日本古代史の謎 その五 水野 祐氏より   

    第二講   古代史の概説 歴代天皇
平成23年10月度

 1日

歴代天皇

代数

漢風諡号

和風()

系統

1

神武

(かむ)日本磐余彦(やまといわれひこ)

彦系

2

(すい)(ぜいい)

(かん)()名川(なか)(わみみの)(みこと)

 

3

安寧

磯城津彦(しきつしま)玉手(たまで)(みの)(みこと)

彦系

4

()(とく)

大日本彦耜(おおやまとひこすき)(ともの)(みこと)

日本彦系

5

考昭

観松彦香殖(みまつひこかえし)(ねの)(みこと)

彦系

6.

考安

日本足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひとの)(みこと)

日本彦系

7

考霊

大日本根子彦太瓊(おおやまとねこひこふとにの)(みこと)

日本根子・彦系

8

考元

大日本根子彦索(おおやまとねこひこくにくるの)(みこと)

日本根子・彦系

9

開化

(わか)日本根子彦(やまとねこひこ)大日日(おおひひの)(みこと)

日本根子・彦系

10

崇神

御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえの)(みこと)

 

 2日

11

垂仁

(いく)目入彦五十狭(めいりひこいさ)(ちの)(みこと)

 

12

景行

大足彦(おおたらしひこ)忍代(おしろ)(わけの)(みこと)

足彦・別系

13

政務

稚足彦(わかたらしひこの)(みこと)

足彦系

14

仲哀

足仲彦(たらしなかつひこの)(みこと)

足彦系

15

応神

誉田(ほんた)(わけの)(みこと)

別系

16

仁徳

大鷦鷯(おおさざきの)(みこと)

 

17

履中

去来(いざ)穂別(ほわけの)(みこと)

別系

18

反正

多遅比(たじひの)(みず)()(わけの)(みこと)

別系

19

允恭

雄朝津間稚子(おあさづくまわくごの)宿(すく)(ねの)(みこと)

 

20

安康

(あな)(ほの)(みこと)

 

 3日

21

雄略

大泊瀬幼(おおはつせわか)(たけの)(みこと)

22

清寧

白髪武広国押稚(しらがのたけひろくにおしわか)日本(やまと)根子(ねこの)(みこと)

23

顕宗

弘計(おけの)(みこと)(袁祁之石巣別)

24

仁賢

億計(おけの)(みこと)

25

武烈

小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかさざきの)(みこと)

26

継体

男大迹(おおどのの)(おう)

27

安閑

広国押(ひろくにおし)(たけ)(かな)(ひの)(みこと)

28

宣化

武小広国押(たけおひろくにおし)(たての)(みこと)

29

欽明

天国排(あめくにおし)(ひらき)広庭(ひろにわの)(みこと)

30

敏達

()語田渟中倉太球敷(さだのぬなくらふとたましきの)(みこと)

 4日

31

用明

(たちばなの)(とよ)(ひの)(みこと)

 

32

崇峻

(はつ)瀬部(せべ)(わか)(さざきの)(みこと)

 

33

推古

豊御食炊屋(とよみけかしきや)(ひめの)(みこと)

 

34

舒明

(おさ)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬかの)(みこと)

足彦系

35

皇極

(あめ)(とよ)(たから)重日足(いかしひたら)(ひめの)(みこと)

足彦系

36

孝徳

(あめ)(よろず)(とよ)(ひの)(みこと)

 

37

斉明

(皇極重祚)

 

38

天智

天命(あめのみこと)(ひらかす)(わけの)(みこと)

別系

39

(弘文)

 

 

40

天武

天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)(みこと)

 

41

持統

大倭根子天之(おおやまとねこあめの)広野(ひろの)(ひめの)女尊(みこと)

日本根子系

42

文武

(やまと)根子(ねこ)(とよ)祖父(おおじ)天皇

日本根子系

43

元明

日本(やまと)根子(ねこ)天津(あまつ)御代(みしろ)豊国(とよくに)(なり)(ひめ)天皇

日本根子系

44

元正

日本(やまと)根子(ねこ)高瑞(たかみずき)(きよ)(たらし)(ひめ)天皇

日本根子系

45

聖武天皇

天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしひらかすとよさくらひこの)(みこと)

彦系

 5日

古事記

現存する日本最古の歴史書。三巻。稗田阿礼(ひえだのあれ)が天武天皇の勅で(じゅしゅう)し、太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の勅により選録して献上。
上巻は天地開闢から鵜葺(うがや)草不合(ふきあえずの)(みこと)まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収める。
 6日
日本書紀
奈良時代に完成したわが国最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720(養老4年、)舎人親(とねりしんのう)らの撰・
 7日

橿原
奈良県南部、畝傍山の東南方の地名。「記紀」によれば、古代はこの地方を磐余といい、神武天皇が国土の平定を終えて畝 橿原宮に即位の式をあげたという。1890(明治23)この地に橿原神宮が創建された。
 8日

大和
旧国名。いまの奈良県の管轄。はじめ「倭」と書いたが、元明天皇の時に国名に二字を用いることが定められ、「倭」に通ずじる「和」の字に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。
 9日
叙事詩
本来は、劇詩・叙事詩とともに、詩の三大部門の一。多くは民 族その他の社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡を叙述する韻分の作品。 
10日
ユーカラ
アイヌの口承文字。一般にユーカラというのは英雄詞曲をいい、敵の目を隠れ一族の手で養育されたポイヤウンペが成長して幾多の困難を克服しつつ外敵を倒し、美少女を得て凱旋するのが大筋である。
11日 尊号   天皇・太上天皇もしくは皇后・皇大皇などの称号。 
諡号   生前の行いを尊び死後に贈られる称号。おくりな。 
磐余   奈良県櫻井市阿倍付近の古地名。
12日 藤原京
694-710(持統8-和銅3)持統・文武・元明天皇三代の都。畝傍・耳成・天香具山の三山に囲まれた地域にあって、飛鳥京に対して(しん)(やくの)(みやこ)と称された。京内は条坊制により東西、南北に大路・小路が走り、薬師寺、紀寺などの寺院が営まれた。
13日 都城制
唐の長安などその典型とする古代都市の一類型。都城は、東西、南北に走る道路で碁盤の目のように区画された。条坊制をとり、それを羅城が取り囲んでいる。日本では、中国の制度にならい藤原京・平安京において整備・完成した。  

3講 紀元前660年、辛酉の年即位からの謎解き

14日 皇紀とは 神武天皇は西暦前660年の辛酉の年に橿原宮で11日に即位式を挙げられたということになっています。
15日

ここで神武天皇の即位年と言えば、特に我々戦前の世代は、即座に皇紀という言葉を連想します。そこで、この皇紀とは何かということから話を進めてみたいと思います。皇紀とは、日本独自の紀年です。戦前においてはこの皇紀によって年を表しました。つまり、今日のように西暦は使われず今年は皇紀何年という形で我々は教えられてきたのです。

16日

昭和15年には、神武天皇即位の元年から計算してちょうど2600年目に当たるということで、盛大な皇紀2600年祝賀の行事が行われたことを覚えています。そしてその翌年、日本は神風を信じて大東亜戦争に突入したのでした。

17日 2600年

この2600年とは、要するに「日本書紀」が設定している神武天皇即位の年を紀元元年とする皇紀の数え方から算出された年数なのです。然し、この皇紀の元年とされる辛酉の年、神武天皇が橿原宮で即位されたと「日本書紀」にはきちんと書いてあるわけですが、これはよく考えて見るとおかしなことなのです。

18日 天文暦法が利用されたのは推古天皇の時 神武天皇が即位されたのは西暦紀元前660年の辛酉の年だと言われますが、そもそも辛酉の年などと言う十干・十二支で年を勘定する方式は、中国の古代の天文学、歴術が入ってこなければ出来ないことです。
19日 有り得ないこと

もし「日本書紀」の記述をそのまま信じるとすれば、神武天皇は辛酉の年の11日という実に区切りのよい日を選ばれて即位されたわけですが、この区切りのよい日を選ぶには、その前提として中国の暦術が知られていなければなりません。たまたまその日に即位されたというようなことは有り得ないことです。

20日

処が、日本に天文暦法が入り、それが活用され、利用されるようになったのは第三十三代推古天皇のときのことなのです。従って、推古天皇以後でなければ神武天皇即位の年月日を辛酉の年の1月1日に選べないのです。

21日 歴史的事実ではない

この矛盾をどう克服したらよいのでしょうか。答えは、「神武天皇が辛酉の年の1月1日に即位された」という歴史的事実があったのではなく、「神武天皇は辛酉の年の1月1日に即位されたということにする」と後世の誰かが決めたということでしょう。そして少なくとも神武天皇の建国の年月日が辛酉の年の11日に決められたのは推古朝以後のことであると見られます。

22日

古代にはなかった紀元何年の表示

ところが、経緯はともかく、神武天皇の即位の年月日が一旦決まると、日本の歴史を考える場合、日本の建国の年=神武天皇の即位の年を紀元元年とするということになったわけです。然し、後の時代と言っても、「記紀」が編纂されたころではなく、それによりもずっと後のことです。

23日 日本書紀が編纂された時には決して皇紀何年などと言う発想はありません。各天皇一代一代ごとに天皇の即位の年ほ元年とし、その天皇の在位年数を数えて一代三十年だとか二十六年だとか、即位何年という年で勘定する即位紀年法だったのです。それを合算して皇紀何年、紀元何年という数え方は古代には全く無かったのです。
24日

従って、神武天皇も即位の年から崩御されるまでの間の年を神武天皇何年、第二代の(すい)(ぜいい)天皇も即位の年から在位何年と勘定しています。そのように一代一代で終わってしまうわけで、それを合算して紀元何年という表示の仕方はしていないのです。

25日

そこでもこうした合算年である皇紀や紀元年が無いにも拘わらず、「日本書紀」の編纂者たちのように神武天皇よりかなり後世の人々が、どうやって暦術も異なるころの神武天皇の即位年を正確に知ることができたのかという疑問が生じてきます。つまり、神武天皇から千年以上も後の人にとって神武天皇の即位が何年前の何日のことであったかを知る手がかりは皆無と云ってよい状態なわけなのです。

26日

紀元年もなく暦術も異なる千年以上も前のこと、しかも文字・記録もない時代のこと、手がかりがあるとすれば固有名詞や数詞に弱い口伝による伝承だけ、これらの絶望的ともいえる障害を乗り越えて伝説の人物の特定の行動の年月日を正確に知るということは不可能と断言してよいでしょう。
そういうことですから、やはり推古朝の歴法が日本に入ってから後、神武天皇の即位の年が決められたとしなければなりません。

27日 即位年=辛酉の年のもつ意味 辛酉(しんゆう)説と讖緯(しんい)歴運説
今一つの問題は、それではなぜ神武天皇の即位の年は辛酉の年決められたのかということです。この問題を解くには、辛酉の暦法が持つ意味を知る必要があります。
28日

辛酉の年に関しては、中国の暦法から出発する讖緯(しんい)説というのがあります。それによると辛酉の説は、革命の起こる年だと考えられています。もし、建国の年を決めようと考えるならば、この辛酉の年はそれに相応しい年だというわけです。

29日

しかし、干支一運6六十年といいまして、60年に一回は同じ干支が回ってくるわけです。だから辛酉の年と言っても60年ごとに辛酉があるのですから、もし辛酉の年を建国の年に当てようと考えたとしても、いつの辛の年にすればよいのかという問題が出てくるわけです。辛酉の年でありさえすればよいなら、西暦紀元前660年でも、西暦紀元前600年でも、或は西暦61年でもよいことになります。

30日

ところが、讖緯(しんい)説がだんだんと発達してきますと、辛酉の年はいずれも革命が起こる年なのですが、その革命の中でも特に一大革命が起きるのは21元、即ち60年を21回繰り返した1260年目という年が一番大きな革命が起こる年だと考えられるようになったのです。

31日

神武天皇が建国されたのは、日本の歴史の中で一番大きな革命だと考えられました。そこで、讖緯(しんい)暦運説に従えば、ある辛酉の年を基準に1260年を遡らせた辛酉の年こそが神武天皇の即位の年に相応しいということになります。