(しゅう)(うん)(じゅく) 開講の辞

我輩は塾主の岫雲斎である。今日は岫雲塾開講の辞を述べる。

我輩は傘寿を迎えた、あと半年もすれば満80歳となる。

樹木で言えば老大木であろう。岩石でも苔むした風格のあるものとなっていよう。

近年は、人権とか何とかで、若輩者も、幼稚な子供も、我輩のような練達した老人を、全く同じ扱いをする社会となってしまった。

総理の管君など、ど素人の国家経営者である。ここに至るまでの人物的研鑽の欠如した人間だから、総理大臣になってもコブシを振り上げるなどは、人物素養の基礎がない事の端的な証拠である。

口では、達者な管君である。最近は、市長も、幼稚な大臣も、敬老の日とかで、家庭訪問したり粗品を持参するだけだ。その日だけの行事になっている。

人生の先輩として、酸いも辛いも経験した智慧ある人間の先輩として、尊敬を以て、人間の長老として遇しない。敬老日の翌日になるとそれっきりだ。 

人間の老人を、経験豊富な、厳然とした人間の大先輩、人間の大長老という礼儀をからきし取らない日本の社会となってしまった。

それが証拠に、子供も親も祖父たちも互いに殺戮を平気でやってしまうようになったではないか。これは動物以下である。到底、人間とは言えぬものだ。

それは、凡ての価値判断の基準が「損か得か」のマネーと物のみとなってしまつたからである。本物の唯物主義となつた日本である。敬老も、老人に金品を持参するだけである。これではよくならない。この辺の道理が分るかね、君たちは?

我輩は、過去20年間、大所高所の立場から、この日本の未来を憂い続け、憂国放論をしてきたが、日本人は皆、管とか奇妙な鳩山とか、岡崎トミ子とか、朝日新聞とか、ノイズイなマイノリティに負けてしまい、益々日本全体が奈落の底へと突き進んでいる。

最早や、社会の現象的なことを一々教えてやっても、本質が出来ていないから効果は無いと判断した。奇妙な、実に幼稚な国家観をもつ政権が成立し、最早や日本は見込みがない。

そこで、憂国放論の寄稿をする気持ちが消滅してしまつた。

その放論はやめて岫雲塾を開講し、折々に諸君に人間の大先達として、本質的にことを、大所高所から説き聞かせ「喝」を入れることとした。それも、我輩は高齢だから、気の向くままだ。

人間として、日本人として、遠慮のない本質的なことを言って聞かせてやるから拳々(けんけん)服膺(ふくよう)して聞かっしゃい!

      平成22101日 開講

              岫雲斎圀典