日本古代史の謎 その十七
第12講 中国正史にみる日中関係
中国の歴史書の中の日本
平成24年10月
1日 |
中国の歴史書に記される日本の記述 |
中国では、王朝が交替するごとに、先王朝の歴史を次ぎの王朝が記録にとどめています。ですから、夫々の王朝についての歴史が次々と書かれ殆ど時代的な空白のない“中国史”が残されているのです。 |
王朝ごとの歴史書の中に、日本に就いて書かれたものがどれくらいあるのかと言うと、将に18もの歴史書の中に書かれているのです。代々の王朝ごとに、日本と国交を結んでいた王朝の記録の中には、必ず日本のことが出でくるのです。 |
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2日 |
その正史の中でも唐代以前の古い正史の中の「夷蛮伝」あるいは「諸蛮伝」という異民族を扱った記録の中に日本や日本人のことを記したものが見られます。ただしこれら古 |
い唐以前の正史になりますと日本人や日本のことを記すのに、今日のように「日本」という呼称を使用せず倭とか、倭人とか、倭国などと、「倭」という言葉を用いています。 |
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3日 | 「日本」という字が使われるようになったのは |
「日本」という文字を使うのは、唐の歴史書としての「旧唐書」の中の「東夷伝」において、倭国と日本とを区別しているのが初めてであり、次の「新唐書」の「東夷伝」以後の正史の日本人に関する伝から、統一して「日本」ないし「日本国」という呼称が使用されるようになります。 |
したがって、中国において「日本」という字が使われるようになったのは唐の時代以後の事と視てよく、我々日本人が文字の上に姿を現した最初の頃は「日本人」「日本国」ではなく、「倭」「倭人」「倭国」として記されているのです。 |
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4日 | 註 |
旧唐書 |
東夷 |
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5日 | 「倭」という語の真偽 |
中国の歴史書を見ると西暦紀元前第一世紀頃になって、中国人の間で初めて日本に関して「倭人」という名で呼ばれる一つの人種が意識されたと見られます。然し、日本のことを、なぜ「倭人」と呼ぶことにしたのか。この「倭」の命名については、よくはじめて日本人が中国へ行った時、 |
お前は誰かと中国人が聞くので、「自分は・・・」という回答をした時の「自分」ということを表す「我(あ)と言う言葉、或は「吾」という言葉、その「あ」を中国人が「わ」と聞いてて、それで倭としたのだなどという説明がなされます。 |
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6日 |
しかし、中国人が「倭」という文字を使ったのは、倭という字に「回り回って遠き貌」という意味があるからです。 |
そこで、私は「この者たちは、万里の波濤を越えてはるか遠いかなたから海をめぐりめぐって渡ってきた者たち。倭なる者たち。はるか海を隔てたかなたの島国に住んでいる倭人だ」ということで、「倭」という言葉を使ったのではないかと解釈するのです。 |
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7日 |
中国正史にみる日本の記載 |
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8日 |
中国と日本との通交
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「倭」という呼称の一番古い史料は、後漢(25-220)の斑固(?-92)が著した「漢書」(前漢書ともいいます。前漢は紀元前202-後8年の中国王朝)の中の「地理志」の「燕地」の条に見える記述です。この記述は僅か19文字に尽きるのですが、その19文字が非常に重要なことを述べています。 |
19文字とは「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来たりて献見すと言う(漢文書き下し)です。 |
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9日 |
もっとも、「漢書」という正史以外にも「山海経」という書物に倭のことが書かれています。それには、倭は当時、燕という国に属していたと記されています。 ちます。 |
それには、周の時代は天下が太平で倭人が鬯艸という草を持ってきて貢いだという記述が載せられています。 |
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10日 | 楽浪海と 倭人 |
前漢は、朝鮮に楽浪郡を設置し、朝鮮半島や、その周辺粋を支配する権限を楽浪郡に委ねていました。
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「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為すけ |
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11日 | 歳時を以て来りて献見 |
そして、その沢山の国に分かれている倭人が、 |
黄海や日本海が荒れて航行が不便になるから、そういうと時は避けて来なかったと見られます。そして「献見す」というのですから、日本人がその時期に漢の都まで出かけていって交易をしたというわけです。 |
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12日 | 主体的な”文化吸収 |
このことから、中国、即ち漢と倭、日本との通交は、従来から考えられているように向こうの人間が日本に何かを持ってきて与えた、というのではない事が分ります。これは非常に重要なことを意味します。つまり中国文化あるいは朝鮮の文化は |
向こうの人が持ってきてくれたものばかりではなく、寧ろ、日本人が船に乗って出かけて行き、交易をして持って来たというわけで、日本の”主体的な”文化吸収があったことを意味するわけです。 |
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13日 |
また日本人が通商を求めていった、朝貢をしていたと言うことは、その使者を通して中国人は日本のことを正確に把握していたということです。そして、その日本人に関する知識が史局に記録として留めてあり、それ基に「漢書」なり「後漢書」が作られたわけです。 |
ですから、日本に関する記述は、そうした経過を経た、正式の渉外関係史に基づくものであめことが分り、正確な史実であると断を下せるわけです。 |
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14日 | 註 |
山海経 |
楽浪郡 前漢の武帝が衡氏の朝鮮を滅ぼして紀元前108年に朝鮮半島に設置した郡。現在の平安・黄海方面に当る。後漢末には、南方に帯方郡を分置。ついで魏の所領となる。この時、後の女王卑弥呼は使節を送り中国と通交した。 |
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15日 | 積極的な交易を行う弥生の日本 両漢時代を通じて行われた日中交易 |
前漢の時代に百余の国があって、「歳時を以て朝貢」 |
なります。通交関係の結ばれていな |
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16日 | “後漢”と国交結んだ三十の倭国 |
「後漢書」を見ますと、「倭は漢の東南の大海のうち |
則ち島国に居を構えていた、島地に居住してい |
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17日 | 使訳即ち通詞、今日の通訳です。使訳は、両方の言葉 |
日本人は通訳を伴って漢に来て朝貢し交易をしてい |
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18日 | 西暦57年=最古の「絶対年代」 |
さらに日本人が最初に後漢に通交を求めて朝貢した |
これは中国の正史の中に出てくるわけですから、西暦 |
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19日 | 朝貢しに来たと云っていますから、後漢の光武帝に朝 |
韓国の楽浪郡の更に南にあるというので後漢 |
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20日 | 印綬のこと | 印綬は「印」に「授」=紐がついていて、首からぶ |
ですか、倭国王帥升等が生口(奴婢)160人を献じ |
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21日 | 註 | 史局 史書を編纂する場所。 後漢書 120巻、史書。本紀・列伝は南朝の宋の范曄、志は晋の司馬遷の撰。後漢の歴史を紀伝体に記したもの。 光武帝 後漢の始祖。劉秀の称。
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奴国 弥生時代の北九州にあった小国。弥生時代の北北九州にあっ小国。倭奴国とは、倭(やまと、日本)。律令制の賎民の一。奴は男。奴は男、婢は 奴婢 律令制の賎民の一。奴は男、婢は女で、官奴婢と私奴婢とがあり、五賎の最下位。 |
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22日 | 外交を通しての中国文化の吸収 中国文化の主体的受容 |
さて、ここまで述べてきた「漢書」や「後漢書」に登 |
少なくともそうした主体的な活動によって中 |
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23日 | そして、この日本に対し、当時のアジアの先進国であ |
東海の彼方に日本が存在する事を知り、その日本との |
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24日 | 即ち、前漢時代から“倭人”の国が漢帝国に対して朝 |
側としては、そうした外蛮の朝貢を自ら |
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25日 | 然し、後の時代となると、中国が次第に倭人の存在を |
的に重視しなければならないような状況も |
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26日 | 中国の歴代の政策は、まず近いものを攻めて遠いもの |
らやって来る倭人の国は中国から常に格別な待遇を |
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27日 | こうした中国の外交姿勢に支えられながら、日本は中 |
ことが主 |
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28日 | また、そうした旺盛な日本の交易活動は、多数の国家 |
せようとする国に |
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29日 | 通商王国の出現 |
自説を入れてまとめますと、日本は漢と通交したわけ |
これは西暦紀元前108年のこ |
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30日 | また、日本側の植民地もしくき橋頭堡とみられる、南 |
倭人による楽浪航路の確保によって、楽浪植民地文化 |
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31日 | そして、そうした流れの中で、北九州沿岸に
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註 橋頭堡 |