日本、あれやこれや その66

平成21年10月度

10月 1日 松下幸之助 艱難(かんなん)(なんじ)を玉にす、という言葉がありましょう。心をしぼませ投げたらおしまいですわ。最後の最後までがんばらないけませんな」
松下幸之助
その名前はついに社名から消えたが、わが国を代表する家電メーカー、パナソニックの創業者、松下幸之助は明治27(1894)年、和歌山県和佐村(現・和歌山市)の旧家に生まれた。
10月 2日

父が相場に手を出し、家運が傾いたために、10歳を目前にして大阪へ奉公にやらされたが、戦前に既にに大企業を立ち上げ、戦後、活動の舞台を世界へと大きく広げた「経営の神様」であり、「今太閤」とは言わずもがなである。

冒頭のことばは『松下幸之助の予言』にある。もともと体が強い方ではないにもかかわらず、苦難や困難な選択が彼を待ち受ける。しかし、そこから創意に富んだ活路を見いだし、一歩一歩、力強く前進してゆく。自叙伝を読むと、彼の一生はその繰り返しである。
10月 3日 経営は芸術 この立志伝中の人物は「経営は芸術である」と言っていた。しかし昭和7年に胸に浮かび、終生、抱き続けていたであろう「宗教道徳の精神的な安定と、物資の無尽蔵な供給とが相俟って初めて人生の幸福が安定する。 ここに実業人の真の使命がある」(『私の行き方考え方』)ということばを想(おも)うとき、彼は芸術家というより、「経営の哲人」と呼ぶべきであろう。
10月 4日 双葉山 「イマダ モッケイ タリエズ(いまだ木鶏たりえず) フタバ」(双葉山)。大安の日曜日、昭和14(1939)年、70連勝を目指した横綱、双葉山 安芸ノ海の外掛けに屈した。両国国技館を埋めた約2万の観衆は一瞬息を呑んだ。そして大喚声に包まれ、座布団が乱れ飛び、「あとは何が何やら」と東京朝日新聞は伝えた。
10月 5日 横綱の品格 勝った安芸ノ海はうれし涙にむせび、故郷に「オカアサン、カチマシタ」。双葉山は知人に冒頭のように打電した。「木鶏」とは、敵を前にしても空威張りしたり、興奮したりせず、まるで木彫りのように動じず、無心である闘鶏のこと(『荘子』)。 双葉山自身の言葉で言い換えれば、「その日その日の勝負にベストを尽くそう(中略)するとのちには、自分で自分の相撲を楽しむといった気分で、土俵にのぞむことができる」(『横綱の品格』)という心境のことだ。
10月 6日 木鶏たりえているか 不世出の横綱は、日本相撲協会の理事長としても傑出していた。昭和43年12月、在職のまま急逝したとき、サンケイ抄(当時)は「部屋別総当たり制、年寄定年制、そして審判部の独立。 こうした一連の改革は、彼なくして実現は容易でなかった」とたたえている。
さて、天上の双葉山はいま、現世の角界は木鶏たりえているだろうか。
10月 7日 日蓮 二難(なお)残せり。所以(いわゆる)他国侵逼(しんぴつ)の難・自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)の難なり(日蓮『立正安国論』) この言葉の大意は「他国からの侵略と内乱。この2つの難が訪れるであろう」である。
10月 8日 有史以来の国難 非常の僧、日蓮が発した警告は現実となった。『立正安国論』の成立から14年後の文永11(1274)年、九州・対馬沖に大船団が姿を現した。最初の蒙古襲来(元寇)となる「文永の役」のはじまりである。 有史以来の国難だった。元・高麗軍は三万数千人。対馬と壱岐はたちまち落ち20日には博多に上陸を許した。「鉄砲(炸裂(さくれつ)弾)」や毒矢など見慣れぬ武器を前に鎌倉幕府軍は善戦したがじりじりと後退していった。
10月 9日 先覚者に過酷な歴史 翌21日、奇跡が起きた。博多沖の大船団が姿を消していたのだ。その理由については謎が多い。従来は「神風(暴風雨)説」が有力だったが元側の史料には「官(元)軍整わず、また矢尽きる」とある。日本側の思わぬ抵抗に内部分裂が生じ 退却したという説や2つの要素を折衷した説もある。「文永の役」はときの執権、北条時宗を頂点とした挙国体制をもたらした。その一方で、日蓮はその激烈な言動が「幕府批判」とみなされ、不遇の一生を送る。歴史は多く、非常の人、先覚者に過酷である。
10月10日 露日海戦史 「天気静穏、暗黒ニシテ涼気ヲ覚エ、(ぎょう)(げつ)(明け方の月)ハ漸ク午前三時ニ昇レリ」(『千九百四、五年露日海戦史』) 明治37(1904)年、韓国・仁川への上陸作戦と中国・旅順港外にいたロシア艦隊に対する日本海軍の奇襲攻撃がはじまった。冒頭は旅順の天候を報告したロシア側の記録。
10月11日 天の助けを祈るばかり 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、このときの連合艦隊参謀長、島村速雄と参謀、秋山真之(さねゆき)の会話をこう記している。 「どうだ、成功するだろうか」 と、島村参謀長が真之にきいた。

「天の助けを祈るばかりですな」と、真之は無愛想にこたえた。

10月12日 国交断絶通告 ロシアへの国交断絶通告は2日前の6日、宣戦布告は2日後の10日だった。ロシア政府は国際法違反を訴えた。しかし、「世界の世論には届かなかった。 開戦宣言をせずに戦闘を開始することを禁止した国際条約が調印されるのは、一九〇七(明治四〇)年一〇月の第二回万国平和会議においてである」(集英社版日本の歴史(18)『日清・日露戦争』)。
10月13日 ただ血は(たぎ) 旅順港奇襲は戦果に乏しかったが、仁川上陸作戦は成功、国民は「緒戦勝利」の報に熱狂した。
「我は何故にかく激したるか。
知らず。ただ血は(たぎ)るなり、眼は燃ゆる也。(こころよき)(かな)」。故郷(岩手)にいた不遇の詩人、石川啄木の日記は、当時の高揚をいまに伝えている。
10月14日 西行 「願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎ望月(もちづき)の頃」
(西行)『(さん)家集(かしゅう)』から)

あー願わくば春、桜の花の下で死を迎えたい。お釈迦様が入滅した2月(如月(きさらぎ))15日(望月(もちづき))=満月)のころに」という歌の通りとなった。 

10月15日 弘川寺で最期 わが国最高の歌人、西行は旧暦で1190年、河内国の弘川寺で最期のときを迎えた。西行は武門の名家、佐藤氏の嫡男、(のり)(きよ)として生まれた。 祖先は200年前に平貞盛とともに「将門の乱」を平定した藤原秀郷
貞盛の家系に連なるのが平清盛で、西行とは同い年となる。
10月16日

世を捨つる人

文武にすぐれた美丈夫(びじょうふ)で知られたが、22歳で突如出家する。
世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ
自称・世捨人を批判するこの歌が当時の心境とされるが、真の理由については諸説ある。なにごとをいかに思ふとなけれども (たもと)かわかぬ秋の夕暮とうたう繊細な感受性(だから秋の夕べに理由もなく涙がとまらないのだ)によるところが多い。
10月17日 (しぎ)たつ沢 享年73(数え)。かつて仕えた朝廷や栄華をきわめた平家の没落、そして源氏による骨肉の争いを見とどけた。 心なき身にもあはれはしられけり (しぎ)たつ沢の秋の夕暮−。『山家集』のこの名歌は、情景というよりも、人の世の「あはれ」をうたっている。
10月18日 北畠顕家 「近ごろ(あした)に令して(ゆうべ)に改む、民以て手足を()く所なし、令出でて行はざれば、法なきにしかず」(北畠顕家(あきいえ)諫奏(かんそう)(ぶん) 新政権の命運をかけた戦いが、1335(建武2)年、竹之下(静岡県小山町)を主戦場に始まろうとしていた。
10月19日 建武の新政の瓦解 足利尊氏に対するは新田義貞。激戦の末、義貞軍は「昨日まで二万余騎(あり)つる(ぜい)。十方へ落失(おちうせ)て十分が一も無りけり」(『太平記』)となる。 これを機に、義貞に尊氏討伐を命じた後醍醐天皇による「建武の新政」は瓦解の道をたどる。140年間続いた鎌倉幕府を打倒してからわずか2年半後の出来事だった。
10月20日 なぜ新政権は短命か。 斯計(かくばかり)たらさせ給綸言(りんげん)の汗の如くになどながるらん」−。『太平記』に記録された落書(らくしょ)である。昨今話題の名言「綸言汗のごとし」の意味は「君主のことばは汗のように一度流れたらもうとりかえしがつかない」。 次々と綸言がほとばしり、信用がないさまを笑ったものだ。
だから南朝の忠臣、北畠顕家は討ち死にする1週間前、後醍醐天皇に「朝令暮改」をいさめる冒頭のことばをつづった。
10月21日 渡辺崋山 「わが国の神風伝説も、頼むにたらないとなれば、敵情を熟知することが、先決であります」(渡辺崋山『西洋事情書』) 開明派政治家、そして画家としても著名だった渡辺崋山は苦労人だった。家老まで務めた小藩・田原藩の財政は破綻しており、俸禄の手取りは額面の数分の1。絵をはじめたのも食うためだった。
10月22日 無罪 藩政の立て直しのために「能力給」や「起業」という画期的な政策を導入し、藩が太平洋にのぞむがゆえに、高野長英をはじめ蘭学者の粋を招いて海防と海外情勢の研究にあたった。幕末」に近い天保10(1839)年 「その崋山や長英を首謀者とした政治弾圧「蛮社(ばんしゃ)(洋学仲間)の獄」の判決が言い渡された。告発者の証言をもとに、崋山には6つの容疑がかけられていたが、いずれも無罪だった。
10月23日 天を(うら)まず、人を(とが)めず ところが、自宅から押収された警世と憂国の書『西洋事情書』と『慎機論』が鎖国という幕政への批判とされて国元蟄居を命じられ、2年後、自刃に追い込まれる。目付(幕府の監察役人)、鳥居耀蔵守旧派の陰謀とされるが、崋山は寛容の人だった。 蟄居中、事件を語った次の一文を読むとき、まぶたが熱くなると同時に、怒りに震える。

「天を(うら)まず、人を(とが)めず。実に僕左様(さよう)心得え)、一点の(いきどお)りなし」

10月24日 毛利敬親

「余は口べたで人を説得することはできかねる。であるから、行動で示すのみ」(毛利(たか)(ちか)

家臣の進言のまま、という意味の「そうせい侯」と呼ばれた、とされるが、どうだろう。「大賢は愚なるが如し」という。文政2(1819)年)、生をうけた幕末の長州藩主毛利敬親はそんな人物だった。
10月25日 名君

18歳で藩主に就任するや、中級藩士の村田清風(祖父と孫ほどに年の差があった)を抜擢し、借金が天文学的な数字になっていた財政の改革にあたらせた。冒頭の言葉にうそはない。自ら木綿の衣服を着用し、副食を一汁二菜にとどめて倹約の先頭に立った。その一方で、文武を奨励し、

令で庶民への教育普及に努め、種痘を実施している。
改革派と保守派の賢才を代わる代わる登用し、足らぬ部分を補うことで長州藩を維新の原動力となる雄藩に脱皮させた。

人事に非凡であった。
敬親は現代に生まれても名経営者だったことだろう。

10月26日 仁愛の人 そして仁愛の人だった。悲劇の志士、吉田松陰が憂国のあまり謹慎の身を省みず懲罰を承知で意見書を藩に送っていることを知ったとき彼は言う。 「寅次郎(松陰)の心を慰めてやらねばならぬ。思うことをすべて書かせ、余に見せるようにせよ。採択するのは余じゃ。だれにも迷惑をかけはせぬ」
10月27日 半井(なからい)(とう)(すい)

「日本は父の国、朝鮮は母の国、恩に愛に(もと)より厚薄の別あることなく父母両国共に栄え行かんこそ宿年の望なれ」(半井桃水)『()()吹く風』)

時代は明治「新聞小説記者」という職業があった。記事ではなく、小説を新聞に寄稿するのが仕事で、半井桃水(1860〜1926)はその売れっ子の一人(だから樋口一葉が入門し、桃水は彼女の“心の恋人”となった)だが、海外特派員の先駆けでもあった。
10月28日

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対馬藩医の家庭に生まれ、少年時には父に同行して朝鮮に赴いた。このとき、征韓論の発端となった釜山の明治政府批判の掲示(漢文)を書き写した、と彼は後年述懐している。 21歳の年に再び釜山に渡り、朝日新聞の特派員として活躍。そんな桃水の代表作が19世紀後半の朝鮮半島を舞台にした『胡砂(中国北方からの砂塵)吹く風』。冒頭は、薩摩藩士の父と朝鮮貴族の母を持つ主人公・林正元のことばである。
10月29日 現実は夢物語 林は「文学武芸に秀で」た美青年。父の国の力を借りながら母の国を近代化し、独立を維持するために尽くし、最後は日本人として朝鮮王朝の最高顧問に迎えられる−というのが粗筋だ。 桃水はこの作品に日韓、さらに中国を含めた「東洋連合」の夢を託した。だが、彼の故郷・対馬の現状と論議一つ考えても、その実現はまだ夢物語−小説のなかだけの話である。
10月30日 木戸孝允

「米国駐在の公使、留学生とも深慮なく米国の風俗を敬慕し、わが国を軽視する。その説は軽佻浮薄、夜も眠れず」(木戸(たか)(よし))。
「米国人の方がかえってわが国の情を理解し、わが国の風俗をしっている」ともつづられている(原文は文語)。

岩倉(具視)遣外使節団の一員として訪米中だった木戸孝允の1872(明治5)年の日記である。廃藩置県を実現し、教育の普及に努めた明治維新の元勲の一人。「愚痴の木戸」とも呼ばれた。冒頭の一文にもその気味がないでもない。が、繊細な心をもった憂国の人ゆえの警世のことばと解すべきだろう。
10月31日 西郷、もう大抵にせんか 

訪米当時、木戸は38歳。同行した伊藤博文や冒頭にある「公(弁務)使」の森有礼などひと世代下は圧倒的な西洋文明に心を奪われたが、木戸は違った。伊藤や森の考えを、歴史の集積に目を向けず、浮利を追う「なま開化(花)」と断じ、10年後、20年後を見据えた国づくりを説く書簡を故国に送っている。

そんな木戸の維新の志士、桂小五郎時代の活躍は別として今回は彼の最晩年の逸話でしめくくる。明治10年2月、西郷隆盛が挙兵した。新政府最大の危機、西南戦争である。5月、「官軍優勢」ではあったが、「鎮定」の報はこない。死の床にあった木戸は混濁する意識のなかで大声を上げた。
「西郷、もう大抵にせんか」