徳永の「古事記」その7 
      「神話を教えない民族は必ず滅んでいる」

平成24年10月

1日 天孫降臨を命じらる これらの準備ができたのを見て、タケミカヅチは高天原へと帰り、アマテラスと高木神に報告した。報告を受けたアマテラスと高木 神は、葦原中国の統治者候補をと考えていた、(あめの)(おし)()(みみの)(みこと)天降(あまくだ)りを命じた。
2日 日嗣皇子(みこ)正勝吾勝勝速(まさかつわれかつかつはや)日天之(ひあめの)(おし)()(みみの)(みこと)は、「待機していた間に子が生まれたので、その子を降ろしましょう」と答えた。その御子こそ、(あめの)(おし)()(みみの)(みこと) 高木神の娘である、万幡豊秋津師比売(よろずとよあきつしひめの)(みこと)の間に生まれた邇邇(にに)(ぎの)(みこと)である。正式には、天邇岐志国邇(あめにきしくにに)()()天津(あまつ)()高日子番能邇邇(こひこほのにに)(ぎの)(みこと)である。
3日 寿 寿(ほぎ)(うた)(くし)(やつたま)の神この ()()れる火は 高天(たかあま)の原には神産(かむむ)()()御祖(みおや)(みこと)の とだる(あめ)の 新巣(にひす)凝烟(すす)

()(つか)(たる)るまで()きあげ (つち)

下は底つ(いわ)()()(こら)らして (たく)(なわ)の 千尋(ちひろ)縄打(なわう)?()釣せし海人(あま)の 口大(くちおほ)の 尾翼(おはた)(すずき) さわさわにひきよせあげて ()ち竹の とををとををに(あま)真魚咋(まなぐひ) (たてまつ)
4日 口語訳 水戸の神の孫・櫛八玉の神が料理人となり、天津神をもてなした折、「寿詞」として申しあげた言葉。

主たる内容は「この 私の新しく(おこ)した浄き火は高天の原の神産巣日の御祖の命の 立派な天の新しい家の煤が 

長く長く垂れるまでしっかり焼き上げ 底の巌に届くほどしっかりと焼き固め 釣りをする海人が鱸を引き寄せ 天にふさわしい料理を 献ります」。
註釈 

上の神々も海中の海人族をも服属させたと解釈する。

5日

天孫(てんそん)降臨(こうりん)

地上の葦原(あしはらの)中国(なかつくに)(国の中の国)を統治する為に邇邇(にに)(ぎの)(みこと)は高天原から降臨する。 大山津見神の娘と婚姻の際、邇邇(にに)(ぎの)(みこと)が下した判断がその後の天皇の寿命を限りあるものとした。
6日 邇邇(にに)(ぎの)(みこと)に随行した神々は、天児屋(あめのこやねの)(みこと)()()(だまの)(みこと)天宇受売(あめのうずめの)(みこと)伊斯許理度(いしこりどめの)(みこと)(たまの)(おやの)(みこと)とその部族。さらに、常世思(とこよのおもい)(かねの)(みこと)()力男(ぢからをの)(かみ)(あめの)(いわ)門別(とわけの)(かみ)も、八尺(やさかに)勾玉(まがたま)八咫(やたの)(かがみ)草那(くさな)()(つるぎ)を持ち随行した。邇邇(にに)(ぎの)(みこと)(ニニギノミコト)は天照大神の孫に当たることから天孫降臨と呼ばれる。アマテラスは、八尺(やさかに)勾玉(まがたま)八咫(やたの)(かがみ)草那(くさな)()(つるぎ)、即ち天皇のシンボルである。 この三種の神器のうち、特に八咫(やたの)(かがみ)を自身の象徴として祀るように指示されている。鏡は拝礼する人間の心を写すからであろう邇邇(にに)(ぎの)(みこと)(ニニギノミコト)は天照大神の孫に当たることから天孫降臨と呼ばれる。アマテラスは、八尺(やさかに)勾玉(まがたま)八咫(やたの)(かがみ)草那(くさな)()(つるぎ)、即ち天皇のシンボルである。この三種の神器のうち、特に八咫(やたの)(かがみ)を自身の象徴として祀るように指示されている。鏡は拝礼する人間の心を写すからであろう。
7日 一行は雲をかきわけて進んで行く、高天原と葦原中国を結ぶ道の辻に、光を発する怪しげな神が立っていた。一行は引き返してアマテラスと高木神に報告する。天の岩戸の前で踊った天宇受売(あめのうずめの)(みこと)言う。 「お前は女であるが、何者と対峙しても相手を圧倒できる神である。お前が行き、光を発する者に名を尋ねよ」と命じた。
8日 天宇受売(あめのうずめの)(みこと)が行きて名を問うと、光を発する神が答えた。「私は、国つ神の猿田毘(さるたび)古神(このかみ)(サルタヒコ)です。天つ(あまつ)(かみ)の皇子が天を降りると聞き、案内役を勤めようと参りました」と答えた。一行はサルタヒコの先導のもと、天の浮橋で休息を取りながら、

筑紫の日向(ひむか)の高千穂、その久士(くじ)布流(ふる)(みね)に降り立った。ニニギノミコトは、「この地は、韓国に相対し、笠沙(かささ)御崎(みざき)(薩摩半島西端の野間岬)に道が通じ、朝日が真っ直ぐに射し、夕日が美しく照る国である。まことら良い土地だ」と言い、自分の住まいの立派な宮殿を建てた。

9日 天孫降臨に随伴した神々

その神々を「(いつ)(ともの)()」と申す

神名 子孫 職掌

天児屋(あめのこやねの)(みこと)

中臣連(なかとみのむらじ)

宮廷の祭祀

()()(だまの)(みこと)

(いん)部首(べのおびと)

宮廷の祭祀

神名 子孫 職掌

天宇(あめのう)受売(ずめの)(みこと)

猿女(さるめの)(きみ)

祭祀の場で舞楽等を演じる巫女

伊斯許理度売(いしこりどめの)(みこと)

(かがみつ)鏡連(くりのむらじ)

鏡作り

(たまの)(やの)(みこと)

(たまの)祖連(おやのむらじ)

玉作り

10日

高千穂

天孫ニニギノミコトは、古事記によると「(つく)()日向(ひむか)の高千穂のくじふる(たけ)」に降臨したとある。この高千穂の特定に関しては論争がある。日本書紀の本文・第四と第六には、「日向(ひむか)()の高千穂()とある」。また日本書紀の景行紀には 熊襲(くまそ)の国の事を「(その)(くに)」としている。故に「()」は熊襲の居住地域と思われる。襲という地名は律令が出来てから、大隅国曾於郡に継承され、今日の鹿児島県曾於郡。姶良郡・国分市一帯とされる。日向の襲は高千穂と理解される。多分、霧島連峰であろう。
11日

神々の系図

高木神万幡豊秋津師比売命||天火明命
伊邪那岐神_ 天照大神_ 正勝吾勝勝         速日天忍穂耳命
天邇岐志国邇岐志天津日高日子
         火照命(海幸彦)

晩能邇邇芸命   火須勢理命
火遠理命(山幸彦)
   (天津日高日子倭穂手見命)

豊玉毘売命
大山津見神  神阿多都比売(木花の佐久夜毘売) 五瀬命  稲氷命
 

大綿津見神 
天津日高日子波限建鵜葺草不合命
          御毛沼命

                若御毛沼命

  

12日

邇邇(にに)(ぎの)(みこと)と 木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)

葦原中国で暮らし始めたニニギノミコトは、笠沙で美しい娘を見初めた。大山津(おおやまつ)(みの)(かみ)(山の神)の娘の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)(コノハナサクヤビメ)であった。コノハナサクヤビメは現在、日本一の富士山の神として祀られてする。ニニギノミコトが求婚する、 「私は結婚してよいのですが父の許しが必要」と言う。早速、大山津(おおやまつ)(みの)(かみ)に遣いをやると、献上品と共に、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と姉・(いし)長比売(ながひめ)も差し出してきた。処が姉は容姿が恐ろしげであり、ニニギは妹のみ残して姉は親元へ返してしまう。
13日 親の大山津(おおやまつ)(みの)(かみ)は怒りつつこう伝えた。「姉妹を捧げたのは意味がありました。(いし)長比売(ながひめ)と結婚すれば、御子の命は岩の如く永遠となり、妹の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と結婚すれば その仲は花が咲き誇るように栄える。でも貴方は(いし)長比売(ながひめ)を戻された。御子(みこ)の命は限りのあるものとなりましょう」と。天皇の命が人間のようになることの説明である。
14日 ニニギノミコトの妻となり、一夜を共にしたコノハナサクヤビメは懐妊し、やがて出産の時期を迎えた。報告の為に参上すると、ニニギは「一夜の契りだけで懐妊するわけがない」と疑念を抱いた。そこで、コノハナサクヤビメは燃え盛る産屋(うぶや)での誓約を申し出た。「今、身ごもっている御子が、もし貴方の子でないならば、無事には生まれない。あなたの子であるならば無事に生まれるでしょう」である。 そう言って燃え盛る産屋で出産を始めたコノハナサクヤビメ、一番火の強い時に、長男・()(でりの)(みこと)(隼人(はやと)の祖神)、次に次男・火須勢理命、最後に三男・()遠理(おりの)(みこと)を生み御子がニニギノミコトの子である事を証明した。
15日 高千穂山頂の「天の逆鉾(さかほこ)

降臨した邇邇(にに)(ぎの)(みこと)が突き立てたと言われる矛である。連山に韓国(からくに)岳がある。   
高千穂の真名井の滝
高千穂町にあり、「天の井戸の水」を地に注ぐと言われる滝である。近くに高千穂神社、くしふる神社、高天原遥拝所など天孫降臨伝承地がある。 
16日 神武天皇の父誕生物語 海佐知毘古(海幸彦)、山佐知毘古(山幸彦)の争い

それは、海と山の佐知毘古の兄弟喧嘩から始まった。

海佐知毘古(海幸彦)、山佐知毘古(山幸彦)の争いである。一本の釣り針を巡る兄弟喧嘩から弟は海神の国へ行きその娘と結婚、ここで誕生するのか初代・神武天皇の父である「古事記」の上巻の最後に綴られた物語である。中巻は天皇家の話へと進む。
17日 それは、隼人の大和朝廷服従の物語でもある。神話の世界は、ニニギノミコトとコノハナサクヤビメの息子の代へと舞台を移動する。三人の息子の中、長男の()(でりの)(みこと) は海佐知毘古と呼ばれ、海の幸を取るのが生業である。三男の()遠理(おりの)(みこと)(ホオリノミコト)は、山佐知毘古と呼ばれ山での狩りが生業であった。
18日 ある日、弟は兄に「互いに道具を交換しよう」と提案して兄自慢の釣り針を持って海に出る。魚は一匹も釣れず而も釣り針を紛失した。兄は激怒して許してくれない。ホオリノミコトが自分の剣を潰し500本の釣り針を作って渡しても、さらに1000本作っても「元の釣り針を返せ」と言い頑なに許さない。ホオリノミコトが浜辺で途方に暮れていると、 そこを塩椎(しおつちの)(かみ)が通りかかかった。「塩椎(しおつち)」とは潮流を司る精霊という意味を持つ。事情を聞いた塩椎(しおつちの)(かみ)は、竹で船を編み、「この船でそのまま行けば、綿津見神(海神)の宮殿に着く。その近くにある桂の木に登り、綿津見神の娘が来るのを待ちなさい」と言う。
19日 指示に従った()遠理(おりの)(みこと)(ホオリノミコト)は、綿津(わたつ)(みの)(かみ)の娘・豊玉毘売(とよたまびばめ)と出会う。後に結婚する。楽しい日々を過ごし3年ほど経た時、ホオリノミコトは自分がここにやってきた理由を思い出した。 綿津見神に事情を話すと海の生き物達を集めホオリノミコトが探していた釣り針に記憶が無いかを尋ねた。すると、赤鯛の(のど)に突き刺さっている釣り針が見つかった。
20日 これを機に故郷に帰ることを決めたホオリノミコトに、綿津(わたつ)(みの)(かみ)は「兄を懲らしめる呪文」と、潮の満ち()を操れる「(しお)満珠(みつたま)」「潮干(しおひ)(たま)」を授けた。そして、私は水を支配するので向こう三年間は貴方の有利になるように水を操る。貴方の兄は貧しくなり、それを恨んで攻めてくるかもですが、その時は(しお)満珠(みつたま)で塩水に溺れさせ、 許しを乞うて来たら潮干(しおひ)(たま)で助けてあげなさい」と話し一番泳ぎの速い鰐に()遠理(おりの)(みこと)(ホオリノミコト)を乗せて故郷まで送ってくれた。

この通りにしたお蔭で兄は完全に屈服し、その後、弟の護衛となり、さらに兄の子孫である隼人も代々朝廷の警護を担うこととなった。 

21日

豊玉毘売(とよたまびばめ)()遠理(おりの)(みこと)

()遠理(おりの)(みこと)が故郷に帰って暫くすると身ごもった豊玉毘売(とよたまびばめ)が「私は間もなく臨月を迎えます。天つ神の子を海原で生むわけにはゆかぬので馳せ参じました」と陸地に現れた。すぐに産屋を準備する間もなく陣痛が始まった。愈々生まれるという時、豊玉毘売(とよたまびばめ)()遠理(おりの)(みこと)に頼んだ。 「子を生む時、私は本来の姿に戻りますから絶対に覗かないで下さい」と。然し、()遠理(おりの)(みこと)は好奇心に負けて出産現場を覗いてしまう。

そこには、出産の痛みに、のた打ち回る巨大な鰐がおり、驚いた()遠理(おりの)(みこと)は悲鳴をあげて逃げた。

22日 覗かれたことに気づいた豊玉毘売(とよたまびばめ)は、恥ずかしさの余りに怒って「今後も子の養育の為に、海と陸を行き来しようと考えていたが、もう二度と陸には来ません」と海神国へと帰ってしまった。この時に生まれたのが、天津(あまつ)()高日子波限建鵜葺(こひこなぎさたけうがや)草葺不合(ふきあえずの)(みこと)である。豊玉毘売(とよたまびばめ)は、この子の為に養育係として妹の玉依毘売(たまよりびめ)を遣わせた。

成長した天津(あまつ)()高日子波限建鵜葺(こひこなぎさたけうがや)草葺不合(ふきあえずの)(みこと)と育ての親・玉依毘売(たまよりびめ)は結婚して後の神武天皇となる、神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)ほか、(いつ)(せの)(みこと)(いな)(ひの)(みこと)御毛(みけ)(ぬの)(みこと)(わか)御毛(みけ)(ぬの)(みこと)の四神を生んだ。
23日 妻から夫へ (あか)(たま)は ()さえ光れど 白珠君が(そう)貴くありけり
(覗いてはならないと願ったにも拘らず、出産を覗いた夫・()遠理(おりの)(みこと)へ献った歌。
もう会えない夫を恋しいと思う気持ちが込められている。
「赤い珠は通した緒まで美しいが白い珠のような貴方の姿はもっと美しく貴いものでした。)
24日

夫から妻へ

沖つ島 鴨著(かもつ)く島に 我が率寝(そいね)(いも)は忘れじ 世のことごとに
(自らが禁を犯した為に帰ってしまった妻が、妹に託して詠んだ歌へ、()遠理(おりの)(みこと)の返歌。
「遠い沖、鴨が寄り着く島で、添い寝した妻のことは決して忘れない。)
25日 邇邇(にに)(ぎの)(みこと)の天孫降臨から、()遠理(おりの)(みこと)の物語までを「日向三代」と言う。 「古事記」では「日向三代」までが「神代」である。次ぎの神武天皇の物語から中巻となる。
26日 鬼の洗濯岩

宮崎市日南海岸に青島がある。周辺に波に侵食された階段状の岩場のこと。海神国から戻った()遠理(おりの)(みこと)が辿り着いて宮を建てた場所。
  
鵜戸神宮

豊玉毘売(とよたまびばめ)を祀る日南市の神社。海岸沿い周辺に「出産の為に陸に来る時に乗った巨岩」がある。
27日 神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)=神武天皇「神武東征物語」 葦原中国に天つ神の孫・日子番能邇邇芸命が降り立ち、国を治めるようになってから三代の時が過ぎ、 神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)の代となっていた。兄の(いつ)(せの)(みこと)にこうもちかけた。
28日 「高千穂宮に()して(はか)りて()りたまひけらく「何地(いづこ)()さば、平らけく(あめ)の下の(まつりごと)(きこ)こしめさむ。(ひむがし)に行かむ」」 とのりたまひて、すなはち日向(ひむか)()たして筑紫に()でましき。どこの土地に行けば、天の下の政を安らかにとることが出来るのかである。これが神武東征の始まりである。
29日 古事記では東征の理由を何も触れていないが、日本書紀では、神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)が45歳の時とし、理由を詳しく述べている。()遠理(おりの)(みこと)豊玉毘売(とよたまびばめ)から生まれた子・神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)は兄の(いつ)(せの)(みこと)らと話しあい「安らかに天下を治める為に、 東方を目指すそう」と決めた。この天下統一のために東=大和をめざす物語を「神武東征」と言う。一行は、故郷の高千穂・日向(ひむか)から船出した。豊予海峡を経て、豊国の宇佐に入る。地に住む宇沙(うさ)都比(つひ)()()()()()()が手厚くもてなした。
30日 次に筑紫へ移動し、岡田宮で約1年間過す。そして吉備国の多祁(たけ)理宮(りのみや)(多家神社)7年、高島宮で8年を過してから速吸門(はやすいなと)にたどり着く。そこに、亀の甲羅に乗った国つ神が現れ、臣従(しんじゅう)を申し出た。 この神は海路に詳しく(さお)根津(ねつ)日子(ひこ)と呼ばれた大和国造の祖である。さらに海を進み、浪速の(わたり)を越え、肩津に船を寄せた。(現在の東大阪市日下町あたり)
31日 その時、()()()()()()()()の襲撃を受けた。ここで一行は、船を降り、楯を取って戦った。 ここの地の名前「楯津(たてつ)」現在は日下の蓼津(たでつ)の由来である。生駒山の山麓は古代には入江であった。