対して知識階級・支配階級の道徳・規律のことを「清規」と言うています。例えば、博打や泥棒の仲間にもお互いに賄賂等の取り決めや約束事があって、これを無視すると博打も泥棒もできないのです。 賄賂と言っても日本と中国では大分意味が違います。彼らは収入や俸給が少ない上に、大家族制度の社会ですから生活が非常に苦しい。それで家族の中で誰か一人偉くなる者がおると、親子・兄弟は言うまでもなく、親戚から召使いに至るまで、みんなこれにぶらさがるわけです。だから少しぐらい偉くなっても、決まった俸給ではとても大家族を養うことはできません。その為に賄賂が公然と行われるようになる。
10日 賄賂のこと 然し、賄賂にも受け取ってよいもの、いけないもの、或はどんな風に受け取るか、受け取った賄賂はどう使うか、などというように色々賄賂に関する習慣や道徳ができておるわけです。
こういうのを(ろう)()というので
あります。その(ろう)()破壊すると何故困るのか。何千年来、中国の支配階級というのは、起ったり潰れたりで、いわば地上の建築物のようなものであります。
これに対して民衆、一般大衆はその土台であると言えます。いかに立派な建物でも、土台がだめだと何にもなりません。国家・民族も、土台になる民衆・大衆の道徳・規律が厳として存在して、始めて永遠・永続が保たれるのです。従って、(ろう)()を覆すということは中国の社会を覆すということになるわけであります。
11日 現代社会は非人間的 中国や日本の歴史を見ますと、本当に人間味豊かなものがあります。人間性という点から考えると現代社会は全てに機械化し、組織化して、人間味が希薄になり、非人間的になっています。確かにグレイト・アウエイクニングがないと、21世紀は破局になる可能性が十分あります。スペインのオルテガも言うておりますように、美しい立派な花を咲かそう、実を結ばそうと思えば、先ず枝葉末節を 整理し、根本を良くすること、即ち「君子は本立って道生ず」の一語に尽きるのです。この非人間的文明を真に人間味溢れるものにする為には、やっぱり本に反って、久しく忘れられていた人間自然の本性と美徳を回復するより外に道はありません。これがグレイト・アウエイクニングです。
12日 大いなる未来を開くには古典に返る必要 そして、それには先ず歴史を学ぶことが一番であります。歴史の中に蔵されている人間の美徳の勝れた文献・勝れた人物を発掘して我々自身の心田を肥やさなければ、人間としての進歩は言うまでも無く、事業の発展も、文明の創造もできません。大いなる未来を開くには古典に返る必要があります。それに気づかず追い立てられるままにこの現代文明に忙殺されるというのは、誠に危険な ことであります。まあ、以上のような趣旨によりまして、今後十回にわたり事情が許す限り、歴史の中の人物や学問を解説して皆さんのご事業に供したいと思っております。今日はその第一回ということで私の総論的感想を述べさせて頂いた次第であります。 
13日 第二講

学と道


歴史的古典的教養
今回からなるべく有益な文献に基づく故事成語を活用してお話を進めて参りたいと思うのでありますが、その前に先ず予備知識として、東洋民族の歴史的・伝統的な思想・学問の慣用語 或は本質的原理について少しく解説しておきたいと存じます。と言うのはそういうことをはっきり理解しておらぬと、とんでもない誤解を生ずるからです。
14日 ご承知のように満州事変以降、日本は政治的・産業的にも大変な勢で満州に発展しました。当時満州国の総理に鄭孝胥という長老がおりまして、その鄭総理がある会合で、失礼ながら日本人は経済の才に乏しいいう意味のことを言われた。丁度その時に満鉄の一要人がおりまして、その人が或る日の会で彼が我々を前にして経済の才に乏しいとは何事かと言って大層憤慨するので、いや、それはあなたの誤解だ。 鄭総理の言う経済の才とは「経世済民」意味なのです。なるほど、大学を出れば専門的な知識や技術は一通り持っておるが、大所高所から国家・民族を案ずる所謂「経世済民」の実力を持った人物はなかなかおらぬものである。鄭総理はその事を言われたのですよと言って説明しますとも要人も漸く納得しました。
15日 民は由らしむべし こういう誤解は今日でもよくあります。これは相当な政治家でありますが、或る知識階級の集まりで戦後の日本は民主主義の発達で、もはや昔のような「民は由らしむべし、知らしむべからず」ではなくて「民は大いに知らしむべし、由らしむべからず」の時世になりましたと言って得々としておるのです。 これも全然意味が違います。この語は論語から出ておるのでありますが孔子という人は一生を民衆の教化に尽くし常に民衆を導き民衆の代わりになって支配階級を教えてきた人です。そういう人が民衆には何も知らせるななどという馬鹿なことを言う筈がない。
16日 れは政治家・支配階級に向かって言われた語で、「民は由らしむべし」とは、民衆が信頼する政治家になれ、ということであり、「知らしむべからず」とは、民衆に指導者の意図する所を真に理解させることは困難であると云う意味なのです。知らしむべからずのらずは、禁止ではなくて、難しいという意味の言葉にほかならない。 民衆というものは、目先の問題や自分にとって切実な利害に関わることには敏感であるが、先々のことや複雑なこと、或は教理というようなことは、なかなか理解できない。だから民衆には、理屈を説明するよりも、民衆が信頼し、敬服して、指導者に任すようにしなければならぬというのであります。
17日 古典的教養の欠如 こういう食い違いは何処からくるかと申しますと、要するに古典を読まぬから正解しないからに外なりません。欧米の知識階級の家庭では、古典的教養を基礎にして、その上に新しいサイエンスや思想理論を学ばせる。処が日本は明治以来、西洋の近代文明に驚いて、むやみやらに西洋化を急ぎ、民族的・歴史的な古典的教養を放擲してしまいました。  その結果がこういう食い違いを生じ、特に戦後になって、あらゆる面に於て混乱を惹起しておるわけであります。従って、今日私どもが改めて東洋の文献に目を向けましても、一応歴史的・伝統的な教養の根本理念概念を学んでおかないと、なかなか理解することが難しいと思うのです。 
18日 道徳の本義と王覇の別 先ず「道徳」というものを採りあげてみたいと存じます。かって1964年秋のNATOのブラッセル会議で、アメリカのニクソン大統領の特別補佐官モイニハンが発言して、こういう事を申しましたここまで発達した科学・技術は今後改めて道徳と結びつかなければ、恐るべき破滅に瀕するに違いない。今日の文明がここまま進むと、恐らく10年乃至20年以内に、文明民族の半数がその犠牲になるだろう、と。 これを聞いて各国の代表は一様に大きな衝撃を受けたのでありますが、これは別にモイニハン一人の意見ではありません。人類をこの破滅から救うためには、道徳革命・精神革命が行われなければならぬ、というのが欧米各国の権威ある哲学者・社会学者・医学者等の共通の信念であります。
19日 そこで西洋に於ては道徳が改めて考察され、近代西洋文化だけでなく、東洋文化が注目を集め、ことにその歴史・思想等の研究が活発に行われています。今日、日本でも新しい所謂知識人など殆ど省みない古神道など、アメリカあたりでは盛んに研究されております。 つい最近も、カリフォルニア大学の教授が私を訪ねてこられて、熱心に古神道の話をするものですから、つい話もつりこまれて長時間に及んでしまいました。とにかくその熱心さには感心させられた次第であります。
20日 道徳に就いて さて、その道徳でありますが、凡そこの道徳という語からして日本人には正しい意味に於てよく知らぬ語なのであります。相当な人でも、道徳は大事であるが、人間は道徳から更に宗教にまで到らぬといけないふなどとよく申します。 これは宗教家というよりも、宗教に理解があると自認しておる知識人などに多いのでありますが、東洋学の原理からいうと、この言葉は全くのピント外れであります。
21日 道徳を簡単に説明します。東洋では宇宙人生というものを一貫して営んでおりこれがなければ宇宙・人生は成立しないという最も本質的なものを、名づけて「道」と言うておる。人間は、自然--天の一部分ですから天人(○○)であり天に基づいている如く道に基づいているのです。これに対して西洋では、人間を自然?天と対立させて考える。人類の文化も、要するに自然を征服し変革することに外ならない。だから西洋人は山に登 っても、アルプスを征服したとか、ヒマラヤを征服したとかいう言葉を使います。然し、昨今、東洋文化の研究が進み、人間は大いなる自然の中から生まれた最も進歩した生物であり、自然と人間とは決して対立したものではなくて、一貫したものである。天人合一である、という考え方が段々なされるようになって参りました。 
22日 人の心は天地の心 さて、その天人合一の考え方に立てば、当然、人が心を持つということは天が心を持つということになる。名高い宋代の名儒・張横梁という人はこれを主張して「天地の為に心を立つ」と言うております。大自然は長い間にわたる創造の後に、遂に人間というもの を創り出して、これに心というものを開いた。人の心は天地の心であり、人間から言えば天地の為に心を立てるのです。西洋流に言うと、神の為に心を立てる、即ち人の心は神の心であるということになります。
23日 先哲、先賢に学べ 実は、張横梁のこの語の後に三句続いておりまして、先ず「生民の為に命を立つ」。
一般民衆というものは、
ただわけわからず運命のままに生きておるのであって、人間は何が故に存在するのか、世の中は如何になりゆくのか、どうせねばならぬか、というような事、これが命であります。これは中々わからない。だから、その命なるものをよく教え示して、
人間とはこのようなものであり、このようにして、こうならなければならぬと、よく教え導いてやる、これが立命です。そして、「往聖の為に絶学を継ぐ」、即ち偉大なる先駆者、先哲、先賢に学ばなければならない。そこで初めて「万世の為に太平を開く」即ち永遠の平和を実現することが出来る。
24日  道徳の深意 この宇宙生成の本質であり、天地人間を貫くところの創造・変化、所謂造化の本質原理である「道」が人間を通じて現れたもの、 それを「徳」と言います。道と徳とを結んだのが「道徳」であります。
25日 「化」 徳は人間が営む社会生活を通じて現れるものでありますから、それはやがて経済、政治、教育等の社会活=「功」になって参ります。功はあらゆる人間活動を動かしてゆく「力」なのです。また道は、人間の如何にかかわらず、自ら作用を営む。それは驚くべき創造であると共に大いなる変化でもある。そこでこれを「化」という。子供が大人になり、老人になる。 これが化であります。道は万物を化する。「道化(どうげ)」です。サーカスなどに出てくる道化(どうけ)師のユーモアは、単なるだじゃれやふざけではなくて、どこか内に痛い程の道、真実というものが秘められていなければなりません。それでなければ道化にならないのであります。
26日 徳は社会活動を通じて現れるわけですが、その最も本領を発揮するのは教育であります。教という字は人が他のお手本になって後進を導くという意味ですから教師というものは言葉や技術で導くのではなくて先ずその人の徳がその人に接するものの手本にならなければいけません。と同時に教えられる方も亦よく人に聞くという態度が肝腎であります。ことであります。これに対して産業を興したり、学校をつくったりする、 つまり「功」は、これは色々生活活動を促進するから「利」であり「勧」である。ここから歓業という熟語が生まれてくるのです。最後の「力」の本質的作用は何かというと、これは「率」--ひきいるということです。とにかく行為というものは全て道・徳から出てこないと本当ではないという
27日 東洋政治学の根本 そうして人間社会が道に則って発達してゆくと、生活秩序が理法にかなって「正」しくなる。これを治まる(、、、)と言います。かくの如く、人間の手、技を加えると政--政治になる。だから政治の根本には道がなければなりません。力で引っ張ってゆくと、動あれば反動ありで必ず乱れます。 その根本の道を以て人間民衆を率いてゆく人を「王」と言う。王は徳を以て人を導き、人間を謙譲ならしめ、人間生活を治めてゆく。これに対して武力を以て率いてゆくのが覇者であります。王道・覇道は東洋政治学の根本範疇です。
28日 所謂道徳と宗教
敬と恥

人の人たる所以は、実に「道徳」を持っておるということです。そしてそれは、「敬」するという心と「恥」づるという心になって現れる。いくら発達した動物でも、敬するとか、恥ずるとか言う心はない。これは人間に至って初めて神が与えたものなのです。敬する心は、人間が限りなく発達を望んで、未完成なものにあきたらず、より完全で偉大なるものに憧憬れる所から生まれてくる、

これは人間独特の心理であります。そして敬する心が起ると、必ずそこに恥づるという心が生まれてくる。敬する心と恥ずる心とは相待関係のものでありますから、従って敬を知る人は必ずよく恥を知る人であり、恥を知る人は必ずよく敬を知る人である、ということが出来るわけであります。
29日 愛のみの教育の結果 処が、残念なことに今日の日本の教育を見ますと、その大切な敬という心を省みなくなってしまっております。これは日本が戦後取り入れた西洋の教育が、専ら「愛する」ということのみを重んずる教育であったということが一番の原因であります。言うまでもなく、愛というものは、女性--母の特性であります。 従って、愛のみを強調されて育った子供にとって、家庭てで大事なものは母だけということになり、その結果--父の存在意義は次第に薄れて、男はまるで働き蜂同様の待遇に甘んじなければならなくなってしまった。
30日 本能的に敬を求める子供

然し、子供というものは、決して愛だけで満足するものではありません。愛と同時に、本能的に敬の心を持っておりまして、子供はその敬の対象を親に求めるわけであります。よく幼児が父親の帽子をすっぽり顔までかぶったり、大きな靴を履いてよたよた歩いたりして、父親の動作を真似ては大人達を笑わせるのでありますが、あれは決していたずらや、ふざけてやっておるのではない。子供の父親に対する敬の本能的現われなのであります。従って、そういう点から言うと、

父親と言うものは子供に対して余り口やかましく言わぬ方がよい。それは母親の役目であって、それよりも先ず父親は子供の敬の対象、理想像になってやらなければいけない。理想像として子供のイメージを壊さぬような、また子供が自らにして敬の心を抱くような、そういう態度言葉、振舞いが何より大事であり、必要なのであります。
31日 (はべ)る、(さぶろ)う心

そして人間は敬する心を持つと、自らその敬するものに少しでも近づこうとする気持ちが起こってくる。愛とはまた別の憧憬をその敬の対象に持つようになる。これを「参」--参ずる、或はまいる(、、、)と言う。神仏に参るように、敬するものに参りたくなるのです。これが更に進むと、側近として仕えたくなる。

所謂「侍」--はべる(○○○)とか「候」()ぶろう(○○○)というのがこれであります。
そういう意味から言うて、日本語の「参る」という語は実に興味深い語であります。