系譜の擬制と欽明天皇の出自の謎

平成27年10月

1日

「宣化紀」は「安閑紀」「欽明紀」から抽出した

1日

 

即位前

 

帝紀・大連任命

 

 

 

正月

遷都・宮号選定

宣化元年紀正月の条

 

 

三月

帝紀

 

安閑紀

元年

四月

上総伊甚屯倉設置の物語

 

 

 

五月

屯倉より貢納の物語

宣化九年紀五月の条

 

 

七月

物部大連?鹿火死去

宣化元年紀七月の条

 

 

閏十二月

屯倉の物語・武蔵国造内訌の物語

 

 

二年

五月

全国的な屯倉設置の物語

 

 

 

十二月

天皇埋葬・皇后・皇妹合葬

宣化四年紀十一月の条

 

即位前

 

帝紀・大連大臣の任命

宣化元年紀二月の条

 

元年

正月

帝紀

 

 

 

九月

大伴大蓮金村住吉に蟄居する。

 

欽明紀

二年

三月

天皇系譜

 

 

 

四月

吉備臣百済に天皇の詔書を授ける。

 

 

 

七月

百済・任那。新羅互いに騒擾する。

 

 

 

十月

任那・百済教援のために大伴磐・狭手彦を派遣し任那に赴かせる。

宣化二年紀十月の条

 

三年

七月

百済の使、上表文を持ち来朝する。

書紀は二年とし七月重出し、

 

四年

四月

百済の使を帰国させる。

宣化紀にも三年の記事を欠く。

系譜の擬制と欽明天皇の出自の謎
2日 系譜の擬制と欽明天皇の出自の謎 両朝並立説では、継体天皇の後、蘇我氏の擁立した欽明天皇が即位し、その二年後に大伴氏の擁立する安閑天皇も天皇として立ち、安閑天皇崩御後は宣化天皇が継ぎ、宣化天皇が崩御するまでそうした内乱状態が続いたと説明します。しかし、そのようなクーデター的騒乱があったとみるべき根拠はみあたらず、両朝並立説は全くの推測にすぎないと私は考えます。
3日

「継体天皇紀」によれば、継体天皇は、崩御の直前に「大兄を立てて天皇としたまう」とありますが、この大兄が継体天皇の長子・(まがりの)大兄(おおえ)(安閑天皇)であることは異論のないところで、そうであれば、継体天皇の後、すぐに欽明天皇が即位したとする両朝並立説は理由がないということになります。

4日

また、私は欽明天皇の系譜的構成は両朝並立説が前提としているような仁徳王朝の血筋とは考えないのです。

5日 宣化天皇は非実在

そもそも、継体天皇には即位以前から六人の妃がいますが、それらの皇子はその生母が下級の豪族の出であるため皇位継承圏外におかれ、問題となるのは(ちゃく)后・()(しら)(かの)()()の子・天国排(あめくにおし)(ひらき)広庭(ひろにわの)(みこと)(欽明天皇)尾張(おわりの)(むらじ)(くさ)()(むすめ)目子媛(めのこひめ)の子である(まがりの)大兄(おおえ)(ひの)(くまの)高田(たかたの)皇子(みこ)(宣化天皇)ということになります。

6日

かし、この()(しら)(かの)()()と言うのは、仁賢天皇と雄略天皇の皇女の間に生まれた皇女であり、武烈天皇の姉という系譜を持っているのです。即ち、仁賢天皇も弟の武烈天皇も私が非実在天皇とする人物であり、当然、()(しら)(かの)()()も架空の女性である可能性が濃厚です。

7日

従って私は、この()(しら)(かの)()()の記事は「記紀」編集期、万世一系の皇統譜をつくる目的で仁賢天皇と継体王朝を血縁的に結びつける為に作られた系譜的擬制であると考えます。

8日 欽明天皇実在

そうなると、その()(しら)(かの)()()から生まれたという欽明天皇の実在性も疑わねばならないということになりますが、欽明天皇の実在は微塵も疑いありません。

9日 それでは、欽明天皇の出自はどうなるのか、私は欽明天皇こそ実は(ひの)(くまの)高田(たかたの)皇子(みこ)であろうと考えます。
10日

即ち、宣化天皇は非実在の天皇であると私は述べましたが、その皇子名である(ひの)(くまの)高田(たかた)は実在の人物で、この(ひの)(くまの)高田(たかた)が兄の(まがりの)大兄(おおえ)つまり安閑天皇に続いて欽明天皇として即位したとみるのです。

11日

そのように考えるのは、()(しら)(かの)()()が非実在であるというからだけでなく、実在する欽明天皇に実名がなく(天国排開広庭尊は和風諡号そのまま)、逆に非実在の宣化天皇に実名があるという矛盾が、檜隈高田を欽明天皇の実名であったとみることで解消されることも大きな理由です。

12日

また安閑・欽明と兄弟順に皇位につかれたと見ることで継体天皇崩御前後の多くの疑惑も解消できると考えるのです。

13日

このように、私は、継体→安閑→欽明というスムースな皇位の継承を考えるわけで、そこに皇位継承を巡っての内乱を意味する、両朝並立の状況を想定する余地はないと考えるのです。

蘇我氏台頭の背景  大伴氏の背後を狙う勢力

14日 継体天皇

王朝並立という状況は現出しなかったにせよ、継体天皇に始まる新王朝が豪族同士の勢力抗争にあって常に存続の危険にさらされていたことは間違いないことです。

15日 河内国で即位 継体天皇が大和に入らず、河内国で即位され、長い間、その周辺に都をおかれたのも、擁立者・大伴氏と大和の豪族の勢力争いの激化を避けるためでした。大伴氏の勢力圏内において新王朝の基盤を固め、反対勢力を割って新しい勢力を徐々に浸透させようという戦略的な目論見があったことは確実です。
16日 大伴氏

結果的に20年もの歳月を経て漸く大和へ入ったわけですが、それは一面では、所期の目的が達成されたからだと言えます。大伴氏は雄略天皇の治世末期から勢力を伸張し、継体天皇の擁立に成功し、さらに大和への遷都を成し遂げたことでその権勢はまさに旭日昇天の勢いとなったことでしょう。

17日 狡猾な蘇我氏

しかし、絶頂期は衰頽の始まりであると言われる通り大伴氏の背後には既に物部氏が迫っており、さらに狡猾な陰謀をめぐらす蘇我氏が次代の権勢を狙っていたのです。

18日 物部氏の台頭

磐井の反乱を契機とする物部氏の台頭
継体天皇の崩御後も大伴氏は息のかかった安閑天皇を即位させることに成功し、依然としてその力を以て天皇を庇護し権勢を誇っていましたが、ちょうどその頃、朝鮮植民地の回復のために近江(おうみの)()()(おみ)が軍勢を率いて朝鮮へ向かいました。

19日

そして、近江(おうみの)()()(おみ)が九州筑紫において遠征軍の物資調達を終えてまさに渡航を開始しようとしていた時、筑紫(つくしの)国造(くにのみやつこ)(いわ)()の反乱が勃発したのです。

20日 近江毛野臣は渡航することができず、事態の深刻さを憂慮して朝廷は、物部大連(もののべのおおむらじあら)鹿()()を司令官とする軍勢を新たに九州に向かわせます。
21日

仁徳王朝以来、度重なる遠征軍派遣の最前線吉として物資調達の負担に耐えていた北九州一帯の人びとが磐井の側に加わっていたため、近江毛野臣だけでは反乱を容易に鎮圧できなかったのです。

22日

しかし、あら(あら)鹿()()は一年余の激戦の末、磐井を斬殺して反乱を鎮めることに成功したのです。そして、大伴氏と並ぶ軍閥家であった物部氏は、この磐井の乱の平定によって名声と人望を獲得したのです。

23日 物部氏と蘇我氏の連合 近江毛野臣は529年に朝鮮安羅に陣を構えましたが、新羅・百済国王は近江毛野臣の召喚に応えず、代理の使者を送ってきただけで、いっこうに新羅によって侵略された任那の再建の話し合いに乗りませんでした。
24日 それどころか、新羅は新たに任那の村の略奪を行い、完全に談合は失敗したのです。しかも、近江毛野臣は任那における人民支配において当地の人々の反感をかうありさまで、遂に5309月、朝廷は近江毛野臣を帰任させざるを得なくなりました。
25日 近江毛野臣は帰途、対馬において病死しますが、朝鮮遠征は弁解の余地もないほどの完全な失敗に終わり、最高責任者である大伴金村に対し激しい非難が起こってきたのです。
26日

この大伴氏批判勢力の筆頭が物部氏です。?(あら)鹿()()没後ら大連を継いでいた()輿(こし)は、当時、同じく朝廷内で重きょなしていた蘇我氏と姻戚関係があり、物部氏は蘇我氏と一応の協力関係にあったとみられます。

27日

物部氏は大伴氏と同様に古い部門の家であり磐井の反乱以後めきめきと中央政界で発言力を増してきた物部氏と大伴氏の対決は不可避の状況となります。そしてこの両者の対決に介入したのが経済面において実権を握っていた蘇我氏です。

28日 蘇我氏の陰謀 蘇我氏は物部氏と大伴氏の対決を煽り、大伴氏の失脚を画策していたとみられます。周到にも大伴氏と緊密な安閑天皇の没後を狙い、皇位継承者である皇子の懐柔に全力をあげ、大伴氏の追い落としの機を窺っていたのです。
29日 そして、安閑天皇の後、欽明天皇の擁立に成功し、その元年に早くも物部氏をけしかけて大伴氏を失脚へと追い込みました。物部(もののべの)大連(おおむらじ)()輿(こし)は、朝廷内において公然と朝鮮経営の失敗の責任は大伴金村にあるとして大伴氏批判を行ったのです。
30日

大伴金村は周到に準備されたこの訴追劇に対抗するすべがなく、病気と称して参朝しないまま中央政界から失脚するにいたりました。

31日 大伴氏失脚

こうして大伴氏が失脚し、物部尾輿が大連として執政の職を独占することになったのですが、蘇我氏はこの時大臣としてもう一方の最高執政官としてちゃっかり君臨していたのです。蘇我氏は、まさに自分の手を汚すことなく大敵・大伴氏を葬り去ったわけで、物部氏と大伴氏の争いから一人漁夫の利を得ていたといえます。こうして、権謀術数に長じていた蘇我氏は次ぎに物部氏の追い落としに専念することになるわけです。