日本古代史の謎 その五 水野 祐氏より
第二講 古代史の概説 歴代天皇
平成23年10月度
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歴代天皇 |
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注 古事記 |
現存する日本最古の歴史書。三巻。稗田阿礼が天武天皇の 上巻は天地開闢から鵜葺草不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収める。 |
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6日 | 注 日本書紀 |
奈良時代に完成したわが国最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4年、)舎人親王らの撰・ |
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7日 | 注 橿原 |
奈良県南部、畝傍山の東南方の地名。「記紀」によれば、古代 |
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8日 | 注 大和 |
旧国名。いまの奈良県の管轄。はじめ「倭」と書いたが、元明天皇の時に国名に二字を用いることが定められ、「倭」に通ずじる「和」の字に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。 |
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9日 | 注 叙事詩 |
本来は、劇詩・叙事詩とともに、詩の三大部門の一。多くは民 |
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10日 | 注 ユーカラ |
アイヌの口承文字。一般にユーカラというのは英雄詞曲をいい、敵の目を隠れ一族の手で養育されたポイヤウンペが成長して幾多の困難を克服しつつ外敵を倒し、美少女を得て凱旋するのが大筋である。 |
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11日 | 注 | 尊号 天皇・太上天皇もしくは皇后・皇大皇などの称号。 諡号 生前の行いを尊び死後に贈られる称号。おくりな。 磐余 |
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12日 | 注 | 藤原京 694-710年(持統8-和銅3)持統・文武・元明天皇三代の都。畝傍・耳成・天香具山の三山に囲まれた地域にあって、飛鳥京に対して新益京と称された。京内は条坊制により東西、南北に大路・小路が走り、薬師寺、紀寺などの寺院が営まれた。 |
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13日 | 注 | 都城制 唐の長安などその典型とする古代都市の一類型。都城は、東西、南北に走る道路で碁盤の目のように区画された。条坊制をとり、それを羅城が取り囲んでいる。日本では、中国の制度にならい藤原京・平安京において整備・完成した。 |
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第3講 紀元前660年、辛酉の年即位からの謎解き |
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14日 | 皇紀とは |
神武天皇は西暦前660年の辛酉の年に橿原宮で1月1日に即位式を挙げられたということになっています。 |
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15日 |
ここで神武天皇の即位年と言えば、特に我々戦前の世代は、即座に”皇紀”という言葉を連想します。そこで、この皇紀とは何かということから話を進めてみたいと思います。 |
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16日 |
昭和15年には、神武天皇即位の元年から計算してちょうど2600年目に当たるということで、盛大な皇紀2600年祝賀の行事が行われたことを覚えています。 |
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17日 | 2600年 |
この2600年とは、要するに「日本書紀」が設定している神武天皇即位の年を紀元元年とする皇紀の数え方から算出された年数なのです。 |
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18日 | 天文暦法が利用されたのは推古天皇の時 |
神武天皇が即位されたのは西暦紀元前660年の辛酉の年だと言われますが、そもそも”辛酉の年”などと言う十干・十二支で年を勘定する方式は、中国の古代の天文学、歴術が入ってこなければ出来ないことです。 |
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19日 | 有り得ないこと |
もし「日本書紀」の記述をそのまま信じるとすれば、神武天皇は辛酉の年の1月1日という実に区切りのよい日を選ばれて即位されたわけですが、この区切りのよい日を選ぶには、その前提として中国の暦術が知られていなければなりません。たまたまその日に即位されたというようなことは有り得ないことです。 |
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20日 |
処が、日本に天文暦法が入り、それが活用され、利用されるようになったのは第三十三代推古天皇のときのことなのです。従って、推古天皇以後でなければ神武天皇即位の年月日を辛酉の年の1月1日に選べないのです。 |
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21日 | 歴史的事実ではない |
この矛盾をどう克服したらよいのでしょうか。 |
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22日 |
古代にはなかった紀元何年の表示 |
ところが、経緯はともかく、神武天皇の即位の年月日が一旦決まると、日本の歴史を考える場合、日本の建国の年=神武天皇の即位の年を紀元元年とするということになったわけです。然し、後の時代と言っても、「記紀」が編纂されたころではなく、それによりもずっと後のことです。 |
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23日 | 日本書紀が編纂された時には決して皇紀何年などと言う発想はありません。各天皇一代一代ごとに天皇の即位の年ほ元年とし、その天皇の在位年数を数えて一代三十年だとか二十六年だとか、即位何年という年で勘定する即位紀年法だったのです。それを合算して皇紀何年、紀元何年という数え方は古代には全く無かったのです。 |
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24日 |
従って、神武天皇も即位の年から崩御されるまでの間の年を神武天皇何年、第二代の綏靖天皇も即位の年から在位何年と勘定しています。そのように一代一代で終わってしまうわけで、それを合算して紀元何年という表示の仕方はしていないのです。 |
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25日 |
そこでもこうした合算年である皇紀や紀元年が無いにも拘わらず、「日本書紀」の編纂者たちのように神武天皇よりかなり後世の人々が、どうやって暦術も異なるころの神武天皇の即位年を正確に知ることができたのかという疑問が生じてきます。つまり、神武天皇から千年以上も後の人にとって神武天皇の即位が何年前の何日のことであったかを知る手がかりは皆無と云ってよい状態なわけなのです。 |
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26日 |
紀元年もなく暦術も異なる千年以上も前のこと、しかも文字・記録もない時代のこと、手がかりがあるとすれば固有名詞や数詞に弱い口伝による伝承だけ、これらの絶望的ともいえる障害を乗り越えて伝説の人物の特定の行動の年月日を正確に知るということは不可能と断言してよいでしょう。 |
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27日 | 即位年=辛酉の年のもつ意味 |
辛酉説と讖緯歴運説 今一つの問題は、それではなぜ神武天皇の即位の年は”辛酉の年”に”決められた”のかということです。 |
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28日 |
辛酉の年に関しては、中国の暦法から出発する讖緯説というのがあります。それによると辛酉の説は、革命の起こる年だと考えられています。もし、建国の年を決めようと考えるならば、この辛酉の年はそれに相応しい年だというわけです。 |
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29日 |
しかし、干支一運6六十年といいまして、60年に一回は同じ干支が回ってくるわけです。だから辛酉の年と言っても60年ごとに辛酉があるのですから、もし辛酉の年を建国の年に当てようと考えたとしても、いつの辛の年にすればよいのかという問題が出てくるわけです。辛酉の年でありさえすればよいなら、西暦紀元前660年でも、西暦紀元前600年でも、或は西暦61年でもよいことになります。 |
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30日 |
ところが、讖緯説がだんだんと発達してきますと、辛酉の年はいずれも革命が起こる年なのですが、その革命の中でも特に一大革命が起きるのは21元、即ち60年を21回繰り返した1260年目という年が一番大きな革命が起こる年だと考えられるようになったのです。 |
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31日 |
神武天皇が建国されたのは、日本の歴史の中で一番大きな革命だと考えられました。そこで、讖緯暦運説に従えば、ある辛酉の年を基準に1260年を遡らせた辛酉の年こそが神武天皇の即位の年に相応しいということになります。 |