日本古代史の謎 その十七     
   第12講 中国正史にみる日中関係

         中国の歴史書の中の日本 

平成24年10月

1日

中国の歴史書に記される日本の記述

中国では、王朝が交替するごとに、先王朝の歴史を次ぎの王朝が記録にとどめています。ですから、夫々の王朝についての歴史が次々と書かれ殆ど時代的な空白のない“中国史”が残されているのです。今日に至るまで、27の中国の歴史書が伝えられています。そして、その27の各時代、 王朝ごとの歴史書の中に、日本に就いて書かれたものがどれくらいあるのかと言うと、将に18もの歴史書の中に書かれているのです。代々の王朝ごとに、日本と国交を結んでいた王朝の記録の中には、必ず日本のことが出でくるのです。
2日

その正史の中でも唐代以前の古い正史の中の「夷蛮伝(いばんでん)」あるいは「諸蛮伝」という異民族を扱った記録の中に日本や日本人のことを記したものが見られます。ただしこれら古

い唐以前の正史になりますと日本人や日本のことを記すのに、今日のように「日本」という呼称を使用せず倭とか、倭人とか、倭国などと、「倭」という言葉を用いています。
3日 「日本」という字が使われるようになったのは

「日本」という文字を使うのは、唐の歴史書としての「旧唐書(くとうじょ)」の中の「東夷伝(とういでん)」において、倭国と日本とを区別しているのが初めてであり、次の「新唐書」の「東夷伝」以後の正史の日本人に関する伝から、統一して「日本」ないし「日本国」という呼称が使用されるようになります。

したがって、中国において「日本」という字が使われるようになったのは唐の時代以後の事と視てよく、我々日本人が文字の上に姿を現した最初の頃は「日本人」「日本国」ではなく、「倭」「倭人」「倭国」として記されているのです。
4日 註 

旧唐書

24
史の一。本紀20、志30、列伝150巻。五代
後晋の劉く(りゅうく)ら勅を奉じて撰。  

東夷(とうい)
中華(黄河の中・下流地方)の東方に住む異民族。
満州、朝鮮、日本などの民族を指していう。

5日 「倭」という語の真偽

中国の歴史書を見ると西暦紀元前第一世紀頃になって、中国人の間で初めて日本に関して「倭人」という名で呼ばれる一つの人種が意識されたと見られます。然し、日本のことを、なぜ「倭人」と呼ぶことにしたのか。この「倭」の命名については、よくはじめて日本人が中国へ行った時、

お前は誰かと中国人が聞くので、「自分は・・・」という回答をした時の「自分」ということを表す「我(あ)と言う言葉、或は「吾」という言葉、その「あ」を中国人が「わ」と聞いてて、それで倭としたのだなどという説明がなされます。

6日

しかし、中国人が「倭」という文字を使ったのは、倭という字に「(まわ)り回って遠き(かたち)」という意味があるからです。日本人が中国へ行った時、中国人は遠路の来訪に非常に感心し、喜んで優遇したということが史書にしばしば出てきます。朝貢の時の歴代の王が、日本の使者に対し「お前は、よく海をめぐりめぐって遠くからやってきた、だから非常に嬉しい」ということを必ず言っているわけです。

そこで、私は「この者たちは、万里の波濤を越えてはるか遠いかなたから海をめぐりめぐって渡ってきた者たち。倭なる者たち。はるか海を隔てたかなたの島国に住んでいる倭人だ」ということで、「倭」という言葉を使ったのではないかと解釈するのです。そして、中国たちは、倭人の国、それを「倭国」と名づけたのです。

7日

中国正史にみる日本の記載

成立時代

編纂者

書名

所載巻次

一世紀

班固

前漢書

28

三世紀

陳壽

三国志

30

五世紀

范曄

後漢書

115

志・伝名

志・伝

呼称

地理志

燕地

東夷伝

列伝

倭人

東夷伝

列伝

8日

中国と日本との通交


“倭”の活動

「倭」という呼称の一番古い史料は、後漢(25-220)の斑固(-92)が著した「漢書」(前漢書ともいいます。前漢は紀元前202-8年の中国王朝)の中の「地理志」の「燕地(えんち)」のに見える記述です。この記述は僅か19文字に尽きるのですが、その19文字が非常に重要なことを述べています。 19文字とは「楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時(さいじ)を以て来たりて(けん)(けん)すと言う(漢文書き下し)です。
9日

もっとも、「漢書」という正史以外にも「山海(せんがい)(きょう)」という書物に倭のことが書かれています。それには、倭は当時、(えん)という国に属していたと記されています。また後漢の(おう)(じゅう)の「論衡(ろんこう)」という書物にもあります。

ちます。

それには、周の時代は天下が太平で倭人が鬯艸(ちょくそう)という草を持ってきて貢いだという記述が載せられています。これらの書物は正史ではありませんから不確実なものですが、先に述べた「漢書」の記述は、渉外関係の事実を述べたものとして非常に重要な意味を持ちます。

10日 楽浪海
倭人

前漢は、朝鮮に楽浪郡を設置し、朝鮮半島や、その周辺粋を支配する権限を楽浪郡に委ねていました。
この楽浪郡に所属している海を「楽浪海」と呼んでいました。楽浪海は中国から見れば、黄海および朝鮮以東の海全体を指すと見られます。

「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為すけ楽浪海の中に「倭人」という一人種があって、その倭人は当時すでに「分かれて百余の国を為していた」のです。この百という数次に拘る必要はありません。沢山の国に分かれていたと言う意味です

11日 歳時を以て来りて献見

そして、その沢山の国に分かれている倭人が、「歳時を以て来りて献見す」
一年のうちのある特定の時期に来て献見、朝貢したのです。「歳時を以て」、即ちこの一年の特定の時期というのは、恐らく海の静かな7月・8月の夏の期間だけで、9月になると

黄海や日本海が荒れて航行が不便になるから、そういうと時は避けて来なかったと見られます。そして「献見す」というのですから、日本人がその時期に漢の都まで出かけていって交易をしたというわけです。
12日 主体的な文化吸収

このことから、中国、即ち漢と倭、日本との通交は、従来から考えられているように向こうの人間が日本に何かを持ってきて与えた、というのではない事が分ります。これは非常に重要なことを意味します。つまり中国文化あるいは朝鮮の文化は

向こうの人が持ってきてくれたものばかりではなく、寧ろ、日本人が船に乗って出かけて行き、交易をして持って来たというわけで、日本の主体的な文化吸収があったことを意味するわけです。
13日

また日本人が通商を求めていった、朝貢をしていたと言うことは、その使者を通して中国人は日本のことを正確に把握していたということです。そして、その日本人に関する知識が史局に記録として留めてあり、それ基に「漢書」なり「後漢書」が作られたわけです。

ですから、日本に関する記述は、そうした経過を経た、正式の渉外関係史に基づくものであめことが分り、正確な史実であると断を下せるわけです。 

14日

山海経
中国古代の神話と地理の書。山や海に棲息する動植物や金石草木、また怪談を記す。18巻。
 

論衡


後漢の王充撰。30巻。もと百編というが、今本は85(44編を欠く)。当時のあらゆる学説、習俗に対し独自の批判を記したもの。
 

楽浪郡

前漢の武帝が衡氏の朝鮮を滅ぼして紀元前108年に朝鮮半島に設置した郡。現在の平安・黄海方面に当る。後漢末には、南方に帯方郡を分置。ついで魏の所領となる。この時、後の女王卑弥呼は使節を送り中国と通交した。
15日 積極的な交易を行う弥生の日本

両漢時代を通じて行われた日中交易
前漢の時代に百余の国があって、「歳時を以て朝貢」していた日本が、中国の正史に姿を現した最初の日本ですが、次に、それから約100年以上が経過した西暦第一世紀の後漢の時代の日本のことが「後漢書」の中に出てきます。ということは、後漢と日本との間にまた通交関係が結ばれていたことに なります。通交関係の結ばれていない時は、正史の中に倭のことは少しも書かれないのが普通で「後漢書」の中に出でくるということは、前漢を倒した王奔の新(8-23)の後を継いだ後漢の時代にも、倭人が通商を求めたことがわかめのです。
16日 後漢と国交結んだ三十の倭国 「後漢書」を見ますと、「倭は漢の東南の大海のうちにあり」と書かれてあります。今度は楽浪海ではなくて漢の東南大海、即ち漢の支配地域の東南の大海の中に倭があると明記しています。また、「山島によって居をなす」という記述が出てきます、 則ち島国に居を構えていた、島地に居住していたと書いているのです。そして、前漢の武帝が朝鮮を倒して楽浪郡を設置した時から後、「使訳を漢に通じていた30ばかりの国があった」と書いています。
17日 使訳即ち通詞、今日の通訳です。使訳は、両方の言葉をわきまえていて、言葉を通じて対話の仲介をする役ですが、単にそれだけでなく、両者の事情に通じて外交上の示唆を与える重要な役目をも果していた者のことを指します。その使訳の先導で漢と通交できたのです。 日本人は通訳を伴って漢に来て朝貢し交易をしていた、そしてそういう関係にあった倭の国が30ばかりあったと言うのです。それらの国の王たちがそれぞれ倭王号を称し、競って、中国文物を取り入れようとしていた様子が窺われます。
18日 西暦57=最古の「絶対年代」 さらに日本人が最初に後漢に通交を求めて朝貢したのは後漢の光武帝の建武中元2年と記されています。その年は西暦57年に当ります。ここで初めて日本の古代史における最古の絶対年代が出できたのです。年代を特定できる最古の史料、という意味で極めて重要なものです。 これは中国の正史の中に出てくるわけですから、西暦第一世紀の半ばに日本人が中国まで渡航していたことは確実です。その時に来たのは「(わの)(なの)(くに)」の王の使者だと記さています。
19日 朝貢しに来たと云っていますから、後漢の光武帝に朝貢したわけです。「来た使者は自ら大夫と称していた」と言いますから、自分は倭奴国の大臣であると告げたのでしょう。しかも、倭奴国は後漢帝国の属領の一番南の境に位するものである。ということが書かれています。 韓国の楽浪郡の更に南にあるというので後漢極南界と書いたのだろうと思います。光武帝はそんな遠くから思いもよらない者が朝貢してきたものですから非常に喜んで倭奴国の王に対して印綬を授けたと書いてあります。
20日 印綬のこと 印綬は「印」に「授」=紐がついていて、首からぶらさげられるようになったもので要するに文書に押すための紐付きのハンコです。国書にその「印」を押していないと公式の国書として通用しないわけです。その印綬を賜ったということなのです。そのようなことが西暦57年のこととして書かれています。その後も、安帝の永初元年(西暦107)、第二世紀の初めが分るのです。 ですか、倭国王帥升等が生口(奴婢)160人を献じて安帝に謁見を求めてきたと書かれています。これらの点から、まず明らかに言えることは、後漢代には前漢代に比較して倭人に関する知識が中国人の間に一層明確になってきたということです。そして、楽浪郡を介しての日中両国の交渉が一層頻繁化してきたこと。
21日 註  史局
史書を編纂する場所。 

後漢書

120巻、史書。本紀・列伝は南朝の宋の范曄、志は晋の司馬遷の撰。後漢の歴史を紀伝体に記したもの。


光武帝


後漢の始祖。劉秀の称。

  

奴国
弥生時代の北九州にあった小国。弥生時代の北北九州にあっ小国。倭奴国とは、倭(やまと、日本)。律令制の賎民の一。奴は男。奴は男、婢は


奴婢
律令制の賎民の一。奴は男、婢は女で、官奴婢と私奴婢とがあり、五賎の最下位。
22日 外交を通しての中国文化の吸収


中国文化の主体的受容
さて、ここまで述べてきた「漢書」や「後漢書」に登場した日本。それを一言でまとめますと、「当時の日本は多くの国に分かれていて、その中には遠い海を越えて遥か中国にまで朝貢し、積極的に通商を求めた国がある。 少なくともそうした主体的な活動によって中国や朝鮮の文物を取り入れていった国家創世記のエネルギーに満ちた国である」と言えます。
23日 そして、この日本に対し、当時のアジアの先進国である中国は、来訪してきた日本人によって、初めて遥か 東海の彼方に日本が存在する事を知り、その日本との関係を中国なりの思惑で受け入れたのです。
24日 即ち、前漢時代から“倭人”の国が漢帝国に対して朝貢を求めたのは、ひたすら物品の交易を行って利益を得たいという通商民的な目的によるものと見られますが、漢帝国 側としては、そうした外蛮の朝貢を自らの威信を高揚させるものとして喜び、また鎮撫政策という意味で交易を認めたと解釈することができるのです。
25日 然し、後の時代となると、中国が次第に倭人の存在を政治・外交 的に重視しなければならないような状況も現れてきました。
26日 中国の歴代の政策は、まず近いものを攻めて遠いものと手を結ぶ。そして近いものに対して挟撃体制を取るということが伝統的な一つの政策です。後漢の時代になりますと、そういう政略的な思惑もあって、遠くか らやって来る倭人の国は中国から常に格別な待遇を受けます。そして実力以上に評価され、中国の皇帝は倭を非常に大事にするという歴代皇帝に共通した姿勢が見られるのです。
27日 こうした中国の外交姿勢に支えられながら、日本は中国の進んだ文化を積極的に吸収していきました。もとより、それは中国”文化“を吸収するという ことが主たる目的ではなく、どちらかと言えば通商民的な目的に過ぎないのですが、結果としてそれが文化の吸収に繋がるわけです。
28日 また、そうした旺盛な日本の交易活動は、多数の国家群の中に於いて自国を優位に立た せようとする国にとって強力に推進されたのだと考えられます。
29日 通商王国の出現 自説を入れてまとめますと、日本は漢と通交したわけですが、これは漢の武帝が高句麗に遠征し、北朝鮮の地を併合して楽浪以下四郡をその地域に設置したのが契機とみられます。 これは西暦紀元前108年のことです。朝鮮や日本への文化伝播は、この楽浪植民地が設置されたことで加速され、中国文化の積極的な受容が始まったのです。
30日 また、日本側の植民地もしくき橋頭堡とみられる、南朝鮮の最南端の金海付近の洛東江河口を占める「狗奴韓国」の設置から、倭人の通商交易が一層積極化され、 倭人による楽浪航路の確保によって、楽浪植民地文化の受容が組織的に行われるに至ったことが弥生文化と南朝鮮との等質的発展をもたらしたものと考えられます。
31日 そして、そうした流れの中で、北九州沿岸に根拠地を占める古代航路の通商王国が出現したであろう、と私は考えるのです。 

註 橋頭堡
渡河・上陸作戦の際、渡河点・上陸点を掩護し、以後の作戦の地歩を得るための拠点。