後期古墳の小規模化の原因は何か  大和朝廷の支配形式
平成26年10月

1日

後期古墳の小規模化の原因は何か

大和朝廷の支配形式

古墳時代も後期、第六世紀に入ってくると、大和朝廷の地方支配が軌道に乗ってきます。大和朝廷の支配形式は地方によって違いは見られますが、おおむね朝廷に服属した有力豪族たちにやがて国造や県主と呼ばれるような公的地位を与え、朝廷の権威に基づく支配を任せられているのだという形に整備されてきます。

2日 地方豪族たち

こうして、仁徳王朝の初期段階ではまだ独自性を持ち、大王古墳にも匹敵するような古墳を造っていた豪族たちも、次第に天皇の臣下として大和政権に組み込まれていったのです。そして、大和朝廷の地方支配が進展するに従い、地方豪族たちは巨大古墳を造営する力を急速に失ってしまいます。

3日 吉備氏

例えば、雄略天皇の没後の星川皇子の反乱によって中央政権から排斥された吉備氏は、それから後、かって全長350米もの巨大古墳(造山古墳)を築いた実力は見る影もなく急速にその古墳規模を小さくしていまいます。こうした事情は大和の葛城・春日氏も同様で、朝廷は大王権力を脅かすような地方の大豪族を屈服させていったのです。
4日 大伴氏や物部氏

そうした旧氏族に代わって早くから大和朝廷に従属していわば、天皇側近勢力となっていた大伴氏や物部氏などが力を持ち、彼らの大古墳は後期にも現れます。然し、総じて地方豪族の古墳は小規模となり、さらに畿内を中心に大古墳の数が減少し始め、その傾向が全国に波及していきます。

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大古墳の減少要因としては、地方豪族たちが天皇の支配下に組み込まれてその独自の勢力を失っていった事、そして天皇の地位が豪族の上位者として確立した為、もはや権威を誇示するための大古墳を造る意味が無くなった事、それに加えて平地部に耕作地が広がり、大古墳を造るスペースが限られ、大古墳を造るくらいなら土木工事をよって耕地を増やした方がよいというような発想も出てきたのだと思われます。また、畿内に於いて天皇稜までも小規模になっていったのは、大和朝廷を構成する中央の豪族の勢力が強くなり、天皇権力が著しく制約を受けた事も大きな原因と考えられます。

6日

国造(くにのみやつこ)

国造(くにのみやつこ)
大化以前、大和朝廷により設置された地方官。遅
くとも七世紀初めには体制的に整い、それ以前からの地方豪族を任じて朝廷の支配を確立していった。国造には(おみ)、君、公、(むらじ)(あたえょく)などの(かばね)が与えられた。

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 (あがた)(ぬし)

皇室直轄地の長とも、国造の下に属するものとも言われるが、後説が有力。  
8日 大伴氏 天皇家に匹敵する畿内の大豪族だったが、大和朝廷の成立発展期に来目部(くめべ)靫負部(ゆげいべ)佐伯部(さえきべ)などの兵を(ひき)いて朝廷に仕え、物部氏とともに大連(おおむらじ)となり、大和朝廷の軍事力を担う有力な氏であった。
9日 物部氏 姓は連。物部の伴造として軍事、刑罰を司り、4世紀-5世紀以後大伴氏とともに大連(おおむらじ)を世襲して勢力をふるった。
10日 前方後円墳の衰退と群集墳の普及 以上のような様々な要因が重なり、後期になると天皇稜はシンプルで前方後円墳より規模の小さな方墳に変り、総じて、大型古墳が激減し、この期に特徴的な小規模古墳群である群集墳が全国的に丘陵・山麓に見られるようになります
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ただし、こうした群集墳の普及或は前方後円墳などの大型古墳の減少という傾向は、必ずしも全国一様ではありません。

12日 北部関東地方

例えば、北部関東地方には第六世紀中も大型の前方後円墳が造られ、第七世紀後半に至るまで前方後円墳が盛んに造られています。第六世紀半ばごろ奈良や大阪では前方後円墳は造られなくなりますが、中央の古墳形式が必ずしも浸透していったわけではないのです。恐らく、そうした古墳の形態にみる地方差とは、大和朝廷の地方支配の強弱とも関係しているのであり、北部関東などの後期、末期の前方後円墳の存在は、その地における朝廷の支配がかなり遅れていた事の傍証であると思います。

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また、群集墳は後で述べるように家族墓的な性格をもつ古墳て、墓制の地域的な差異も関係しているのか、それが存在する地域と存在しない地域があって分布にバラツキが多いと言われます。

14日

群集墳の発生

群集墳とは何か
群集墳とは小規模な方墳や円墳が狭い土地に密集している古墳群のことで、一般に千塚や塚原と呼ばれているものがそれに該当します。
15日 墓地的様相

多くは墳丘の麓が接するほどに密集し、いわゆる墓地的様相を呈し、その群集墳域には古墳以外の土地利用がなされていないのが特徴と言えます。例えば、和歌山市の寺山群集墳であれば東西120米、南北90米の中に方墳や円墳が30基ほど密集しているのです。

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群集墳の古墳は小規模なせいもあって、現在も山野の中に確認されていないものもあると考えられるだけでなく、土地利用が進む過程で多くが破壊されたと見られます。

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従って、群衆墳の中の古墳が全国にどれくらいの数があったのか、実数は不明ですが、古墳全体の八割以上は後期に造られたと見られています。

18日 奈良県古墳数
5500基

ちなみに、奈良県の調査では県内の古墳数が約5500基ほど確認され、そのうち前方後円墳が210基、帆立貝式古墳が9基、前方後方墳が10基、方墳が122基、残りは円墳ないし円墳と推定されるものや横穴であるとされています。このうち約4千基以上が後期のものと言われ、方墳や円墳ないし円墳と推定されるものの大半は群集墳を構成しているとみてよいでしょう。

19日 広島県や兵庫県には約1万基 また、各府県の遺跡調査では広島県や兵庫県には約1万基の古墳があると推定されているそうですが、両県とも大型の前方後円墳や前方後方墳では殆ど知られていないのに、古墳数では全国最多数というのは、恐らく群集墳が大半を占めているからではないかと思われます。
20日 古墳には誰を葬ったのか 第六世紀に爆発的な勢いで造られた群集墳、これはそこに含まれる小古墳の膨大な数をみれば明らかにそれ以前の大型古墳とは異なる思想で造られているとみなければならないでしょう。
21日 庶民層まで古墳造営の慣習が普及

当たり前のことですが、大型古墳の数の少なきは限られた階層の人々だけがそこに葬られたことを意味します。これに対し、群集墳に含まれる小規模古墳の多さ(奈良の竜王山古墳群、和歌山の岩橋千塚、大阪の高安千塚などは数百基)は、庶民層まで古墳造営の慣習が普及したものとみなければ説明がつきません。 

22日

例えば、群集墳の中には一年に数個以上のベースで古墳を造ったと見られるものがありますが、そうした場合も絶えず墓域内では古墳造りが行われている状況です。いわば、日常的な古墳造り、その古墳に特殊な人物が葬られたと考えることはできないわけです。

23日 群集墳は一般庶民の古墳

端的に言えば、中期まで数少ない大型古墳は天皇や皇族、有力豪族らを葬ったもので後期に於いてもそうした人々の古墳は規模が小さくなっても存在します。それに対して群集墳は一般庶民の古墳というべきもので、古墳を埋葬形式とした集団が家族単位で古墳を造り始めた為に、古墳数が爆発的な勢いで増えたと考えられるわけです。 

24日 家族墓の起源

中期までの大型の前方後円墳や前方後方墳などは、一人の人間を葬るのが原則的だったとみられます。なぜそう考えられるのかと言えば、死者をおさめる内部主体が殆ど竪穴式石室などの一回きりの埋葬にしん使えない方式であることからして、大型古墳一つに対して一人の死者が原則とみてよいからです。

25日

もとより、実際には前方部に別な埋葬が行われていたり、後円部中央部はいわば古墳の主である豪族が眠る竪穴式石室があるとしても、その両側に竪穴式石室を並べて造って別の人(夫婦や子供などの身内か、その場合、古墳は家族墓ないし同族墓と言える)を葬ったりしている例もあります。ただ、そうした場合でも、前方後円墳では五人を超える合葬は見当たらないと言われています。

26日 合葬例

天皇陵について言えば第五世紀までには、仁徳天皇陵の前方部に(ばい)(つか)の例があるなどが分かっていますが、文献上では、(周知のように天皇陵は原則として発掘調査は許されていない)継体天皇の次の安閑天皇以下から合葬例がみられます。

27日 安閑天皇

安閑天皇は皇后と皇妹、続いて宣化天皇は皇后と孺子(じゅし)、続いて欽明天皇は皇妃が天皇陵に合葬され、その後の()(たつ)天皇は母后陵に、推古天皇は皇子の陵に合葬されており、安閑天皇以下の第六世紀の継体王朝の天皇はすべて合葬を行っていることになります。

28日 合葬形式

こうみてくれば、中期までの竪穴式石室を内部主体とする殆どの古墳は、はじめから家族墓ないし同族墓として造られたとみるより、やはり天皇・豪族の一人のための古墳として造られ。後から同族の合葬者が加えられることもあったと見た方がよさそうです。そして、古墳が家族墓・同族墓として明確に認識された、或はそうした合葬が一つの風習として定着したのは天皇陵が合葬形式となった第六世紀になってからである、ということが言えそうです。

29日--31日

註 
(ばい)(つか)

大規模な古墳の周囲に近接してある小古墳。近親従者の墓とかであろうという推論から名付けられた名であるが、主墳の祭場とか器物のみを埋納した設備とも考えられ研究の余地がある。