易と人生哲学 J 安岡正篤先生講義

平成19年10月度  第六講(昭和53年5月16日)続き

 1日

(しょう)
(てん)上水下(じょうすいか)

天水訟
(てんすいしょう)

訟は、うったえる、せめるという字であります。成長すると子供は、色々と要求を始めます。その時には、あくまでもその訴えを聞いて、正しく教えてやるのが宜しい。うるさいからと言って好い加減にしたり、急いではなりません。
大象(たいしょう)に、作事(さくじ)(ぼう)()事をなすには、

始めを謀ることが大切である、とありまして事業を始めるのも教育と同じで、事業は始め、教育は幼少の時代を大切にしなければなりません。仕事を始めると色んな問題が起こってきます。これをきびきびと解決しなければなりません。これは一時的でなく将来に亘ってやらなければなりませんから、特に始めが大切であると教えておるのであります。
 2日 ()

()上水下(じょうすいか)
()水師(すいし)

師の字は、もろと読みまして、もろもろの意味を要約したものであります。子供が成長すると、友達を求めて孤独から群居する。
集団生活になりますので、欲望、感情というものが複雑になって、いざこざ即ち

争いが起こります。これを(もろ)と言い、やがてこの字を軍隊に使うようになりました。国家の安全の為には、防衛を必用とし軍隊を設置します。師は軍隊でありますから軍事戦争をも意味するのであります。
 3日 ()

水上(すいじょう)地下(ちか)
水地比(すいちひ)

比の卦は師と逆でありまして、くらべるという字であります。比べるから、すきな者は、互いに親しんで助け合い、いやな者を排斥する。だから感情が主になってどうしても偏向しやすい、そこでこの卦は、人情の機微を備えた面白い卦ということができます。

この時に大事なことは、卦辞(けじ)の「元永(げんえい)(てい)」ということであります。これは元亨利貞の元と、刹那的でいけないという永と、いつまでも変わらないという貞が大事な内容、道徳であります。
 4日 比 その2 面白いのは、後夫凶(ごふきょう)―後夫は凶なり、とありまして、これはしっくりとしなかった者が形勢を見て、後から、のこのことやってくるであろうから、こういう者は注意しなければならない、という戒めであります。 兎角、比の字は悪い意味に使われます。これは、自分の感情、欲望、好みが主眼となる為に悪くなりやすい・朋党比(ほうとうひ)(しゅう)という言葉がありますが、これは好きな者同士、或いは利害を同じくする者が組んで他を排斥することを申します。比の卦は面白い卦であります。
 5日 小畜(しょうちく)
風上(ふうじょう)天下(てんか) 
風天小畜(ふうてんしょうちく)

人間は、自らの中に色々の能力、つまり才能とか、情操とか、知恵というものを持ちませんと、外にばかり走って機械化、唯物化します。そこで子供がある程度の年齢に達すると、内面生活、徳というものを蓄えるように指導しなければなりません、これが小畜であ

ります。例えば、少年を学校へやると、悪童と付き合って遊び回って勉強をしない、これではいけませんから、そこで家庭で、嫌がっても勉強させ、よい習慣をつけるように指導しなければなりません。これがこの卦の戒めであります。
 6日   ()
(てん)上澤下(じょうたっか)
 (てん)(たく)()

愈々成長して高等学校、大学を卒え、世の中に出て、社会生活、人間生活、人格生活、道徳生活を始めます。これが「履」であります。処が、社会生活というものは、色々と秩序、階層等がありますから、幼少の頃から蓄え修めた徳を、よく発揮しなければなりません。履は、ふむでありますか

ら、先輩や友人の意見に従って進むことが大切です。このように易の卦を順々に調べていきますと、我々の生長段階と、それに伴う個人生活、社会生活というものの基準、法則がはっきりと教えられます。実にうまく配列されていることをしみじみと味わうことが出来るのであります。 

 7日 (たい)
地上(ちじょう)天下(てんか) 
 
地天(ちてん)(たい)

泰の卦は、外が陰で内が陽であります。例えばこれを生理機能で申しますと、内に活発な健康力を持っておって、外の表現は控え目である。或いは才能に富み、満々たる迫力を持っておるけど、一向にそんなことは外へ表さず穏やかに保っていく姿、これが「泰」であります。そういう意味でこの泰の卦はよくできた卦であります。
易者の看板は皆この泰の卦であります。

()ってたった一度、上野不忍池畔で、泰と逆の「否の卦」を看板に書いておる易者を見たことがあります。慌てて書き誤ったのかなと思いましたが、易者の顔を見ているとそのようにも思えません。皮肉で書いとるなと感じまして、尋ねてみようとしたのですが、あいにく客が入ってきて商売が始まりましたのでやめました。その後も注意しておりますが泰の卦以外の看板を見たことがありません。

 8日 ()

天上(てんじょう)地下(ちか)
天地(てんち)()

泰とは逆であります。外は陽気で極めて活発に行動するけれども、内には大したエネルギーを持っておりませんから直ぐ行き詰る。

或いは頭もよく、弁も立つ、然し人間の内容に立ち入って調べて見ると、能力がなく見かけ倒しである、というのがこの否の卦の特徴であります。否は否定、否決等をあらわします。
9日  
天上(てんじょう)火下(かか)
天火(てんか)同人(どうじん)

個人生活から次第に社会生活に進みますと、色々の意味で似た者が集まる。例えば、同じ学校を出たとか、同じ職業に従事しておるとか、或いは志を同じくする等によって集まります。

これが「同人の卦」であります。第六講でも述べましたように、今日のこの席も近鉄の同人の卦であります。互いに手を携えて行くと社運が隆盛するという意であります。
10日  大有(たいゆう)
火上(かじょう)天下(天下) 
 
火天(かてん)大有(たいゆう)

この席にお集まりの人々が共同されますと、そこに個人の持たないエネルギー、即ち色々の意味の力と内容を持つようになる、これが「大有(たいゆう)」であります。

処が、多くの人が集まり勢力も出来ると、兎角人間は、よい気になるものである。そこで次に「謙」の卦を置いて戒めております。即ち盛運を抑制して、永続する努力をせよと教えているのであります。 

11日 (けん)
地上(ちじょう)山下(さんか) 
地山(ちざん)(けん)

一貫した勢力が行われ、発展隆盛しますと、のぼせるというか、つけあがるというか、よい気になります。その時によく反省をして謙遜でなければならぬ、教えるのがこの「謙」の卦であります。

易の六十四卦は、夫々私達に、戒めの言葉を与えてくれますが、中でも内外六爻(こう)を通じて、凡てよい言葉を連ねてあるのは「謙」の卦だけであります。そういう意味で、この卦は非常に美しい、円満な卦であります。
12日 (けん) その二 人間も謙遜な人というのはゆかしいものです。殊に知能、才能、徳義の優れて立派な人程、謙遜であるとゆかしい。少し才能とか能力或いは金力があるとそれをひけらかす人がありますが、これぐらい浅ましいことはありません。 反感と軽蔑を覚えます。然し、人間というものは情けないもので、一寸成功すると、すぐ偉らそうになり、女房子供まで威張りちらす。そういうことが一番よくないと痛い程の教えであります。 
13日

(けん) その二

人間も謙遜な人というのはゆかしいものです。殊に知能、才能、徳義の優れて立派な人程、謙遜であるとゆかしい。少し才能とか能力或いは金力があるとそれをひけらかす人がありますが、これぐらい浅ましいことはありません。

反感と軽蔑を覚えます。然し、人間というものは情けないもので、一寸成功すると、すぐ偉らそうになり、女房子供まで威張りちらす。そういうことが一番よくないと痛い程の教えであります。
14日 (ずい)
澤上(たくじょう)雷下(らいか) 
澤雷隨(たくらいずい)

ゆとりが出来ると、人々が魅力を感じてつき随ってくる。人ばかりではなく天下の万物、金までつき随ってきます。これが(ずい)であります。この時に大事なことは、好い気になって共に遊んでおって

はいけません。時がくれば退いて有益な書物を読んで自分を修めなければなりません。でないと、とんだ問題を生じ易い。そこで易経も次に「()」の卦を配して戒めています。 

15日 ()
山上(さんじょう)風下(ふうか)
山風蠱(さんぷうこ)

()は木皿に虫がくっておるという字で、腐敗、壊乱を意味します。厄介な障礙(しょうげ)を排除して進まなければならぬことを教えております。

謙から豫、(ずい)そして()へ進む、易の配列は、憎らしい程機微に通じ、勘どころを押さえた、至れり尽くせりのものでありまして、しみじみと感嘆致します。 

16日 (りん) 
地上(ちじょう)沢下(たくか)
()(たく)(りん)

余裕ができると人も金もついてくるすると悪い虫がつく、そこでこの悪い虫、即ち障礙(しょうげ)や難事をよく排除すると又新しい天地が開けて喜ぶことが出来るという卦であります。私達が何げなく「それじゃ臨席します」と言いますが、

あれは誤りです。易からいうと、臨は、その人が出てくれることによってその場が大いに華やかになる、値打ちが出るという意味でありますので、人に対して「御臨席を願います」というのはよいが、自分が臨席するというのは不当、無礼であります。
17日 (かん)
風上(ふうじょう)地下(ちか)
風地顴(ふうちかん)

よく修養して人格の出来た人が現われ、座につきますと、参列の人々が粛然(しゅくぜん)としてこれを()る。これが(かん)であります。観に二つの場合がありまして、一つは俯瞰(ふかん)と言って高い所から見わたすことであり他の一つは(げい)(かん)と言って

下から仰ぎみることであります。また、観世音の観などというのは、大変よい文字でありまして、これはただ見るのではなく、心のこもった、精神の高まった心でみるという観であります。この卦は、自らを修めて人の範となり、人々から仰ぎ見、慕われるようにならなければならないという戒めの卦であります。
18日 噬こう(ぜいこう)
火上(かじょう)雷下(らいか)
火雷噬?(からいぜいこう)

好事魔多し、と申しまして何事につけても順調にいくと、又邪魔者や、妨害が出でくる。そこでこれを粉砕しなければならないという卦がこれであります。

噬こう(ぜいこう)とは、()あわ(あわ)わすという文字であります。つまり飲み込んではいけない。十分に咀嚼(そしゃく)する。物事を十分考えて処理しなければならないということであります。
19日 ()
山上(さんじょう)火下(かか)
山火賁(さんかひ)

難問題を処理して、()の卦に至ります。()あや(○○)かざる(○○○)という意味がありまして、先の臨と結びつけて、賁臨(ひりん)という言葉がある。これは臨席のもう一つ上の、その人が臨席してくれることによって光る、輝く、一座に光彩を添えるという時に使います。だから、余程偉い人に使う言葉であります。御賁臨(ごひりん)を仰ぎますというように使いますが、自分が賁臨(ひりん)するなどと言ったら、これは大きな誤りであります。

()の字は、又やぶれる、失敗するという意味もありまして、りっしんべん、をつけますと(ふん)(いきどおる)という字です。物事を叩き壊すというような怒り方を憤と言います。ただから腹を立てて死ぬことを怒死と言わないで憤死(ふんし)という。文字をこのように見ますと立派な学問であります。その賁の一番至れるものを白賁(はくひ)と言いまして、あや(○○)かざり(○○○)の究極は白であります。素であります。自分自身で、とってくっつけたものは駄目であります。 

20日 (はく)
山上(さんじょう)地下(ちか)
山地剥(さんちはく)

()は至れるものですが、一度間違えるとやぶれます。そこで()の次にこの剥の卦を置いております。
この卦は、陰が上昇して僅

かに上に一陽が残っておる転覆崩壊の危を示す卦であります。剥落(はくらく)と申しますと、御破算を意味し、もうこうなりますと出直しであります。次の覆であります。
21日 (ふく)
地上(ちじょう)雷下(らいか)
地雷(ちらい)(ふく)

(はく)一転すれば復であります。一陽来復(いちようらいふく)であります。易は極まるところがありません。万物自然を見ますと、秋から冬を迎えて、木の葉は皆剥落します。

いわゆる木落ち、水尽き、千崖枯(せんがいか)るという景色になりますが、春を迎えると、再び下から青草が萌え出し、木の芽が出る。()(はく)すれば復であります。これが復の卦であります。
22日 无妄(むもう)
天上(てんじょう)雷下(らいか)
天雷无妄(てんらいむもう)

(もう)みだり(○○○)うそ(○○)いつわり(○○○○)であります。これ等が無いということですから、本来に(かえ)って出直す時には、一切の嘘、偽りを無くして真実でなければならぬ、ということであります。
この卦は天の下に雷があるから、落雷の(しょう)であり、不慮の災難を意味します。

幕末の大儒(たいじゅ)・佐藤一斉の詩に、「赴所不期天一定、動於无妄物皆然」、期せざる所に赴いて天一に定まる、无妄(むもう)に動く物皆然り、虫のいい人間の期待など一向に当てにならない、物事は寧ろ思いがけない所に行ってぴたりと定まる。何事によらず、天の无妄(むもう)・自然の真理によって動くのである、という有名な詩であります。
23日 大蓄(たいちく)
天上(てんじょう)雷下(らいか)
(さん)天大蓄(てんたいちく)

この卦は、風天小蓄(ふうてんしょうちく)と比較される卦であります。小蓄に比べて、蓄え方が強く且つ積極的であるという卦であります。
復して新たに活動するとき

には、出きるだけ大きな内容と、蓄積がなければなりません。内容、蓄積に欠けますと活動を新たにすることができませんから、大いに蓄えなければならないという卦であります。
24日 ()
山上(さんじょう)雷下(らいか) 
(さん)(らい)()

()あご(○○)である。この卦の上卦が上あご、下卦が下あご、また、中の四爻(しこう)が上下の歯と見ることが出来、養うという意味があります。

具体的に何を養うかと申しますと、禍の基となる言語を慎み、健康の基である飲食を節して、自らの徳と身体を養うことであると教えておるのであります。 

25日 大過(たいか)
澤上(たくじょう)風下(ふうか)
澤風(たくふう)大過(たいか)

この卦は、(さん)(らい)()の裏返し((さく)())であります。初爻(しょこう)上爻(じょうこう)が陰で弱く、中の四爻(しこう)が総て陽で大()の過ぎる卦であります。つまり四爻(しこう)(むなぎ)であり、初爻と上爻がこれを支える柱でありますが棟が強過ぎて支える柱が弱いため、家が

倒壊する危険がある。また人事関係で申しますと、責任が重過ぎるという卦でありますが、これを突破する為に大きな努力が必要であり、努力によって功を奏することができるという卦であります。このように我々の生命、人格、事業の変化、変遷というものを辿って参りまして最後に五行の水に至ります。
26日 (かん)
(すい)上水下(じょうすいか)
(かん)()(すい)習坎(しゅうかん)

(かん)は水であります。水はくぼみに入り、これを埋めて流れますから坎(あな)であります。水の重なる卦でありますから、習坎(しゅうかん)と言います。

苦労は人間を磨き、新たな勇気や力を生じ、努力していけば、必ず他より敬重せられると教えております。 
27日 ()

火上(かじょう)火下(かか)
()()()重明(じゅうめい)

(かん)()(すい)を裏返した(錯卦)であります。上卦、下卦とも火でありまして、火は何ものかについて初めて炎上し、火としての特性を発揮する。また離は、はなれる(○○○○)と共につく(○○)という意味があります。

この火の従うという特性は、人事で申しますと、人が何につき従うかということでありまして、慎重に正につき従うことを考えなければなりません。これによって吉慶を得ることができるのであります。 

28日 終わりは新たな始め 乾坤(けんこん)から始まって、(かん)()に至る易の卦を辿ってみると、実によく思索し、把握し、推敲(すいこう)されて極めて自然であります。それが、下経になりますと、やや人為的、人間的でありまして、その最後は、「既済(きさい)未済(みさい)」です。ザッツオールというのが「既済(きさい)」、それと同時に「未済(みさい)」であります。終わりは新たな始めです。終わりは決して終わりでなく、やがて始まる。循環であります。上経三十卦、下経三十四卦、合計六十四卦をもって易は出来ておるのであります。 そこで、この易を研究してまいりますと、円転滑脱(えんてんかつだつ)というか、無限、無窮、実によくできておりまして、さすがに何千年もかれて練り上げられたものであるということが、しみじみ分かると同時に、易を学びますと、軽薄にのぼせ上ったり、或いは意気地なく失望落胆することがなくなります。また変転極まりない人間学と、自然の観察に基づく人間の考察、解明でありますから、易を学ぶことによって始めて我々は、限りない自由を得ることが出来る。これが易経の妙味と言いますか、興味の深いところであります。
29日 (ぶん)(めい)文迷(ぶんめい)の時代こそ易を

此の頃、文明は、まさに文冥になりつつある。冥までは参りませんが、少なくとも迷うておることは事実です。文迷であります。何とかこの現代文明を文冥にしないように努力しませんと、大変なことになるので、最近ヨーロッパにローマ・クラブというのが出来ました。アメリカにも出来ておるようですが多くの学者が集まって真剣に現代文明の研究、批判と修正を目的と

して努力しておるようであります。どうも、まだ日本にはそういうものが、個人的には少しあるようですが、結束してやっておるというのがありません。やはり日本人は、西欧人のように自治的でなく指導力というものを必要としますから安定した内閣をつくり、内閣が音頭をとって学者や識者を集めて、この近代文明の弊害を救い、新鮮な時局を打開することに努力しなければなりません。 

30日 易は活学そのもの アメリカ大統領は一回当選すれば任期が四年ありますから、日本の内閣も一度組閣すれば四年は保つというような、少なくとも地方長官ぐらいの任期を持つ内閣にする。そうすると二期やれば八年ですから、四年から八年やると相当やれます。易学から申しましても、かなり見込みのあるというか、意義ある政治をやることが出来ます。 優れた同人を集め、大きな力、大有にして、謙虚に、大いに能力を発揮していけば、どのような大きな事業でもやることが出来ます。従って易をやりますと政治経済、道徳、諸般のことに関して深い示唆を受けることが多く、易学は本当に、天地人生を通ずる原理の学問であるとともに、道徳、政治を通ずる活学であります。
31日 六十四卦を一通りやりますと、我々の精神、頭脳というものは非常に豊かになり、あきらかになります。実によい学問、貴い学問でありますが、それだけに難しいと言えば確かに難しい学問であります。然し、これは手ほどきが肝腎であります。初めを誤ると「初めあらざるなく、終わりあるは鮮し」とと言いまして、途中で皆が参ってしまいます。そこで始めに入門を正しく、懇切にやりますと、易学というものは、やればやる程味のある深味のある生きた学問てであります。私達の人生も事業も民族も国家もこれは大いなる  

易でありますから何にでも通ずるこの上ない学問であります。最初に申しましたように、人類の興亡の歴史を研究しておって、すっかり行き詰り、煩悶懊悩しておったトインビーが、図らずもこの東洋の易というものを発見して、易の六十四卦循環の理を知るに及んで、始めて活眼を開くことができたと、非常に感激をもって語っておりますが、我々も真剣に易学をやりますと、窮するということがない、本当に救われるというか、浮ばれるというか、意義深いと同時に非常に美しい学問であります。(昭和五十三年七月十八日講)