徳永圀典の隔日「論語」平成19年10月 

公冶(こうや)(ちょう)第五(だいご) 
古今人物の賢愚得失を語るの章。

 1日 ()(こう)曰く、(こう)文子(ぶんし)は何を以て之を(ぶん)()うや。子曰く、敏にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、(ここ)を以て之を文と謂うなり。

子貢問曰。孔文子何以謂之文也。子曰。敏而好学不恥下問。是以謂之文也。

公治長篇第十四
(こう)文子(ぶんし)の名は孔、行いは良くないが人の善や言葉を公平に見た人。
知らぬ事は知らぬと学を好んだ、故に没道義人であったが文子と言われた
 3日 子、子産(しさん)を謂う。君子の道(よつ)有り。其の(おのれ)を行うや(きょう)、其の(かみ)(つか)うるや敬、其の民を養うや(けい)、其の民を使うや義。

子謂子産。有君子之道四焉。其行已也恭。其事上也敬。其養民也恵。其使民也義。

公治長篇第十五
子産(しさん)、名は公孫、君子の四道に合格していた即ち、自分の行いはあくまで恭謙、上には尊敬と礼、人民には恩恵と公平である。
 5日 子曰く、(あん)平仲(ぺいちゅう)善く人と交わる。久しくして之を敬す。

子曰。(あん)平仲(ぺいちゅう)善與人交。久而敬之。

公治長篇第十六
(あん)平仲(ぺいちゅう)は交友上、狎れることなし、常に恭謙で人に接した。交際が長くなっても愈々敬意で接した。
 7日 子曰く、(ぞう)(ぶん)(ちゅう)(さい)を居く、節を山にし、?(せつ)()にす。何如(いかん)ぞ其れ知ならん。

子曰。(ぞう)(ぶん)(ちゅう)(さい)。山節藻?(せつ)。何如其知也。

公治長篇第十七
(ぞう)(ぶん)(ちゅう)は天子の宗廟に使うものを自分の家に使用した、これは礼を犯すものだ。
 9日 ()(ちょう)問うて曰く、(れい)(いん)()文三(ぶんみ)たび(つか)えて令尹(れいいん)()れども喜ぶ色無し。 子問曰。(れい)(いん)()文三仕為令尹。無喜色。三已之無喜色。 (れい)(いん)は官名、()(ちょう)は問う、子文子は三度も(れい)(いん)をされたが喜ばれない。
11日 旧令尹(きゅうれいいん)(まつりごと)必ず以て新令尹(しんれいいん)に告ぐ。何如(いかん)。子曰く、忠なり。曰く仁なりや。曰く、未だ知らず、(いづく)んぞ仁なるを得ん。 三己之無チ色。旧令尹(きゅうれいいん)之政必以告新令尹(しんれいいん)。何如。子曰。忠矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。 子文は忠、文子は清の善あり、だが未だ仁の徳を備えていない。忠と清をよくしても仁の徳を備えていない
13日 崔子(さいし)(せい)(きみ)(しい)す。(ちん)文子(ぶんし)(うま)十乗(じゅうじょう)有り、棄てて之を()る。他邦(たほう)に至りて則ち曰く、猶吾が大夫(たいふ)崔子(さいし)がごときなりと。之を()る。 崔子(さいし)殺斉君。(ちん)文子(ぶんし)有馬十乗。棄而違之。至於邦。則曰。猶吾大夫崔子(さいし)也。違之。 崔子(さいし)は君主を殺害、その家が富み田地あるも悪人と同列するを恥じ、これを棄て斉の国を去った。
15日 一邦(いっぽう)に至りて則ち又曰く、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を()る。何如(いかん)。子曰く、清なり。曰く、仁なりや。曰く、未だ知らず、(いずく)ぞ仁なるを得ん

之一邦。則又曰。猶吾大夫崔子(さいし)也。違之。何如。子曰。清矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。

公治長篇第十ハ
他国に行くがその国の太夫も権力を恣にし君主を侮蔑している、またその国を去る。孔子は、身を清く去るは可なり、だが、この一善事だけではまだ仁とは言えぬ。
17日 ()文子(ぶんし)、三たび思いて而る後に行う。子、之を聞きて曰く、再びせば()れ可なり。

()文子(ぶんし)三思而後行。子聞之曰。再斯可矣。

公治長篇第十九
()文子(ぶんし)はしばしば考えて事を行った。孔子は之を聞かれて、よき程でよかろうと言われた。
19日 子曰く、(ねい)武子(ぶし)、邦に道有るときは則ち知なり。邦に道無きときは則ち愚なり。其の知は及ぶべきなり。其の愚は及ぶべからざるなり。

子曰。(ねい)武子(ぶし)。邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚不可及也。

公治長篇第二十
国に道が行われておれば知が働き、逆なる時は愚かしきこととなる。無道の世に才知を持ちながら愚人のように振舞うことは出来ないと孔子は言われた。
21日 子、陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子(しょうし)狂簡斐(きょうかんひ)(ぜん)として章を成す。之を裁する所以(ゆえん)を知らざるなり。

子在陳曰。帰與與。吾党之小子狂簡。斐然成章。不知所以裁之也。

公治長篇第二十一
孔子が道の現世に行わんとし諸国を周遊されたが、到底道の行われぬを見て断念。織物も程よい裁断で美しい衣服を得るように、善導教育すればわが道を後世にて伝えられると故国に帰ると言われた。
23日 子曰く、(はく)()(しゅく)(せい)は旧悪を(おも)わず。(うらみ)(ここ)を以て(まれ)なり。

子曰。(はく)()(しゅく)(せい)不念旧悪。怨是用希。

公治長篇第二十二
(はく)()(しゅく)(せい)は悪人を断罪されず、汚されたと感じて黙って去られた。これは聖の清だといわれた。
25日 子曰く、(たれ)()(せい)(こう)(ちょく)なりと謂うや。或ひと()を乞う。(これ)を其の(となり)に乞うて之を(あた)う。

子曰。(たれ)謂微生高直。或乞焉。乞諸而與之。

公治長篇第二十三
()(せい)(こう)を直とは言わぬ、自分の家に酢がなく隣家で借りて与えた、これは直とは言わぬ。無いなら無いというべしと。
27日 子曰く、巧言(こうげん)令色(れいしょく)(すう)(きょう)なるは()丘明(きゅうめい)之を恥ず、(きゅう)も亦之を恥ず。怨を(かく)して其の人を友とするは、左丘明之を恥ず、丘も亦之を恥ず。

子曰。巧言(こうげん)令色(れいしょく)(すう)(きょう)()丘明(きゅうめい)恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人左丘明恥之。丘亦恥之。

公治長篇第二十四
巧言令色も(すう)(きょう)、則ち体全体で媚びるのは心あるものの恥ずべきもの。
怨みがあるのに隠して友人とするのは左丘明のような識者も恥じた。私もそうであると孔子は云われた。
29日 (がん)(えん)()()()す。子曰く、(なん)ぞ各々(なんじ)の志を言わざる。()()曰く、願わくは車馬衣裘(しゃばいきゅう)、朋友と共にし、之を(やぶ)りても(うら)むこと無からん。顔淵曰く、善に(ほこ)ること無く、労を施すこと無からん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を(なつ)けん。

(がん)(えん)()()()。子曰。盍各言爾志。子路曰。願車馬衣軽裘。與朋友共。(やぶ)之而無(うら)。顔淵曰。願無伐善。無於労。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懐之。

公治長篇第二十五
孔子が二人に向かい各々自己の志を述べよといわれた。
子路「善き友は一つの車に二人乗り一匹の馬に二人跨り絹布や毛皮の美服一枚を二枚に裂いて着、それを少しも愛惜しないようなものだ」、顔淵は「自分は他人に善をしても誇らず、自分の労を厭わず他人に押し付けない」と。
孔子は「老人に対しては安心を与え楽にこの世を過させたい、朋友は信じて交際を全うしたい、少年はこれを愛して懐け善導したい」と。
31日 子曰く、()んぬるかな。吾未だ能く其の(あやまち)を見て内に自ら()むる見ざるなり。

子曰。已矣乎。吾未見能見其過而内訟者也。

公治長篇第二十六
自分を省みて恥じない人を嘆き、やんぬるかな、と云われた。やんぬるかなとは絶望の嘆息詞である。
追加 子曰く、十室(じゅうしつ)(ゆう)、必ず忠信(きゅう)が如き者有らん。丘の学を好むに()かざるなり。

子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。

公治長篇第二十七
学問の貴ぶべきことを言い勉励された。僅か十戸ばかりの小村でも忠に信なる者はいる。だが自分に絶えざる向上心がないから偉大な人物ができぬ。人はいかに信義を守り忠良でも消極的に守るだけでは進歩発展はない、常に修養を怠らぬ者が大人物となる。