21講 応神天皇の大和征服 

崇神王朝の盛衰大和朝廷の王朝交替説

平成25年10月

応神天皇の
大和征服
崇神王朝の盛衰
1日 大和朝廷の王朝交替説

原大和国家は近畿地方を制圧し、さらに播磨から吉備へ進み、吉備の力を利用しながら中国山脈を越えて出雲も従えて、遂には本州島の西半分を統一しました。この原大和国家の初代大王というべき人物が崇神天皇です。

2日 原大和国家はいわゆる大和朝廷

原大和国家はいわゆる大和朝廷であり、それ故、崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」即ち初代天皇として「記紀」にも伝えられているわけです。

3日 三王朝交替説

然し、私はその事を以て「記紀」編纂期の大和朝廷とこの原大和国家の大和朝廷が、いわゆる万世一系の皇統譜でつながっていると見るわけではありません。寧ろ、この原大和朝廷の王朝を崇神王朝と名づけて、この王朝の後にも仁徳王朝、さらに継体王朝という存在を考え、いわゆる三王朝交替説を唱えるのです。

4日

王朝交替があつた事は、基本的には「記紀」に記される歴代天皇の配列や空位期間の存在、各天皇の実在性の検証、また「記紀」に記される天皇の治績や系譜の検討からそうした結論を下せるわけですが、大切なことはそうした三王朝交替説を以て「記紀」の様々な矛盾点が説明出来たり、他の史料や考古学的事実とも整合する古代史が描けるか、ということです。

5日

これから、崇神王朝がどのように動き、その動きの中かに、どのようにして仁徳王朝が出現してくるのか、そしてその後にどうして継体王朝が取って代わるのか、つまり三王朝交替の歴史を見ていきますが、そうした三王朝交替説がどれ程に歴史的事実を反映しているのか、常にそうした視点を以て読み進めて欲しいと思います。

6日 皇統譜の再編成 初代天皇である崇神天皇の王朝、つまり崇神王朝は本州西半を統一し、その地盤が固まるとさらに九州へその統一運動を拡大します。そして、九州との戦争に敗れ、九州から応神天皇が出現するというのが、私が考える崇神王朝の基本的な歴史です。
7日

然し、崇神天皇の没年は西暦318年あたりと推定されるわけで、当然、九州と対決するまでの崇神王朝に幾人かの天皇が存在した事が前提となります。そこでもまず崇神王朝の天皇を明らかにしてから話を進めたいと思います。

8日 異常出生説話を持つ応仁天皇

古代の天皇の系譜を「記紀」に従って表記すると、表のようになりますが、この系譜のうち、神武―開化の九天皇を架空として省くと、崇神天皇から一系につながる系譜が残ります。さにら「古事記」崩年干支の註記のない天皇を省くと、崇神―成務−仲哀とつながり、仲哀天皇の次に、神功皇后による院政による摂政という時期を挟んで、異常出生説話を持つ応仁天皇が現れます。

9日

これらの天皇、皇后のうち、神功皇后は架空の存在であること、そしてその架空の神功皇后から生まれた応神天皇は、異常出生説話などが示すように、非常に異質な天皇であること、また王朝交替期にみられる空位期間が神功皇后の時期に比定できることなどを考えて、崇神天皇から三代にわたって一つの皇統が継承されたとみます。

10日 三天皇

「記紀」はその間に崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇という五天皇を数えていますが、私はその中から垂仁天皇と景行天皇を省いて、崇神、成務、仲哀の三天皇が崇神王朝の天皇として実在したと考えるわけです。

11日

播磨
旧国名。現在の兵庫県西南部。
 

皇統譜
天皇及び皇族の身分に関する主な事項を登録する戸籍簿。

12日 仲哀天皇の九州遠征と崇神王朝の滅亡 崇神王朝は、実在三代目の仲哀天皇の時に九州へ進攻します。この仲哀天皇の九州遠征、熊襲征伐は「日本書紀」に出てきます。本文によると、「熊襲の背後にいる新羅を討てという神様のお告げを守らなかった為、仲哀天皇は陣中で亡くなった。それに代わって神功皇后が神霊の教えるままに新羅を征伐した」ということで所謂、三韓交渉の話に進むわけですが、「日本書紀」はわざわざ一書の説として、「仲哀天皇は大和から九州へ熊襲を征伐のために親征し、戦闘中に熊襲の矢に当って戦死をされた」と記しています。架空の話である三韓交渉へと続く本文の方は信用できないとしても、一書の説の仲哀天皇の戦死は注目すべき記述です。
13日 大和の国が敗北 遠征軍の指揮官として自ら征伐におもむかれた仲哀天皇が戦地で亡くなったというのですから、その遠征軍は瓦解してしまったと見られます。言い換えれば、それによって九州の王国が勝って遠征してきた大和の国が敗北したことになるのです。
14日 仲哀天皇の戦死 私はこの九州遠征における仲哀天皇の戦死、原大和国家の敗北は史実であり、それによって崇神天皇から始まった王朝がここで崩壊したと判断します。そして、一書の説の方が本来の伝承で、その伝承が意味するところの万世一系の皇統の断絶を隠し、次ぎの王朝ととの連続性を創作するために、架空の神功皇后の話がここに入れられたと考えるのです。「古事記」によれば、仲哀天皇の戦死は362年、原大和国家の崇神王朝はここに僅か三代を以て滅亡したことになります。
統一国家の出現

統一国家の出現

15日 ()()(こく)の台頭 崇神王朝を滅ぼした熊襲と呼ばれる九州の王国、これは一体どういう国なのか。また崇神王朝を滅ぼした後、どのような動きをしたのか、そうした疑問を解かなければ崇神王朝の滅亡を納得することも、次に続く王朝を知ることもできません。
16日 まず問題の九州の王国がどういう国かと言うことですが、私はこれは「魏志倭人伝」に記されている、卑弥呼の女王国と敵対していた()()(こく)だと考えます。ちょうど卑弥呼が没し(248年)()()が二代目の女王になった時、魏は革命によって晋に変わりました。卑弥呼の後を継いだ()()は直ちに朝貢して、晋から新たな印綬を受けましたが、晋という王朝は魏のような強力な国ではありません。内紛があって、魏ほどには政治基盤のしっかりしていない弱体の王朝です。
17日 女王 女王()()は、その晋にも朝貢しました。然し、女王国と同じく魏に朝貢していた()()(こく)は晋には朝貢していません。「晋書」には()()の朝貢しか出ていず、しかも一回朝貢した後は消息不明となっているのです。その後、実に一世紀半ほど、中国の史料には日本のことは出てこなくなります。
18日 ()()(こく) それでは、その間に何が起こっていたのかー()()(こく)は、かって女王国を征服しようとした矢先、魏の圧力で阻止されたことがあります。その魏が倒れてしまったのですから、()()(こく)にすれば宿敵である女王国を討伐する絶好のチャンスです。そこで()()(こく)は一挙に女王国を攻略して滅亡したのではないか、私はそう考えます。女王国が朝貢してこなくなった背景には、そうした事情があるに違いありません。
19日 ()()(こく)による日本統一

崇神天皇の没年は318年と推定され、原大和国家の吉備、出雲国平定による本州西半分の統一はこの頃までに完成していた。そして九州ではそれより前、280年頃には女王国との激戦を経て、狗奴国が九州の統一を完了していた、と言うのが私が考える第三世紀後半から第四世紀初頭にかけての日本の政治状況です。

20日

本州西半を統一した原大和国家は、その後暫らく急速に膨張した占領地の支配体制の確立、被征服諸部族の懐柔に追われ、ただちに九州へ進攻する余裕はなかったと見られます。一方、九州を統一した狗奴国も、その地理的位置から当時、朝鮮半島南部で起っていた統一運動への対応に追われた、即ち女王国以来の植民地である半島南部の狗邪韓国の強化のため、その統治と経営が最大の関心事になっていたと思われます。恐らく南鮮諸国との戦闘もあり、原大和国家と抗争する余裕はなかったでしょう。

21日 日本統一に向けての最終戦争

然し、原大和国家が崇神天皇から成務天皇を経て三代目の仲哀天皇になった頃、国内体制を安定させ、おなじころ、狗奴国の方も朝鮮半島の植民地経営を確立し、いよいよ両勢力による日本統一に向けての最終戦争へと進んだのです。

22日 原大和国家の敗北、狗奴国の勝利

この戦争は、原大和国家の仲哀天皇が自ら大軍を率いて九州に進攻することで戦端が開かれ、「日本書紀」が記すように、仲哀天皇の戦死という劇的な出来事によって原大和国家の敗北、狗奴国の勝利に終りました。そして、狗奴国は原大和国家を統合し、古代史上、ここに初めて日本国というに相応しい九州、本州西半も四国に及ぶ統一国家が出現するのです。

狗奴国による日本統一の裏づけ 狗奴国による日本統一の裏づけ
23日 空白の第四世紀のてがかり 以上の第四世紀の日本で起った劇的とも言える勢力図の大変動は、私が三王朝交替説を中心とする研究成果から編み上げたものです。然し、これを裏付ける史料は「記紀」以外には皆無といってよい状態です。もととより、「記紀」の記述も、架空の神功皇后による三韓交渉の物語が挿入されている事を見ても分るように、万世一系の皇統譜を作る為に、崇神王朝の滅亡と王朝の交替と言う史実を否定しようとしているわけです。このような詳細な史料批判を加えて漸く大変動の痕跡を解釈上、是認できるのです。
24日 矛盾の多い記述

逆に言えば、そうした制約を持つ「記紀」の中に、仲哀天皇の九州遠征における戦死という記述が残されていることや、神功皇后や応神天皇にまつわる不自然かつ矛盾の多い記述は、却ってこの時代に「記紀」編纂者が隠蔽したいような大変動が起こったことを示唆しているとも考えられます。

25日 原大和国家をやぶったのは女王国でなく狗奴国

また、この第四世紀の日本についての外国の史料も貧弱極まりないものです。中国における日本関係の史料が、この第四世紀において空白状態なのです。然し、空白状態であると云うことは、日本から中国への朝貢が無かったということであり、その事が原大和国家をやぶったのは女王国でなく狗奴国であった事を示しています。

26日

即ち、中国側の最後の史料によれば、女王国は晋に朝貢したが、狗奴国は朝貢していませんでした。原大和国家と正面から対決しうる存在は、「魏志倭人伝」が伝える第三世紀の九州の勢力圏からみて、女王国か狗奴国しか考えられません。もし、女王国が狗奴国をやぶり、さらに原大和国家をやぶって日本統合をなしたのであれば、朝貢が途絶えることはなかった筈です。

27日 狗奴国が崇神王朝に代わった

さらに、女王国が崇神王朝に代わったのであれば、大和朝廷の起源を伝える「記紀」の伝説に卑弥呼や北九州のことが明確に伝えられたはずです。寧ろ、「記紀」の神話は日本国家の発祥の地を狗奴国の本拠地であったと見られる南九州の日向(ひゅうがの)(くに)に設定しており、その点からも狗奴国が崇神王朝に代わったと考えられるわけです。

28日

数少ない渉外史料

神功皇后は架空の皇后であり、三韓交渉などの物語は殆ど史実としては信用し難いものです。然し、「日本書紀」は神功皇后を卑弥呼に見立てようとして強引に第三世紀の人とした為、摂政在位期間が69年にも及び、その間の話を作るために中国や朝鮮の“渉外史料”を持ち出しています。「日本書紀」の「神功皇后記」には、所々に「百済記」によるという記述があります。「百済記」は百済の帰化人たちが書いて、後に日本で編纂されたものと思われますが、その記事として年代の示されている四ヶ条があります。その年代はそのままでは信用できませんが、神功皇后を卑弥呼と見立てる為に、120年の加上があることを考慮して逆算した年代で記事内容を見れば、ちょうど当時の朝鮮事情と合致し、そのころの日本と朝鮮の関係を知る貴重な史料となります。 

29日

364-369年の朝鮮半島との交渉に見られるこの史料は、日本がされまで弁韓諸国に橋頭堡を築いていたこと、百済や新羅が日本に朝貢してきた事、日本は新羅できなく百済と組んで南鮮加羅七国を平定して任那植民地を確保したことを記しています。この史料から、362年の仲哀天皇の戦死の後、原大和国家を併合した九州狗奴国が日本列島の統一を完了し、その余勢をさらに朝鮮へ向けたことが分ります。

30日 「百済記」(年代のある四ヶ条)

甲子年

AD244-364

百済の使者が卓淳国を訪れ、日本との通交の為の道案内を要請する。卓淳王か日本にはまだ行った事が無く道案内は出来ないと告げると.使者は次に日本の使者が訪れた時は百済まで知らせて欲しいと頼み帰国する。

丙寅年

AD246-366

日本の使者が卓淳国を訪れる。百済の使者の話を聞き卓淳国の案内人と共に百済におもむき百済王に会う。百済王おおいに喜び朝貢を誓う。

丁卯年

AD247-367

百済が朝貢に訪れる。その時に一緒に朝貢してきた白羅の貢物の方が立派だと百済をなじるが、白羅の使者が百済と貢物をすり替えて出したことが分り、百済は白羅の不実を責めた。

己巳年

AD249-369

日本は百済と手を結び、卓淳国を足がかりとして加羅七国を平定。任那植民地を確立する。

 

31日

弁韓
 三韓の一。朝鮮南部にあった部族国家(12)の総称。今の慶尚南道の西南部にあたる。後に加羅(任那(みまな))となり、やがて新羅に併合。(べん)(しん)
 

任那
 4-6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった国。加羅の諸小国の連合国家で、任那加羅ともいい、四世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本人府という軍政府を置いたというが、やがて北の高句麗や東の新羅に圧迫され562年滅亡。