安岡正篤先生「一日一言」 その13

平成25年10月

1日 惑う人間とは

人間が学問をする、修行をするのには、情操・情懐を養うことが最も大切である。と同時に、人間は人生・実生活というものに惑わないで、これを自然に健やかに堅実に処理していくことが非常に大切であります。人間の徳性の出来ておらない者ほど抽象的・観念的で、実生活に充満している、或いは頻発・発生するところの吉凶過福というもの、あるいは窮達、利害得失というものに非常に惑う。

2日 智慧 従って、これに惑わないようになることを学ぶ必要がある。これを称して「智慧」と言う。物事を知る(to know)ということは単なる知性の働きであり、これによって得られるのが知識(knowledge)であります。これに対して感性に基づいて実人生をよく観察して、それがいかにあるかを知って善処していくこと(wise)によって得られるのが「智慧」(wisdom)であります。人類が待ち焦がれているのは単なる知識ではなく人間しか持たない内からなるこの智慧であります。(この師この友)
3日 修練 年の若いのにどんどん上へあがる。世の中はこんなものだと思ったら大間違いである。と言うのは修練というものを欠いてしまうことになるからで、これは不幸である。これは官ばかりではない。親のお蔭で若輩が重役になったたりする。皆同じことである。また色々の勝れた才能があって、つまり弁が立ったり、文才があったりして表現が上手、これも大きな不幸である。
4日

面妖な時代

今日は選手万能時代で、野球とか、歌舞とか、若くて出来る者にわいわい騒ぐ。これは当人にとって大きな不幸であります。若くてちょっと小説を二つ三つ書くと、忽ち流行作家になって大威張りする。小娘がちょっと歌や踊りが出来ると、やれテレビだ映画だと引っ張り出して誇大に宣伝する。つまらない雑誌や新聞がそれを叉デカデカと報道する。変態現象というか、実に面妖なことで、決して喜ばしい現象ではないのであります。
5日 習熟・修練 人間でも動物でも、或いはまた植物でもなんでもそうでありますが、本当に大成させるためには、それこそ朱子の序文にある通り、「習・知と与に長じ、化・心と与に成る」という長い間の年期をかけた修練・習熟というものが要るのであります。決してインスタントに出来上がるものではない。       (大学と小学)
6日 大日本野史 
その一
水戸の光圀卿が「大日本史」作りましたが、これは南北朝で終わっておる。近世史がない。これを貧乏藩士が独力で作り上げた驚くべき大著が、名高い「大日本野史」と言うものです。これは頼山陽の「日本外史」などとは違った291巻にわたる苦心の大著です。
7日

大日本野史 
その二

著者は飯田忠彦(黙叟)と言い、昼間は大阪の有栖川邸に仕え、夜は父の晩酌の相手をして、その余りの時間で「大日本史」を二冊ずつ借りて写し取り、それを参考にして「大日本史」の終りを継ぎ、後小松天皇から仁孝天皇までの約420年間を叙述した。そして実に38年の歳月をかけて291卷という大著を完成したのです。これを考えると貧乏暇なしで何も出来ぬ、などとは義理にも言えませぬ。
8日 大日本野史 
その三
私が非常に感動を覚えた一事ですが、かって米沢に遊んだことがあります。ちょうど上杉家の土用干しがありまして、そこに招かれていろいろ宝物を拝見しました。そこに直江兼続(上杉景勝の家老)自筆の「古文真宝」上下二卷、細かい註まで実に丹念に写してあり、末尾に「対陣三越月にして成る」、つまり敵前陣中において三ヶ月の間に書いたという。勉強というものは、どこでも、どんな時にでも出来るもんだと言うことをしみじみと感じました。
9日

大日本野史 
その四

明の王陽明も、病躯を以てこっちの内乱、あっちの反徒と寧処の暇なく奔走しながら、その間に最も真剣な読書・学問・教育・詩作・論述を行っております。弟子たちは、絶えず先生のあとを追って陣中に聴講しており、一日の戦闘がすんで夜になると夜営の帷幕の中で篝火を燃やしてそこで書物の講義です。弟子たちもヘトヘトになって翌日眼を覚ましたらもう陽明先生は前線に進軍している。
10日 大日本野史 
その五
どうも仕事が忙しくて勉強ができない。これは皆言うことです。どんなに忙しい人でも、志さえあれば随分大事・大業を成しております。活動して腹が減れば食欲が出るのと同じで、多忙になると却って求道心が旺盛になり頭が働くものです。多忙、大いに宜しい。多忙で勉強できない、と言うようなことを決して言うを要しません。健康で、富裕で、才能に富み、閑があるというようなことは決して学問求道大成に必要ありません。                  (運命を開く)
11日 良き友 よき友を出来るだけ求めなければならない。よきつき合いは自分の生活と別の世界の人が宜しい。同じ仕事の人がいけないと云うのじゃない。多方面に分野の違った人々と交わる。人生というのは複雑な因縁からなりたっているもので何がそういう影響を与えるか計るべからざるものがある。
12日 異業種交流 出来るだけ多方面なつき合いをもち、出来るだけ広く交友を持つのは、自分の専門の仕事そのものにも思わざるものがある。処が大体の人間は逆に考える。自分がある仕事につくと専門家になったつもりになる。
13日 同業は単調 西洋には専門的愚昧という言葉がある。これは視野が狭くなる、自分はこういう仕事をしている、無関係な人と付き合っても仕方ない、自分の関係する仕事の人と付き合った方がいいと云って付き合いの範囲を単調にしている。
14日 博学を 学問でも専門の学問をやる人はほかの専門の学問に学ばなければなりません。出来るだけ博学せんといけない。博学してゆかなければならない。自分の将来に影響を与えてくれるようにすれば雑学になりませんから、出来るだけ他の点も学ばなければなりません。そうすると非常に生き生きしてくる、生命力を獲得する、活発になり生命力が旺盛になってくる。    (講演より) 
15日 学問の悪習 人間は久しい間、とかく本能のままに物欲に支配せられ、孟子の所謂放心(真我良心の忘却)の生活を深めてきた人間は、学問に就いても甚だくも本義を誤り、何時の世でも純真な自己を洗練完成することは棚に上げて、ただ地位や黄金を獲得するに最も有利な手段としてのみ学問する悪習を養成した。
16日 功利学問を断罪する 故に、学者に取って一番気をつけねばならぬものは志である。世は科挙(官吏登用試験)で士を取ること久しく、名高い学者も高位高官の人々も皆之から出て居る為に、今の士たるものは自ら受験勉強を免れない。然し試験の得失はその技倆と有司の好悪如何とが問題となるので、試験に依って君子の小人とを弁ずるようなことはいけない。この卑しむべき功利観を脱却することが出来なければ、例え如何ほど聖賢の書に親しんだところで、志のかうところは聖賢の反対である。 (東洋倫理概論)
17日 良知 その一 良知と言う言葉は、人間の優れた知能知覚のことと考えられやすいのですが、そうではなく、良はアプリオリ、つまり先天的に備わっておるところの実に意義深い知能、それを「良知良能」という。
18日 良知 その二 それを間違えるとどこまで行ってもはっきりしない。良という字に騙されてはいけない。騙すと言ったらおかしいが拘わってはいけない。「良知」というものは天地自然に備わっている働きという意味で、それ故に根源的・本能的・究極的であります。
19日 良知 その三 天地は万物を生成化育してきました。そして人間に至ってその万物を知るという霊妙な存在に到達した。人が知ると言うことは、経験を重ねてその対象を意識する、確かめることであり物の世界、自然界は、人間が我を離れて存在すると考えるものでありますが、直接には我を離れた存在ではなくて、我の所産である。
20日 良知 その四 まさに陸象山のいわゆる、「宇宙内のことは、即ち己が分内のことであり、己が分内のことが即ち宇宙内のこと」で、宇宙すなわち「是れ吾心」。吾心すなわち「是れ宇宙」である。これは単なる観念論、唯心論というものではない。具体的な経験、把握の問題であります。天地万物を究明しようとするならば、そうせねばならんのが人の性であるが、それには先ず我の内に復って徹見せねばならんのであります。
21日 良知 その五 我々の身体は一時の形質であるが、生命は永遠の相続である。身体に伴う意識、即ち知覚・思推・論理・批判・打算・欲望・感情など色々あるが、そういうものは、生じたかと思うと消える。消えたかと思うと生ずる。全く、たとえて言うなら、雲煙の去来なんであります。
22日 良知 その六 しかし、我々の意識の深層は無限の過去に連なり、未来に通ずるものである。それは、祖宗以来の経験・記憶・思考・知恵・創造の不思議な倉庫・宝蔵・無尽蔵であり、肉体の感覚器官に制約されず、原体験の送信に応じて、神秘な貝等指令を発信するものであることが、今日の科学によっても既に相当解明されている。これは宗教に限られるものではなく、科学者も芸術家も為政者も、誰もが参じ得る人間の神秘である。もとより偶然に得られるものではなく、あくまでも厳しい努力によって初めてあり得ることである。     (王陽明より)
23日 思考、黙想、熟視 我々が学校勉強をやるような単に本を読んだり暗記したりするような知性の働きのことを思考(cogitation)と言う。いわゆる抽象的思惟だとか、概念的論理などというものは専らこれに依るのでありますが、しかし、これは脳の働きとしては極めて機械的な働きである。これがもっと練られて性命的になってくるとmeditation(黙想)となる。この方が遥かに深い知力である。学校の秀才必ずしも、否、むしろ社会に於いては敗れたり嫌がられたりする者が多い。これはコジテイトが出来ても、メデイテイトが出来ないからであります。これが更に発達するとcontemplation(熟視)になる。
24日 労働知、形成知、解脱知、聖知 これをドイツ流に申しますとcontemplationにあたるものがArbeitswissen(労働知)。こういう機械的な頭の働きでは人生はわからない。もっと建設的な力が必要だというのでBildungswissen(形成知)と申します。然しこれでもまだ至らない。更に本能や感情を統一して、世俗を脱け出たものになると、Erioezungswissen(解脱知)。これが一番尊いのだというのでHeilswissen(聖知)と申しております。これはマックス・シェーラーが言っておることです。
25日 理屈より直感 我々の思想や学問と言うものは、理屈っぽいと言った段階から、やはり直感的になってきて、物自体を動かす動的な力、つまり感化力のあるものになってこなければならない。そうなると段々具体化してこなければならない。本に書いてあるのではなくて、その人の顔に書いてある。それこそ一挙手一投足、一言一行に現れるようになってこなければならない。その人の人相、その人の人格も或いは言動や思想・学問が別々になっておる間はまだまだ中途半端である。
26日 Embody 西洋でも近頃はそう言う傾向が強くなって、真理・哲学が身になる、Embody(体現)ということが尊重されるようになって参りました。或いは、これをIncarnate(具体化)と申します。
27日 本当の学 つまり真理・学問というものは、その人の相とならねばならぬと言うことであります。それが動いて行動になる。生活になる。社会生活になる。これを運という。そうしてこそ初めて本当の学であります。
28日 自己実現 学はその人の相となり運となる。それが更にその人の学を深める。相と運と学が無限に相待って発達する。つまり本当に自己を実現する。一言にして言えば、近頃西洋の思想・学問でしきりに論ぜられておるself-realization(自己実現)であります。
29日 己の棚上げ 今日の社会情勢の悪い点の一つは、その自分というものを棚に上げて、或いは自分というものを除け者にしておいて、他人のことばかり言う。これではいけない。全て己に反って、自己を実現してゆかねばならぬ、と深刻に反省され、考究されるようになってきておるのであります。
30日 本当の学問 面は我々の相であり、相とは自己実現のもの、いかに抽象的理論をうまくいっても、高遠なことを言っても、最も具体的な人間そのもの、その表現である処の相、それを見る人かせ見れば、すぐ分かるものであって、その面構えが悪かったら、いくら立派なものを作ったところで大したことではない。処が日本人の一つの誤れる常識は、学問・修行と言うとすぐに心に結びつけて形を無視する傾向がある。また反対に形を重んずる人間は、心を忘れる傾向がある。本当の学問は、心相一如でなければならない。        (身心の学)
31日 幼児の教育 とにかく胎児と言うものは大事でありますが、幼児でも同じことが言えるのであります。従来の教育・学問は全く成人を主たる内容として、幼児は文字通り幼稚であって、その対象として取り扱われておりませんでしたが、然し最近の心理学・社会学・医学・教育学等色々の学問的研究が、幼児は神秘的能力を持つ重大なものであることを次第に解明するようになって参りました。