日本、あれやこれや その54
平成20年10

我が愛するヒュースケン

1日 ヒュースケン

アムステルダム生まれのオランダ人。 米国に帰化。1856(安政3)に初代総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日、ハリスの秘書兼通訳を務めた。
1861
1月14日万延元年12月4日)にプロシア使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から
善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去。28歳没。
つるいう日本女性との中に一人の息子を残している。
 
2日 徳川将軍謁見記録

安政41021日日記
ハリスが初めて徳川将軍に拝謁する為に江戸城へ向かった時のことである。1857127日である。「朝九時、皇城に向って行列を組んだ。まず下田奉行信濃守がノリモンに乗って供回りを従え、ついで合衆国の旗を前に立てたハリス氏とその随員、それから私、下田の副奉行若菜三男三郎、みなノリ モンであった。
空は澄み切っていた。第二の郭の城壁にそって約20分も行ってから濠を渡り、郭の壁の中に枡形を作っている二つの門を潜りぬけて、郭の中にはいった。また一つ濠を渡り、別の門を潜り、ついに皇城の中心部に入った。
3日 緻密な観察力

この(くるわ)は他の郭よりずっと美しい。きちんとした状態で保たれている。城壁には純白の、三層のバゴダが飾りつけられている。城壁の張り出した箇所とその周囲には、漆喰(しっくい)で固めた回廊がある。それがすべて樹木と調和して全く絵のような眺めである。

一行はこの門(大手門)のところで、馬やノリモンを捨て、旗を置いた。大使たけは例外としてノリモンに残った。第四の橋(下乗橋)に達した時、大使もノリモンから降りた。さらに壁に囲まれた門を四つ通り過ぎてから、宮殿のある中庭に着いた。 
4日 記憶抜群のヒュースケン

玄関で汚れた靴をはきかえ、七段の階段を上る。廊下のようなところへ(御玄関階上)に二人のオメツケ(大目付と御目付)が迎えに出ていたが、一人は丹波守で、もう一人が先導して控えの間(殿上間下段)にはいった。床から八フィートばかり高いところの鏡板には、樹木や花、鸚鵡などの透かし彫りが施してある。そこへ委員(接待御用掛)たちが挨拶と接待のためにあらわれた。
一人の高官が、自分たちの

部屋(大広間御車寄仮控所)にきてみないかと大使を誘った。そこで我々は殿中の大広間に案内してもらった。天井は30フィートの高さがあり、木の柱で支えられていた。それから下検分と予行演習のため、謁見の間に案内された。その後、広間にもどって、衝立の陰に椅子をすすめられた。ようやく大君が玉座に上った。静粛を命ずる万国共通の音を人々がたてるのが聞こえてきた。
5日 謁見の間(陛下とは将軍のこと) 先刻の二人のオメツケが、用意がととのったことを知らせてきた。二人が先導し、信濃守がそれに従い、次に大使、それから私が、アメリカ国旗に包んだ大統領の書簡を持ってつづく。 我々の進む右手には式服をまとった廷臣たちが大勢(6、700名も)ひざまずいていたが、その衣装は頭のてっぺんに、ちょこなんと載っている四角い漆塗りの被りものと、非常に幅の広い袖のついた、淡黄色の麻の着物からなっていた。
6日 秀でた文明観察 そのゆったりした袖には紋章がついている。プロテスタントの牧師のラバトのように結んだ白絹の帯を巻き、反りのある片刃の剣を佩びている。このときは一本だけであった。 彼らはズボンをはいているが、それは脚の長さの二倍もあって、完全に足が隠れ、余った部分は後方に引きずっているので、膝で歩くような格好に見える。多数の廷臣が集まっているのに、極めて深い静粛がその場を支配していた。
7日 謁見の間(陛下とは将軍のこと) 広間と、大君のいる部屋とを仕切っている板戸のところまで行くと、二人のオメツケは信濃守と同じように跪いていた。そこで右に向き直ると、正面に大君がいた。信濃守は膝行して我々を先導する。大使は普通に立ったまま、身を屈めてそのあとに続く。 大使は一段高く上って畳二畳の長さだけ進んだところで二度目のお辞儀、五畳めの畳で三度目のお辞儀をして、そのまま立ち止まった。大使の右側には閣老会議の五人の委員、左側に他の高官が五人、「みな」膝まずいていた。そのほかには日本の国王陛下に拝謁を許された者はいなかった。 
8日 将軍 大使のいるところから床はまた一段と高くなっており、三フィートばかりある壇上の御座所の奥に、国王陛下すなわち日本の大君が床机のようなものに坐っていた。しかしその辺りは暗い上に離れているの で殆ど見えない。
天井から垂れ下がったカーテンが顔を隠している。膝まずいている人たちにはよく見えるが、直立している我々には無理である。
9日 国書捧呈 大使はそこで口上を述べて、大統領から撰ばれて陛下に国書を捧呈することを光栄に思う旨、また、陛下の宮廷に対する全権大使に任ぜられたことを光栄に思う旨、そして「彼にとってそれが」最大の慶びである旨を述べた。そして最後に英語でこう結んだ。 「陛下、私は、アメリカ合衆国の信任状を捧呈するにあたって、大統領が陛下の健康と幸福、貴領土の繁栄を衷心から祈念していることをお伝う申しあげるよう命ぜられております」。
10日 国書捧呈2 「私は、陛下の宮廷において合衆国全権大使の高い重要な地位につくために選ばれて参りましたことを大なる名誉と考えております。そして私の衷心よりの願いは両国を永続する友情の絆によって更に密接に結びつけることでありますから、その目的を達成するため、不断の努力を傾注致したいと存じます」。 この結びの言葉に対して、大君は三度、床を踏み鳴らし、そして日本語で答えた。通訳森山多吉郎のオランダ語で、意味は「はるか遠国より使節に託して寄せられた書簡を嬉しく思う。また、使節の口上も喜ばしく聴いた。末永く交誼を保ちたいものである」ということである。 
11日 国書捧呈3 この挨拶には人名代名詞がなかった。大君は「私」などという小さい言葉を使うには偉大すぎるからである。処で、その私は御座所の入口に控えていたが、この挨拶の終わったところで前に進みでて、三回の定められたお辞儀を繰返し、大統領の手紙を大使に渡すと、大使はそれを開いて、大統領の署名を外国事務相に示し、その手に渡す。すると外国事務相はそれを玉座の前の小卓に載せる。そこで大使は暇乞いをし、後ずさりし て、定めの通り三拝の礼をする。
これが、この帝国から一切の異国的なもの、つまりキリスト教的なものを放逐した君主の子孫の面前で行われたのである。日本に於ける異教徒迫害は、キリスト教徒が残らず死に絶えるまでやまなかった。外国からの手紙がもたらす者は、何人によらず、一族もろとも処刑すると宣言した勅令は、まだ生きている。
12日 キリスト教について 然し、新米の宗教に加えられた残虐行為を理由として余り日本人を責めることはやめよう。信徒たちは、その戒めを忘れ、王の責めを忘れ、日本を荒廃させている内乱に加担した。我々自身の歴史をふり返ってみても、異端審問の火は容易に消えなかったし、カルヴィンはセルヴェトゥスを殺し、神聖同盟の加盟者たちは、聖バルトロメオの 宵にユグノーを殺した。優れた文明を誇り、キリスト教の僕と自称する我々ヨーロッパ人も、信仰を異にするからついって互いに殺しあうことを止めず、そうした総ての残虐行為や火刑や絞首刑が、愛と恵みの主―愛と慈しみだけ教えた人であるのにーに仕えるだめに必要であると公言するほど狂信的であったのだ。
13日 簡素、気品、威厳、洗練の宮廷

(幕府のこと)
日本の宮廷は、確かに人目を惹くほどの豪奢さはない。廷臣たちは大勢いたが、ダイヤモンドが光って見えるようなことは一度もなかった。僅かに刀の柄に小さな金の飾りが認められるくらいだった。シャムの宮廷の貴族は、その未開さを泥臭い贅沢で隠そうとして、金や宝石で飾り立てていた。 然し、江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳を備えた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光をそえる洗練された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイヤモンドよりも遥かに眩い光を放っていた。
14日 大君(将軍のこと) この膝まづいた群衆の間を縫って、大日本の尊大な独裁者―それは家康の後胤であり、外国人やキリスト教徒に対して、一人の例外もなく敵意を抱いてきた歴代の君主の手法であるーの玉座に向って、二人の男が胸を張って進み出る。 然し、ひとふりの剣も鞘走らなかった。近習の衛士たちも、誰一人としてこの僭上者を遮るために立ち上がろうとはしない。無礼を咎める声ひとつ聞こえない。彼らはまるで大理石かブロンズの彫像のように沈黙して身じろぎもしなかつた。
15日 無知と孤立の闇 江戸の宮廷は俄かに無力となってしましったのか?情け深い女神さまか何かが、二人をかばって下さったのか?恐るべき軍隊が彼らを護っているのか?二人の背後に剣付鉄砲の兵士がついていたわけではない。彼らの携えている武器はといえば、一振りの剣だけだったが、それとても一試合すればみじんに砕けてしまいそうなものでしかなかった。 いや、それは、文明の太陽、進歩の星が、再びアジアに輝いたからなのだ。無知と孤立の闇が消え、この帝国の誇り高い統治者も己の無力と西洋諸国民の力を認め始めており、今日まで、思わせぶりな女王のように世界のあらゆる大国の縁組の申し入れをはねつけてきたこの帝国も、ようやく人間の権利を尊重して世界の国々の仲間入りをしようとしているのだ。
16日 おお神よ、

この国の質朴さよ
然しながら、いまや私がいとしささえ覚え始めている国よ、この進歩は本当に進歩なのか?

この文明は本当にお前のための文明なのか?

この国の人々の質朴な習俗と共に、その飾り気の無さを私は賛美する。
この国土の豊かさを見、至る所に満ちている子供達の愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことのできなかった私には、おお神よ、この幸福な情景が今や終りを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならないのである。
17日 下しおかれた

数分後に、閣老たちの集まっている部屋(ニの間)に移った。十五着の時服(ローブ)が二つの台に載せて運びこまれた。堀田備中守が大使に向って言った。

「大君より貴下にこれを下しおかれます」。それからまた言った。「大君より貴下にこれを下しおかれます」。大君へのお礼を申しあげると、堀田は再び言った。「大君よりお食事を賜ります」。
18日 食事の前に 我々は別室に移った。大使と閣老たちは、またそこでお辞儀をしあった。最初に出迎えを受けた控えの間に戻る。八人の委員たちはそこで別れの挨拶をした。 階段の最上段の廊下で、二人のお目付けとお辞儀をしあい、来た時と同じようにして宿舎に戻った。
19日 食事雰囲気 そこで大君から賜ったお食事を頂戴した。料理はすべて白木の小さなテーブルに載せて出される。木皿はすべて一度しか使われないのであるが、それは非常な尊敬のしるしであるということであった。皿も鉢もすべて、我々のために特別に用意されたものであるとも聞かされた。
大使のテーブルには、樹齢一千
年と言われる有名な樅の樹にかたどった木と、その下に一対の小さな人形がおかれていた。すべて巧妙な紙の細工で、造花のように見事であった。この人形は百年以上も生きたジンジオエとヤコウシンをかたどったものであった。これは日本で長寿の縁起物とされている。大使への贈り物は、絹の時服十五着、私には絹五反であった。
20日 天城越え 安政4108(1857,11,24)。今朝八時、天城山越えに出発。高さ約5000フィートの山である。深い地溝の上の嶮しい道を登った。所々、岩を階段のように刻んだところがある。殆ど垂直の崖に路がついているからである。路幅は狭くて四人並んでは歩けないし、曲がり角は鋭角的で、ノリモンが通り抜けるために難渋する。 伊豆半島の山々を越えながら、日本人がアメリカ人のために選んだのは、日本の側から見ても島よりも、もっと近寄り難い一片の土地をアメリカ人に与えるためであったことがよく分かった。下田と日本の他の地方との間に横たわる天嶮は、大規模な陸上交通を不可能にしているからである。
21日 威厳は厄介 山を下るのは上りよりもずっと困難である。足許に底無しの深淵が今にも我々を呑み込まんばかりに口を開けている。その上、路上には鋭い岩が突き出していて、僅かばかりの砂や芝草では馬の(ひづめ)をおくことも出来ない。 私は歩くのがいいので、馬から下りた。二人の侍、靴持ちと傘持ちは、相変わらず影のようについてくる。威厳というのは厄介なもので、サンチョ・パンサが総督をやめたのは尤もだと私は思いはじめた。
22日 泥んこの道 世間並みの旅行者として、この山々を気軽に歩き、足をとめ、気のむくままに草の上に寝そべることができるなら、何をおいてもそうしたいところだ。
今、もしここで足を止めれば、行列
全体が停止して、私は従者に(きびす)を踏まれることになりかねない。今でこそ威風堂々、たいした貫禄だが、そうなると私の鼻と地面の泥がねんごろになることもありうるわけだ。
23日 渓流 それまで晴れていて空が翳りはじめた。私の失敗だ!何だってあの傘持ちを連れてきたのだろう。あの傘持ちは私に不運をもたらすに違いない。杉の木立がようやく深くなって道の両側に続いている。

西洋ワサビ、または野生の蕪が広く一面に生えていた。木立の切れ目や、周囲の丘を割って流れる渓流の彼方に、下田を出立して以来見えなかった太平洋の青い水が遠く霞んで見える。

24日 親切な魔者の日本人 山頂には小さな茶屋があり、ここで三十分の休憩をとる。日本人には、どこへ行っても食物を恵んでくれる親切な魔物がついているらしい。どんな食物でも、またたくの間にもどこからともなく整えてきて、家にいるのと同じように快適に三度の食事をするのである。
山を下り、一時間ののちまた次の茶屋で停止して、山を下り、一時間ののちまた次の茶屋で停止して、ここで
日本人は二度目の食事をした。この辺りは路がひどくぬかっているので、ひっきりなしに靴を泥にとられ、地球と足が互いに引き合う力や空気の圧力、靴屋の不手際やら靴屋の良心の欠如のお陰で、靴が破れた。そのため、私は悲しくも拷問の憂き目にあうことになり、手足が筋ばっていざりとなった。つまりノリモンの中に閉居の身になったのである。
25日 この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない 谷間に下りて、天城の山頂に去来する雲から外に出ると、田畑が開けてくる。やわらかな、陽射しを受けて、うっとりするような美しい渓谷が目の前に横たわっている。とある山裾をひと巡りすると、立ち並ぶ松の枝間に、太陽に輝く白い峰が見えた。 それは一目で富士ヤマであることが分かった。
今日初めて見る山の姿であるが、一生忘れることはあるまい。この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない。
26日 スイスの山々は高いが 富士より三倍も高い山はある。スイスの氷河は確かに印象的で、壮大である。ヒマラヤの最高峰、崇高なダウラギリは、神々しい額を計り知れぬ高さに掲げている。 然し、それは周囲に立ちはだかる他の山々に登らなければ見ることができない。氷と氷河しかない世界で、どちらを向いても雪ばかりである。
27日 なにに譬えようもない富士ヤマ

処が、ここでは豊かな作物に覆われた、晴れやかな田園の只中に、大地と齢を競うかのような松の林や、楠の老樹がミヤ、すなわちこの帝国の古い神々の祠堂に深い影をさしかけており、ゆったりと静まりかえったこの場景を

背後から包み込むように、なにに譬えようもない富士ヤマのすっきりした稜線が左右の均整を保って空高く聳えたち、薄墨色にかげる青い山肌の上方には清浄な白雲がまるでコイヌールのように夕陽に煌めいている。
28日 東海の王者 私は感動の余り思わず馬の手綱を引いた。脱帽して、「素晴らしい富士ヤマ」と叫んだ。 山頂に悠久の白雪をいただき、緑なす日本の国原に、勢威四隣を払って聳え立つ、この東海の王者に久遠の栄光あれ!
29日 ねたましい富士 並ぶものなきその秀容はねたましいほどだ。その雪の王冠は日本の最も高い山々の上にひとり抜きん出て聳え、あれほど苦しんで越えてきた天城山も、今はとるに足りない低山としか思えないのである。 ああ、昔の友達が二十人もこの場にいたら!ヒップ、ヒップ、フレーを三回繰返して、気高い富士ヤマを讃える歓声が、周囲の山々にこだまするだろう。
30日

ここからの富士が一番

ほかのどこで見たのよりも、ここから見たこの山の姿がもっとも美しい。 そこからほんのちょっとその夜の泊りの寺、湯ヶ島テンプル(天城山弘道寺)がある。
31日 徳永圀典が一人の日本人としてお詫び 部屋の窓から、この山の素晴らしい姿をほしいままに眺めることができる。それをスケッチしてみたが、なんともお粗末で、富士ヤマに似ても似つかぬしろものだ。() ヒュースケンは、所謂、横浜の生麦事件で薩摩藩士に殺された。惜しい人物を殺してしまつた。
つると言う日本女性と結婚し一児をなしている。日本の国土の美しさと日本人の素朴さに感動したが、サムライに殺されてしまった。
日本人として心からお詫びする。合掌。