「平成に甦る安岡正篤先生警世の箴言」12

  平成20年10月

時局と先哲の名言

1日 根本はまづ自分を新たにすること

空理空論では駄目
前回は、教材を用いることなく、時局に関する解明や批判で終わりましたが、どうも時局だけでは物足りませんので、本日は教材に広瀬淡窓の、こまやかな心境の記されております「自新録」の中から六ヶ条を撰びましてご紹介致します。 然し、議題に「時局と先哲の名言」とありますように、我々の学問は机上の空論では駄目でありまして、やはり時というものに血の通った哲学でなければなりません。
2日 人間学とは 人間学とはそういうものでありまして、これから先は究極するところ「自新」、自ら新たにするということが最も大切なことであると思います。 自分を棚にあげて、幾ら時局を論じても、これと無責任な放言・放論に帰してしまいます。
3日 活眼なくしてどおにもならぬ現代 その上、時局は特に最近になりまして、やはり各人が所謂自新(じしん)ということに活眼を開かねば、どうにもならない段階に達しておると思います。 これは時の推移という点から申しましても、その代表的な干支とかいうものから申しましても、そのことを明らかに示しております。
4日 乙は紆余曲折 本年はご承知のように(きのと)()であります。まだ余すところ二ヶ月ありますが、もう一度復習してみたいと思います。即ち昨年の「(さる)」で、在来の殻を破って春気(しゅんき)に応 じて新しく芽を出したのはよいが、まだ外界等の寒気が厳しい為に、その芽が()―真っ直ぐに伸びることができないで紆余曲折(うよきょくせつ)する、その姿を(かたど)ったのが「乙」という文字であります。
5日 放置していた諸問題 支の「卯」は、草冠のついた(かや)と同字。雑草が生い茂っておるという文字で、またその代表がかや(○○)でありますから、(かや)に通じる。卯の字の真ん中の二本棒は門柱を表し、両側は扉を開いた形をしております。 つまり今まで閉じておった扉を開いて、雑草の茂るがままに放置してあった未開発地の開拓をいよいよ始める、というのが本当の意味であります。言い換えれば従来からの混沌としておった諸問題に思い切って手を入れなければならない、ということを暗示しておるわけです。
6日 懸案解決を 従って、(きのと)()の年は、今まで手をつけなかったり、或ははかばかしく処理しなかった問題を解決しなければなりません。 兎角、人間というものは、因習に捕らえられて渋りがちになるというのが現実であります。処が来年の干支がまた面倒な(ひのえ)(たつ)になるわけでありますから、一層その必要が感じられるのであります。
7日 野党の議場放棄 本年の日本を、この暮が近づいておる現在の時点で反省してみますと、諸般の問題解決は甚だ不成績であって、色々の懸案事項が滞り、その上に議論百出して紛糾を続けております。 折角三木内閣が出来ましたけれども、議会が混乱し、野党の議員は議場を放棄して選挙区に帰ってゆくというような事態になりました。
8日 日本の変な議会 かって香港の新聞が「日本の議会は変な議会で、会して議せず、議して決せず、決して行わず」と評しておりましたが、まことに痛い批評と言わざるを得ません。 国民がお互いに自分のことを棚にあげて人を攻撃し、徒に問題を論議しておるだけでは、益々行き詰まり、いよいよ紛糾するばかりであります。
9日 自新以外にない そこで今までは「どうなるか」という議論が多かったのですが、さすがにここまできますと、心ある人々は一体どうすれば良いのかということを議論するようになってきております。然し他人事に何とかしなければならぬと言っておる間は何ともなりません。 要するに国民の中の指導者、或は正しい自覚を持っておる分かった人々が身を挺して、それぞれ自分の問題としてこれを処理してゆかなければなりません。所謂、維新・革新というものは、つきつめれば自新−自らを新にすることですから、夫々が自新しなければ、国の維新・革新はあり得ません。
10日 身を挺して立ち上がる 然し国がいよいよ行き詰まりますと、身を挺して勇敢に自分の所信・所見というものを引っ提げて起ちあがる者が出でまいるのが過去の例であります。第一次大戦後にはマルクス・レーニン主義をもってレーニンやトロッキー、スターリンがロシア革命をやりました。 これは維新ではなくて革命であります。またこれに対してイタリアにはムッソリーニ、ドイツではヒットラーが出て、共にファッショ革命をやりました。スペインのフランコ、ポルトガルのサラザール亦然りです。これもやはり革命の部類に属します。そこへまいれますと、明治の日本は正に維新の名に値する好い成績であったと思います。
11日 丙は炳なり 今日もしきりに革命だのということが論じられておりますが、来年の干支である(ひのえ)(たつ)の年廻りから申しましても放任するわけにはまいりません。先ず、干の「丙」は、説文学的には一と冂と入から出来ております。上の一は乙卯の乙に続く陽気・活動力の発展と解して宜しい。冂は左右にカコイを張りめぐらした形で、入はそのカコイの中にはいること。 つまり丙は、陽気・活動が一段と伸張して夫々の域内にはいる、言い換えれば、夫々の分野に於て、ぐずぐずすることなく、積極的に活発にやってゆかねばならぬ、ということを教えておるわけです。そこで丙には、さかん(○○○)という意味があり、また「(へい)(へい)なり」で、あきらかという意味もあります。
12日

支の「(たつ)」は、(しん)に通ずる文字で、(しん)の義と解するなど色々解説があります。説文学的に大変面白い文字でありまして、辰の厂は崖で、開発するに当って妨げになる崖を(おと)す震動を意味するとする説や、或は辰は(しん)の本字で、

今まで固く殻を閉じておった貝が、陽気につられてその殻を開き、中味を出して動く(しょう)とする説などがあります。兎に角、辰は今まで内に蔵されておった、或は紆余曲折(うよきょくせつ)しておった陽気・活動が、外に出て活発に動き出すということを意味しておるわけであります。
13日 丙辰は思い切った活動の年 そこで丙と辰との組み合わさった丙辰は、余寒の為に思うように伸びなかった乙卯の陽気・活動が、ぐんと伸びて活発になり、動いて来る、ということになるわけですから 本年の年廻りは思い切って新しい活動を始めなければならぬということを象徴しております。議論倒れということはもう許されません。具体的に着々と改革・革新をやらなければなりません。
14日 結局、人間の問題 処が、そこまで詰めてくると、結局これは人間の問題であります。例えば、政治にしても、政策は国会で決定するのですけれども、国政を実際に行うのは内閣の使命であり責 任であります。
従って、各省の大臣は、身を挺してこの難関・難境を切り開いてゆく具体的な行動が必要であります。
15日 再び、自新について 多分、来春になりますと、三木総理が国会の解散を断行し、新しい政治体制を自ら決定的に再現されるか、或は解散と共に三木内閣も解散して新総理のもとに新しい内閣ができるか、兎に角決着をつけなければなりません。いづれにしても自分を棚に上げて何だかんだと騒いでおるようではどうにもなりません。
責任ある地位の者が自らの
問題として革新をやる、これが自新という意味であります。来年はそういう自らを新たにするという決意と努力が一番必要とする年廻りに当たります。そこでこれに相応しい先輩・古人の文献、就中、私が肝銘を深くしております広瀬淡(ひろせたん)(そう)の「自新録」の一部をご紹介して皆さんの参考に供したいと損じます。
(たん)そのものの広瀬淡(ひろせたん)(そう)先生
16日 名と(あざな) 広瀬淡(ひろせたん)(そう)、名は(けん)、字を子基(しき)と申します。(あざな)というものは、名の意義を補う為のものですから、必ず名に関連してつけられる。 それで中国では人を呼ぶ時には、親や先輩を名指しで呼びますが、普通は名を呼ばずに字で呼ぶのが礼とされております。日本ではその区別がなくなっております。
17日

咸宣(かんせん)(えん)

天明二年春、豊後日田(ぶんごひた)に生まれました。年少(ねんしょう)出でて筑前(ちくぜん)の亀井南溟(なんめい)(しょう)(よう)に学びましたが、病弱のため帰郷して山紫水明(さんしすいめい)の郷に(せい)(めい)邃養(すいよう)し、

万巻の詩書に優遊(ゆうゆう)して、育英を楽しみ、その咸宣(かんせん)(えん)の塾風は四方に喧伝(けんでん)せられ、山中講学(さんちゅうこうがく)五十年、及門(きゅうもん)の弟子は四千人の多きに上り、実に幕末地方教学の一大偉観でありました。
18日 淡窓の人となり その人となりは、如何にも(おん)(すい)(せい)(こう)で、当時の漢学者には稀に見る思索の深い所があり、多分に宗教的な性格も備わっておりました。詩文にかけても亦その人柄の通り穏秀(おんしゅう) ともいうべき(ふう)に富んでおります。安政三年十一月七十五歳を以て没しました。日田の教育委員会から淡窓全集三巻が出版されております。淡窓は若い時に病弱であったことは述べましたが、それについてまことに感激に堪えない一文がその文集の中にございます。
19日 淡窓の妹

淡窓に一人の妹がありました。これが  大変な兄思いで、兄淡窓の病弱を悲しみ自分の身命を以てこれに捧げようという悲願を立てました。たまたま菩提寺に当時の高徳・豪潮律師という僧が法話に見えて、妹もこれを聴聞しておったのでありますが

話が終わって皆が散会しようとした時に、豪潮律師が態を改めて皆を見廻し、この中に非常の大願を発しておる者があると言い出されたので、一座がシーンとなった。やがて律師は淡窓の妹を指して「お前さんであろう」と云って当てられた。
20日

そこで驚いた妹さんは、しみじみと自分の悲願を律師に打ち明けたわけですが、律師は「然し無理をしてはいけないよ」と云って(ねんごろ)(さと)された。それがいつの間にか淡窓の耳にはいり、淡窓も大変驚いて、

これを止めさせようとしたが、妹は頑として聞きませんでした。そこで淡窓はもとより両親もこれを心配しておりましたところが、偶々縁があって、京都の朝廷に仕える女官のところへ奉公に出ました。
21日

然し、やはりその悲願のせいでありますが、妹は早く世を去りました。それに感動した兄淡窓は、妹を追憶する文章を書いておりますが、実に肝銘にたえない名文でありまして、誰が読んでも涙なしにはおられない立派なものであります。

そして妹の悲願のお陰もありましたが、十代の時には余命いくばくもないと云われた病弱の身が七十五歳まで生き延びたわけであります。こういう話は国民教育、道徳教育にはこの上ない教材でありますが、殆ど知る人がありません。
22日 粗末にしている数々 淡窓という号を味わいますと、これがまた如何にも先生らしい、その人柄がにじみ出た味のある号であります。淡には深い意味がありまして、味わえば味わう程興味の尽きないものがあり ます。我々は真剣に学べば学ぶほど日常いかに意義深い肝銘すべきことがら、文字や言葉、或は思想、理論等を勿体無いほど粗末にしておるかということがよく分かります。
23日 淡の字 「淡」という字もその一つでありまして、普通の人はこれを単に、あわい、あっさりしている、みづくさい、というような意味に考えて、実は全く正反対の味のある文字であることを知りません。 「君子の(まじわり)は淡として水の如し」という格言も、また「淡交(たんこう)」という熟語も、淡の本当の意味を知って始めて理解出来るのであります。
24日 茶の味と本物の人間 これは茶の作法、特に煎茶をやると良くわかります。煎茶というものは、先ず第一(だいいっ)(せん)で、お茶の「甘味(かんみ)」を味わい、ついで第二煎で「苦味(にがみ)」を味わいます。甘味というものは、味の中で一番初歩のものでありますから、子供でも甘いものは好きです。だからも「あいつは甘い」というのは、まだ人間が出来ておらぬ、人間的に初歩の 若い人達を指すのであります。
処が、その甘味の一つ奥の味は何かと申しますと、「苦味」であります。甘味を含んだ苦味、甘味を通りこした苦味、これは単なる甘味よりも遥かに勝れた味であります。それから最後の第三煎で、「渋味」を味わいます。甘味を含んだ渋味、甘味・苦味を通り越した渋味、これが本当の茶の味と言えましょう。人間も甘さを通り越した苦味・渋味が出て来ないと本物ではありません。
25日 無と淡 従って、人間というものは、甘味だけの青少年時代から出発して、やがて苦味の出る壮年時代、更に渋味の出て来るまでを考えますと、かなりの年月と修養が必要であります。が、これだけではまだ最高の境地・真の味とは言えません。 この三つの味、即ち「甘・苦・渋」を超越した「至極の味」、「至極」の境地を、老壮や禅家では「無」或は「淡」という字で表現しております。これが淡窓先生の淡の字でありまして、「君子の交は淡として水の如し」という意味もこれでよくわかります。言うに言えない至極の味であります。
26日 中西淡淵 淡と言えばもう一人、尾張に中西淡淵(たんえん)という学者がありました。この人は、淡窓よりずっと先輩になりますが、文字通り淡淵の名にふさわしい人柄でありました。 この人に教えを受けて偉大になられたのが細井平州です。平州がまだ江戸で長屋住居をしておった頃の話ですが、その狭い住居に自分の親友と弟子の二組の夫婦を預って同居しておりました。
27日 淡の字に背かず つまり、あばら屋に三夫婦とその子供が一緒に暮らしていたのであります。その上、平州には老父がありましたが、長屋の者達はみな、この三夫婦を他人の仲とは知らず、世の中には仲の好い兄弟もあるものだと思っておりました。それで平州の父に「ご隠居さんは本当に幸福な お方ですね、仲の好い子供や孫に囲まれて・・」と云って羨んだと申します。この一事で細井平州という人は、どんなに出来た人であったかということがよくわかるのでありますが、その平州を教えたのが淡淵先生でありました。淡の字に背かなかった偉い先生であったと思います。
28日 自己革新こそ さて話を淡窓先生にもどしまして、先生は平素、人に教えるということは大変なことであって、教える、学ぶ、改めるということは、自分の問題であり、先ず自分を新たにしなければだめだと常に教えた人であります。 従って、現代においても、真に日本を革新しようと思えば、政治家が自己を革新しなければなりません。そういうことを頭にいれて次の文章を読むと意義は一入(ひとしお)深いものがあります。
29日 「自新録」

淡窓
「人の賢不肖(けんふしょう)は学と無学に()らず。我れ友を取るや未だ(かっ)って此を以て限りと()さず。人の難に急ぐ者の如き(もと)より論を待たず。言、信ある者、(ごう)にして()く断ずる者、 世事(せじ)()けたる者、一芸に長ずる者、皆我が益友(えきゆう)なり。但だ無学の人、我輩(わがはい)忌嫌(きけん)すること一に蛇蝎(だかつ)の如し。親近せんと欲するも(しか)も得べからず。()れ我が(うれい)なり」。
30日 自新録 解説 人の(けん)不肖(ふしょう)は、所謂、学があるとか、学がないとか、そんな事とは少しも関係がない。もっと自由に人を見ることが大事である。行き詰まって困っておる時に、思い切って助けてくれる人、冷然と傍観している人、と色々ありますが、助けてくれる人は実に貴い人である。勿論そういうことは言う迄もないことであるが、言葉を信じてよい 人、善悪の判断を誤らぬ人、世間の事によくなれた先輩、一芸に長じた人、そういう人は皆自分にとって有益な友達である。このように自分は元来、学があるとか、無学であるとか、いうようなことで人を観る基準にしおらないのだが、困ったことに無学の人々は自分に対して恐れをなしておるようだ。もっと親しくしたいと思うのだが出来ないのが残念である。
31日 安岡正篤先生の見解 何しろ淡窓先生は、病弱でありながら非常な勉強をされた人ですから、厳しいところもあったと思われます。そこで近所の人達は先生を難しい人と誤解して、やや避けたのでしょう。 それにしても「我輩を忌嫌すること一に蛇蝎(だかつ)の如し」という表現は、少々形容が過ぎておるようです。先生は、学があるとか無いとかは問題でない、世事に長けた者・一芸に長じた者は皆友達としてつきあいたいと申しておられるわけで、大変面白いと思います。