中国、あれやこれや その22
今月は、黄文雄氏の論述をそのまま掲載し披露することとした。著書「中国こそ逆に日本に謝罪すべき九つの理由」からの引用である。

平成18 10月

 1日 日本の国家主権を堂々と犯す中国の論理 戦後、日本が中国から受けた様々な内政干渉という一連の「事件」は、日本にとっては有史以来未曾有の屈辱、汚辱であるはずだ。日中の関係、交渉の歴史の上で様々な対立があったが、今日ほど理不尽な内政干渉を日本は受けたことは無かった筈だ。 漢倭奴国(かんのぬのくに)」として漢の天子から金印を授かったとされる時代については謎が多く、さまざま歴史論争があるが、はっきりしたことは分からない。然しも聖徳太子の隋の煬帝(ようだい)に宛てた「日(いづ)る国VS日歿する国」の外交文書を見ると、当時の日本人は現在よりも「中国とは対等である」との気概があったことが分かる。
 2日

(はく)村江(すきのえ)での敗戦でも、元寇の襲来でも、日本は中国の大敵に対して敢然と立ち向かった。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」と呼ばれる「往明」も、大日本帝国時代の日清戦争も、「支那(しな)膺懲(ようちょう)」の精神も、全アジアの大局まで視野に入れた、日本人の侮れぬ精神の象徴的事件であった。
足利義満時代には中国から柵

封を受け、朝貢するとの「醜悪」を演じたものの、朝鮮のように朝貢柵封秩序にすがって生きていたわけでははなかった。むしろ当時の日本は貿易の利益を求めて当時の中国を中心とした「国際秩序」に従ったのであり、決して中国の脅威から国家の安泰を図るためで゛はなかつた。実際、中国()にとって足利時代の日本は「国際秩序」の乱源である倭寇根拠地として恐ろしい存在だったといえる。

 3日

このような日中交渉史の中で、どうして今日の日本人だけは、中国の内政干渉を受けるばかりか、それに唯々諾々として要求されるまま「謝罪」と「反省」を繰返すのだろうか。

中華天朝朝貢柵封秩序は崩壊して既に久しい。朝鮮、越南等々の朝貢国はすっかり姿を消し、しかも主権国家間の相互尊重が謳われている今日になって、なぜ日本だけが恰も自ら進むかのようにして中国の干渉を受けいれるのだろうか。
 4日

中国の対日内政干渉が決して正常でないことは、さすがに中国自身も感じ取っているようだ。これまでの内政干渉の流れを見ると、日本政府が余りに軟弱に、むしろ積極的とすら言えるまで干渉を受け入れることで、中国側もつい勢いをつけすぎた感がある。そして気がついたら、日本国民が中国に反発していたという状況だろう。だから、第四世

代の国家指導者の時代になり対日政策再考の動きが出ているのだ。それにしても何故、中国は日本国民に嫌われるという「ミス」を犯してしまったのだろうか。その理由は基本的に中国が、今日既に中華帝国が世界に君臨できる時代でなく、国家主権相互尊重の時代であり、主権在民の理念が世界の主流になっていることに無知だからである。
 5日

日中平和友好条約の第一条第一項には「両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵ならびに平和共存の諸 原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする」とある。ここにある「主権の尊重」「内政不干渉」と原則に中国は明らかに違

反している。中国はこれについて、日本に謝罪するべきではないか。中国の時代錯誤は甚だしいものにも程がある。日本の問題に対し、一体どこまでが、日本の国家主権に属するものかさえ知らないでいる。もしそれを知って敢えて内生干渉したというのなら、それは明らかに覇権主義である。
 6日

中国は二千年余以来、覇道を否定する王道というものを政治理念に掲げてきた。実際それを本当に追い続けてきたかは別としても、少なくともそう口にしてきたのではなかったろうか。日中国交樹立交渉に際しても、中国は一方的に「反覇権条項」とはソ連(及びベトナム)を覇権集団とみなし、共同でそれに反対するといったものだ。
ソ連への配慮で、この条項を

入れながら日本に対し中国は、これが国交樹立には必要不可欠だとして強要したのである。処が中国は、その目的が達成されると、今度は自分が覇権主義的振舞をし始めたのである。このような食言と背信、ご都合主義について中国が反省し謝罪しない限り、真の日中友好は実現させることが出来ない。仮に日本が中国と同じような振舞いに出たら中国は一体どうするのだろうか。
 7日 日本に対する許し難い名誉棄損と賠償金詐欺 中国人はいかに人を騙し、いかに人から騙されないかということばかりを考えている民族であるが、日本人は全く逆である。「日本人はお人好しで、いくら騙されてもままた騙される」とは、日本人を知る中国人がよく口にすることだ。このような両民族の違いは、歴史的な歩みや生まれ育ってきた社会的環境の違いから来るものであるが、どうして日本人自身はいつまでもそのことら気づかないのだろうか。 中国の古典には「戦国策」という戦国時代に行われた策略の数々のエピソードを集めたものがある。これは中国では教養人必読の書となっているが、そこには楚の懐王というお人好しの君主が、北方の秦王に何度も騙されたという話が載っている。
 8日

この君主は群臣がいくら諌めても、最終的にはまたしても騙され、結局は秦で客死している。私はこのエピソードによく日本を連想する。日本に40年暮して得た私の日本人観とは、世界で最もバカ正直な人種という一言に尽きる。もちろん例外も決してないわけではないが、それが日本の風

土が生んだ民族性であることは間違いない。例えば「南京大虐殺」であある。これについて、中国の「南京運動家」は、日本側の反論に対しては「鉄証如山(てぃつんずぅさん)」といい、「事実である」と宣伝に夢中になっているが、一般庶民は必ずしも事実であるとは思っていない。
 9日

確かに幼稚園児から青少年層にかけては教育で事件を信じ込まされているが、やがて成長するにつれ、信じられなくなっていく。勿論「三光作戦」や「七三一部隊」(日中戦争中に中国軍からのBC兵器攻撃を受けたのは日本軍の方で、七三一部隊はは元給水研究部隊であり、中国軍のBC兵器からの攻撃を防ぐために研究を続けていたものの成功

しなかった。詳しくは「日中戦争知られざる真実」を。
なぜなら人間に不信の社会に生きる中国人は、宣伝にしても何にしても、半信半疑になるというより「すべてが嘘」だと考えるからである。社会や人に対して徹底的な不信感を身につけることで彼らは大人となり人間として成熟していくのである。
10日

然し、日本人は全くその正反対である。生まれつきの正直さによって、中国人のゆすり、たかりのカモになってしまう。さらに極端な場合は中国人の嘘の主張に対し、全日本人の「良心」を代表したつも

りで謝罪し、その歴史捏造の片棒を担いでいる者も数え切れない。たしかに日中間に「過去の一時期」という不和な時代はあったが、それは既に「過去」のこことであった、しかも双方で法的に解決済みの問題である。
11日 解決済み

「解決済み」というのは、サンフランシスコ講和条約で日本の戦争問題はすべて決着を見たからからだ。そこでは日本の賠償は役務賠償のみとされている。中国はそれに調印していなないといい張ってもやはり日本と中国とは日中平和友好条約を締結して「解決済み」にしているのである。

賠償問題に関して中国は、既に日中共同声明において、「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言すする」としている。戦争というものは国際法に則った国家間の行為であって、その問題はすべて国際法によってのみ解決すべきものであることは、文明国の常識であり鉄則である。
12日

それにもかかわらず、江沢民などは、「過去について正しい歴史認識を持たない限り、将来を語ることはできない」という外交上の注文を新たに日本に突きつけた。これがいかに無原則のご都合主義の発言であるかは、江沢民がカンボジア訪問の際に言い放った言葉からも明らかである。

それはカンボジア側からポルトガル時代に行われて自国民大虐殺に対する中国の関与責任を追及された時のもので、彼は゛大事なのは将来のことであり、過去のことはどうでもいい。前向きに将来のことを語らねばならない」と言って開き直った一件である。
13日

日本には「過去」を、カンボジアには「将来」を、とい二枚舌は、まさに中国人の自己中心主義の表れである。もちろん自国の社会主義政権の失敗に関しても、民衆に対する大罪を一切認めようとはしていない。社会主義革命で日中

戦争以上の犠牲者を出しているにもかかわらずだ。中国による日本の「過去」の追及は、真摯に歴史の真実に向かい合おうということでは断じてなく、単に中国のでっち上げた狂言妄説を無理やり承認させようというだけのものである。
14日

その目的は、既に請求権を放棄したはずの日本の戦争賠償を何としてでも取り立て、あるいは揺さぶって取れる利益を少しでも取ろうというものである。日本は名誉棄損だけでなく賠償金詐欺の被害者にもなっているのである。

よって日本はこの点について、中国に反省と謝罪をしない限り、被害者でありながら加害者の犯罪を幇助し、或いは隠匿することになってしまうのである。このようなばかげた話が世界の一体どこにあるのだろうか。
15日 マッカーサーも認めた日本の正当防衛戦争

「開国維新後、日本は国力をつけることにもなって、領土拡大の野心を抱き、中国侵略を開始した」という日本侵略国史観が、既に日中共通のものになっているのは、日本の戦後教育の恐ろしさを物語るものである。だが、戦前の日本の官民は、一連の日本の戦争を「領土拡大の野心」を持つ「侵略戦争」などとは認識 していなかった。日清戦争では超大国清国に対する「義戦」と信じていた。日露戦争に至っては「十万の生霊二十億の国帑(こくど)」を費やして、ロシアの侵略・南下から東亜の安全を守ったと確信し、それに対して中国人は自ら国土防衛すら出来ず、「何をやっているのだ」との不満が鬱積していたほどだ。
16日

この二つの戦争のはざまで起こった日清事変では、日本は完全に中国の被害者だった。日本を含む列強諸国が中国に駐兵権を持ったのは、この義和団による騒擾事件の後である。
当時の清国政府は外国人の無差別襲撃や各国公館を包囲、攻撃した義和団を鎮圧しないどころか、その威勢を奇貨と

し、万国に宣戦布告かる有様だった。このような信用のない政府の、しかも不安定極まりないこの国には、現在のイラクやアフガンと同様、外国の軍隊が駐留する必要があったのだ。史実から見ても、日本軍や他の外国軍の手の届かない地域は、ほとんどがカオス状態だった。
17日

それでも清国政府が存在している間はまだいい方だった。やがてそれが倒壊し中華民国の時代となると、多政府の林立、対立状態となり、あくなき内戦が開始され激化していった。そして劣勢に追い込まれた勢力は反日行動に出、日本を戦争に巻き込んで中央政府と戦わせ、自らの勢力を温

存させようとしたのだった。中国の反日は、コミンテルンが国民党軍を指導し始めた頃から蒋介石の北伐のあたりにかけての1920年代に激化し始めた。そして中国の挑発による日中間の軍事衝突が頻発化し、やがて満州事変となり、盧溝橋事件へと発展していったのである。
18日

このように歴史を巨視的に見れば、日本の開国以来継続してあったという中国侵略の謀略というものがいかに作り話であるかは明らかである。そもそも冷静に歴史を研究すれば、そのような陰謀の証拠となるものはどこにもない。

日本はたえず中国との和平に努力し、一方中国がそれを拒否するどころか、逆に様々な反日陰謀を用いて、さらには「夷を以て夷を制す」の伝統的策略で英米などと組んでまでして日本の排除を試み、それが日中泥沼戦争へと発展する最大原因となつた。
19日

このために、日本の尊い「生霊・国帑(こくど)」がどれほど犠牲になったかは計り知れない。また無用な日本との戦争でもたらされた、中国庶民の犠牲も計り知れない。

西方東来からアジアの平和を守るみとを開国以来の最高理念として孤軍奮闘してきた日本を、最終的に破滅に追いやった元凶は、欧米列強というより中国という愚昧極まりないアジアの裏切り者なのだ。
20日

中国内戦は必ずしも全国規模の武力衝突であるとは限らない。それには軍閥、党閥、学閥の葛藤や村VS村の械闘(かいとう)も含まれており、そういった騒乱が延々と繰り広げられていたのだ。

では夫々の戦闘で、民衆はどれだけの被害を蒙っていたのかというと、数学的な統計を示すのは甚だ困難だ。一例をあげると国民党内戦の一つだ

った蒋介石VS李宗仁、馮玉祥(しょうぎょくしょう)閻錫山(えんしゃくざん)各派連合の中原(ちゅうげん)大戦だけでも、総動員数は百万人を越え、戦死者は30万人、巻き添えを食った民衆となると最早や数え切れない。同胞同士の殺し合いといえば、中国共産党内の十大党争をはじめ、人民共和国樹立後に行われた陰険な「整風」「清算闘争」も同じことである。
21日

勿論、内戦の被害は自国民だけでなく、外国居留民にも及ぶ。南京事件や斉南事件はその代表的なものだが、当時日本人が被害を受けた理由は、日本政府が欧米各国と違っ

中国とのトラブルを嫌って報復、逆襲を差し控えていたことにある。このような日本の友情的配慮が逆に中国人を増長させ暴徒を促し,銃口を日本人に向けさせたのである。
22日

その後の満州事変にしても、中国軍側の悪質な日本の権益の侵害、妨害工作の嵐の中で、それでも断固たる処置を取れなかった本国政府に危機感を抱いた関東軍の一部が、やむにやまれず現地独断で問題解決を図ったものだった。

関東軍がひとたび攻撃するや、中国軍は砲声一つで慌てふためき潰走しているが、なぜこれほど貧弱な軍隊がそれまでわが者顔でいられたかと言えば、そこまで見くびられる程、日本の態度が柔和だつたということだ。
23日

シナ事変が勃発すると、日本政府がいかに不拡大方針を宣言し、かつ現地軍がそれを遵守しようとしても、もはや中国内戦のブラックホールに巻き込まれた以上、底から抜け出すことは出来なくなった。

この戦争の最も基本的原因は、中国からの反日挑発であることは、中国共産党が発表した「逼蒋抗日」(蒋介石に迫って抗日戦争開戦に向かわせる)という戦略が自白している通りである。
24日

このように日本は被害者だつたのであって、そのことは戦後、(「マッカーサーが米上下議会証言録」は2003年の「正論」11月号より解説付きで

牛田久美氏より第一級資料として訳載中)、中国こそが日中戦争の元凶である。元凶である以上は日本に対して歴史の真相を明らかにし、謝罪を行わなければならない。
25日 日本に計画的に詐欺を働く中国の悪質行為 周知の通り、中国社会は春秋戦国時代、あるいは中華帝国の秦、漢時代以来、ずっと停滞している。この中国社会の停滞についてヘーゲルは「アジア的停滞」と名づけているが、それはヨーロッパにおける大航海時代以降の近代的資本主義の発展と比較したところの、中世の停滞と二重写しにしたからだろう。

それとは逆に中国人学者の間では、「超安定社会」であることが「停滞」に映るのだろうとの主張もある。もちろん「超安定社会」と定義することはおかしい。なぜなら中国の実態はは「超戦乱」の社会であるからだ。

26日

司馬遼太郎氏は中国社会発展の頂点が漢の武帝の時代であり、その後は没落の一途を辿ったと指摘したが、卓見である。アヘン戦争後、中国はたびたび社会改革を試みたものの、ほとんどたいした本質的

変化を加えることはできなかった。その理由としては社会不安定という背景もあるが、そもそもこの国は資本の蓄積や技術開発を独自で行う能力を持っていないという現実もある。
27日

社会主義革命後、自力更生という路線の下で、自力で「社会主義」の建設や、さらには大躍進などを試みたものの、貧窮落伍の社会状況を変えることが出来なかったばかりでなく、むしろ逆に社会を混乱の淵に陥れてしまった。

それは外国から資本と技術の導入を「資本主義の侵略」と決め付けて拒んだからである。戦後の台湾,韓国等のNIESの経済成長は、ほとんど外国からの資本や新しい技術の導入によって達成されたものである。
28日

それに対して社会主義国中国は、あくまでも「自力」で貧窮から抜け出そうとしたわけだが、このような中国人の自信過剰こそ、近代改革の度重なる失敗の原因なのである。

つまり洋務運動で見られた「中体西用」の発想である。中国人は何度この考え方が破綻しても、決してこれを放棄すねことが出来ないのは、やはり中華思想の信念があるからだろう。
29日

かって孫文は日清戦争直後、当時の改革派知識人の例に漏れず、洋務運動のまさにこのような幼稚な側面を批判し、日本の明治維新のような抜本的な文明改革を提唱し、そして革命を希求していった。

だが辛亥革命後の彼の構想を見ると、やはり「中体西用」に回帰しているのである。例えば、西洋から工場の設備など先進技術さえ取り入れれば、あとは膨大な労働力を駆使して列強を追い越すことができると主張した。
30日

だが、文字も読めず機械も見たこともなく、しかも近代的労働観念すら持っていないレベルの大衆を工場に動員して、一体何ができたというのだろうか。

第一、社会が混乱している当時の状況で、産業を興す事が出来たとでも思っているのだろうか。
31日

文革終了後、いよいよ自力更生では立ちいかないことを悟らざるを得なくなった中国政府は、改革開放路線に転じて外資導入を決め「資本主義侵略」を熱烈歓迎するに至った。その成果が沿海経済特区である。経済特区は、帝国主義の中国侵略の拠点と憎んだかっての「租界」と殆ど変わらない。それでも中国政府は、進んで特区を作り、優遇政策

をもつて外資を導入した。租界と同様、経済特区も例えば最初にできた深?などは、もともと3万人の人口しかなかったが、20年間で300万人、600万人と膨張し続け、盲流などを含めると800万人をも擁する近代的大都市に生まれ変わった。そしてやはり租界のように、内陸部の農民にとっては夢の楽園となったのである。