日本の「国宝」10

アーネスト・フェノロサは、明治171884年、法隆寺夢殿の扉を開けた経過を次のように語っている。「驚嘆すべき彫像、世界に比類なき仏像」これは、法隆寺夢殿に秘仏として匿されていた「救世観音」のことであることは有名。フェノロサは寺を強引に説得し、千年の禁を破り、救世観音に巻かれた布をほどき、埃を払い「世界に比類なき仏像」を発見したのである。比類無き日本の文化と歴史の次元の高さ、日本文化の価値観を自覚し日本再認識の一助にもしたい。徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

平成18年10月1日

 1日 国宝一家「慶派」

鎌倉時代初期、康慶、運慶、湛慶の親子三代の名人を輩出した仏師一家、慶派は、康慶の弟子快慶、定慶も含めた五人で十一件の国宝彫刻を遺している。千手観音坐像世親菩薩立像
「無著菩薩坐像」、運慶作 鎌倉時代 木造彩色 高194.7米 興福寺 北円堂
「増長天」、康慶作、鎌倉時代木造彩色高198興福寺南円堂「維摩居士坐像」定慶作 鎌倉時代 高87.1 興福寺 東金堂
「僧形八幡神坐像」快慶作 鎌倉時代 木造彩色 高87.1 東大寺八幡殿 

慶派の祖、康慶は、興福寺の不空羂索観音坐像と四天王立像、法相六祖坐像を、その弟子、定慶は興福寺の維摩居士坐像と金剛力士立像を、快慶は東大寺の僧形八幡神坐像や金剛力士立像を遺した。また興福寺の弥勒仏坐像や無著菩薩・世親菩薩立像は康慶の子、運慶の作であり、興福寺、東大寺の復興に大きい貢献をしている。妙法院三十三間堂の千手観音坐像は運慶の子、湛慶の作である
 2日 珍品の国宝1. (かわや)」桃山時代の名城・姫路城の大天守閣地階厠である。三連式の厠、国宝の一部である。木製の簡素なきんかくしの下には、大きな落壺が据えられている。 汲み取り口は無い。篭城の時、糞尿を敵に浴びせる戦略であろう。
 3日 天下の詫び状 国宝の書は全部で274件ある。中に思いがけない内容のものがある。「離洛帖(りらくくじょう)」として古くから名高い「藤原佐理筆書状」は詫び状である。太宰(だざいの)大弐(だいに)に任命された佐理は、摂政藤原道 隆への挨拶もせずに九州へ旅立ってしまった。その失礼を詫び道隆の甥誠信(さねのぶ)に執り成しを依頼した手紙である。小野道風、藤原行成とともに「三跡(さんせき)」として讃えられ佐理ならではある。
 4日 尊い襤褸 推古天皇30年、622年、聖徳太子が歿されると妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)はひどく悲しみ、太子が往生された天寿国の様子を図像にして偲びたいと天皇に願い出た。 そうして制作されたのが、「天壽国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」である。
残閥で飛鳥 鳳凰時代
88.8*82.7 中宮寺
 5日 海部氏系図

平安時代、京都府宮津市の「元伊勢籠神社」の宮司家に伝わる古系図、始祖は彦火明命から平安時代の16代まで記してある。中央の墨線に沿い代々の名前が2米以上も一直線に続く。

私は兼ねてから興味津々、日本そして神様の始祖とも言われ天王の別名もあるニギハヤヒの末裔だと思っている。
 6日 黄鐘調(おうじきちょう)の梵鐘 京都、
妙心寺の鐘
、黄鐘調は音色の良さで知られる。
国宝指定の梵鐘は13、中でも文武天皇2年、698年、福岡県粕屋郡で鋳造され、日本最古の銘文野刻まれたのがこの鐘である。
 7日 過去現在因果経 過去現在因果経の釈迦若き日の物語の一部。釈迦の前世の生涯から現世に生まれて仏陀となり、数多の弟子達に悟りの道を説くに至る一種の釈迦伝。 魅力はその稚拙性の美。第一にはお伽噺的な純朴な描写、第二は彩色・構図の簡潔な造形性。下段に書写されている経典の文字の、天平時代の端厳雄勁な書風の伴奏があって、この絵因果経に更に一段と高き芸術性を与えている。
 8日 金印

野良仕事で天明4年、1784年発見された国宝。

後漢1世紀、印面2.35、高さ2.25、重さ108.729g。
 9日 唯一、個人所有のお城 犬山城で現存する最古の天守閣を持つ。尾張徳川義直付きの家老、成瀬正成以来第11代目に当たる現城主は成瀬正俊氏の所有である。有限会社犬山城である。 固定資産税は免除、補修などの維持費の50lは補助金だが中々大変らしい。
10日

閑谷(しずたに)学校も個人所有国宝

講堂の国宝を含め池田孝政氏の所有。備前焼の瓦で有名。

江戸時代初期の寛文6年、1666年備前岡山藩主池田光政が設けた庶民の為の学校。
11日 書写山・円教寺摩尼殿観音堂

巨大な木造建築の脚組は雄大で圧倒する。仁王門から古木の茂る参道を進むこと15分、いったんのぼった坂をまた下った先に見上げるような舞台造りの摩尼殿(如意輪堂、昭和8年再建)が目にはいる。斜面に堂々と建つこの堂は西国33ケ所27番の札所で、参拝の人々が絶えない。

書写山の本堂にあたり、6本の手を持つ如意輪観音を本尊とする。ほかに四天王(重文)があるが共に秘仏。1月18日の鬼追いの日のみ一般に公開。
12日 法華山・
一乗寺

国宝三重塔

加西市、古式を残したどっしりとした構えが雄壮。
13日 朝光寺

朝光寺・

源平の古戦場で知られる三草山の麓に建つ。
14日 浄土寺

浄土寺・阿弥陀堂

鎌倉期の東大寺再建の中心人物、東大寺領であった加古川の浄土寺を開創した俊乗房重源の木造あり。
15日 鶴林寺本堂・室町時代密教建築の傑作 室町時代初期の応永四年(1397)に再建されたことが、内陣宮殿(厨子)の棟札に 記されている。 建物の規模は、桁行(正面)7間、梁間(側面)6間あり、単層入母屋造本瓦葺の、 加古川市内最大の建築である。
建築の様式は鎌倉時代に中国(宋)
から唐様式(禅宗様式)と天竺様式(大仏様式)が もたらされ、これが和様式と折衷された新和様式(折衷様式)である。 この本堂は、折衷の意味を忠実に示した貴重な建物である。
16日

太山寺本堂・播磨一の巨刹

「播州太山寺縁起」によれば、元正天皇勅願寺として716年(霊亀2年)に発願者である藤原鎌足の孫の藤原宇合が堂塔伽藍を建立したとされる。開山(初代住職)は藤原鎌足の長男・定恵(じょうえ、「定慧」「貞恵」とも書く)とされている。創建時の建物は1285年(弘安8年)の火災で焼失しており、現存する建物はそれ以降に再建されたものである。開山とされる定恵は、藤原鎌足の長男で(次男は藤原不比等

若くして出家し、遣唐使とともにに渡った。生涯について謎の多い人物で、没年についても『日本書紀』『藤氏家伝』は665年(天智天皇4年)、『元亨釈書』は714年(和銅7年)とするなど定かでない。太山寺の境内および周辺からは定恵の時代までさかのぼる遺跡、出土品等は確認されておらず、実際の創建は平安時代に降るとみられている。

17日

住吉大社・本殿

住吉大社すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区にあり、1800年の歴史を持つ日本でも屈指の神社

名神大社二十二社摂津国一の宮。旧社格は官幣大社(現、神社本庁別表神社)。日本全国の住吉神社の総本社。

18日

村の鎮守が国宝

神谷神社
弘仁三年壬辰年嵯峨天皇の御代、阿刀大足(弘法大師の大叔父)が社殿を造営祭祀し、併せて春日四神を相殿に勧請し祀ったといわれ、卓観七

年冬十月九日従五位上、卓観十七年戊申正五位下(三大実録記載)の叙位があり、延喜五年には國司班幣の神として延喜式神名帳に記載(延喜弐内社)されている。
19日 日本総鎮守

大山祇神社

山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の甲冑の多くがこの神社に集まっている。近代においても日本の初代総理大臣伊藤博文旧帝国海軍連合艦隊司令長官山本五十六をはじめ、現在でも海上自衛隊海上保安庁の幹部などが参拝している。国宝の鎧・甲の数々。この地に鎮座した由来として、大山祇神の子孫の乎千命

(おちのみこと)がこの地に築いたとする説、伊豆国三嶋大社(現、静岡県三島市)から分霊を招いたとする説、朝鮮半島から渡来した神であるとする説など諸説があるが、摂津国の三島江(現、大阪府高槻市)からこの地に移されたとするのが一般的である。 いずれにしても、かなり古い時代から存在した神社であることは確かで、平安時代には朝廷から「日本総鎮守」の号を下賜されている

20日 厳島神社 太古から宮島の景観に霊気を感じ、島そのものを神として信仰の対象。社殿の創建は、推古天皇即位元年(593年)、佐伯鞍職による。神社の敷地を州浜に求めたのも、島そのものを神と見たため。厳島神社は、弘仁2年(811年)にはじめて日本の歴史に記録され『日本後記』には伊都岐島神を名神に列している。平清盛の時代平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168年)ころには社殿が造営された。
平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多く
の貴族を始めとする人々の知
 
るところとなり、社運はますます盛大。京都からは、皇族、貴族が訪れ、当時の平安文化が積極的に取り入れられた。舞楽が始まったのもこの時代。平家滅亡後も、源氏一門に厚遇され、安定と隆盛の時代であった。
 社殿は、承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災にあい修復が行われたが、たび重なる火災で神社の規模も移り変わったと思われ、弘安の時代(1278〜1288年)に記された社殿の図は今の配置と異なる。
21日 長州・功山寺仏殿と住吉神社本殿 鎌倉時代創建、唐様建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており国宝に指定。元々は長福寺と呼ばれており、功山寺となったのは長府藩祖毛利秀元(ひでもと)の菩提寺とされてから。幾度となく歴史の舞台になったところで、毛利元就に追われた大内義長が自刃した場所であり、明治維新の転機となった高杉晋作が、奇兵隊からも賛同されないまま、伊藤俊輔(の博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊ら、わずか80人程度で挙兵した地(功山寺挙兵)、境内には馬上の高杉晋作像があり、晋作を始め幕末・維新ファンなど歴史ファンが訪れる。
 その他、ここには“五卿潜居(ごきょうせんきょ)の間
があり、そこから望む美しい庭園。

住吉神社は桁行22.8m、梁間4.6m、檜皮葺の古社本殿。今の本殿1370年(応安3)に大内弘世が造営した。本殿は一間社流造りという形式の五つの社殿、相の間をもって連結したもの、柱間が九つある九間社流造り他に例のない珍しい形式。五つの社殿の各正面には、千鳥破風という小さい屋根、流造りの特異な形式。軒軸廻りの細部に見られる手法は優秀で、向拝正面の束の一種である蛙股(かえるまた)の彫刻。内部の板壁には、彩色された絵。各社殿内には玉殿、五基とも同一意匠で、本殿の建築と同時代のもの。この本殿は流造り(ながれづくり)の社殿として異例、構造意匠は貴重。

22日 宇佐神宮本殿 宇佐神宮は全国4万余社の八幡様の総本宮。
 宇佐の地に、初めて八幡神が御示顕になられたのは欽明天皇の御代、御許山に顕われた。同天皇32年(571年)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕れ、
「我は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げられたので、このちに祀られたのが宇佐神宮の始まり。
 仏教が国家の保護を受けて盛んになった奈良時代(710793年)に外来の仏教を日本の神とひとつにして信仰しようとする
『神仏習合』が起こり、宇佐八幡はいち早く神仏習合を行い、その境内に弥勒寺を建立した。その頃、聖武天皇は仏教の力で日本を守ろうと奈良・東大寺建立を計画、この大事業の中で宇佐八幡は大変重要な働きをした
その手柄によって八幡神は東大寺を守る神として祀られ、高い位と褒美を頂いたた。やがて、朝廷は国の重要な事柄について八幡神にうかがいをたてるようになり、八幡神を国の神と考えるようになった。宇佐神宮の成立は複雑、奈良時代より厚く信仰。回廊内にある本殿は西より第一殿、第二殿、第三殿の三棟が横に並び、現本殿は安政2年(1855)から文久元年(1861)に建てられた。各殿は内院と外院という二つの切妻造建物を、前後に連ねたかたちである。この形式が八幡造で式年造替制により、古式が保たれている。
23日 安楽寺八角三重塔

国宝1登録鎌倉時代建築八角三重塔

三重塔建造 :824〜834年宗教曹洞宗

八角三重塔は全国唯一の塔で、中国の影響を受けている。純粋に禅宗様式ている塔も全国ではこれだけ。日本建築史上極めて重要な存在、長野県最初に国宝に指定された。八角三重塔は基壇を設けず、柱は直接自然石の上に礎盤という玉のようなものを置き、その上に立てている。

全体が四重塔に見えるが、実は一番下の屋根は一層の庇。この庇のことを裳層(もこし)といいこの塔の正式名は「裳層付三重塔」。

草創は空海や最澄が活躍した時代で、824〜834年。 

「山かげに松の花粉ぞこぼりける ここに古りにしみ仏の像」

 島木赤彦が八角三重塔を訪問した時の詩

24日 仁科神明宮 大町市大字社字宮本の古木が鬱蒼と繁る、宮山の南麓に鎮座、東方はテーブル状の大峰山系(1016メートル)に連なり、西方は田園地帯を見下ろす彼方に高瀬川の清流を隔てて雄大な北アルプス連邦を望むことが出来る風光明媚な地にある。むかし皇大神宮御領であった仁科御厨(みくりや)の地に勧請(かんじょう)。創始年代は後冷泉天皇(在位1045-1068)。  信濃でも一番古い。古族仁科氏が御厨に拠り、400年の長い間、神事を司ったが、天正10年(1582年)滅びてからは、江戸時代は、松本藩主小笠原貞慶が神領として朱印15石を寄進、以後松本藩主代々の祈願所、明治になってからは仁科66郷の総社、明治5年に郷社、明治26年に県社。わが国7神明宮の一つ。
25日 羽黒山五重塔 羽黒山は月山、湯殿山とともに「出羽三山」と称され昔から修験道の山。五重塔は高さが29mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年に国宝。
東北では最古の塔、平将門の創建。現在の塔は、約600年前に庄内領主で羽黒山別当の武藤政氏の再建。 塔の近くには、樹齢約1000年、樹の周囲約10mの巨杉「爺杉」があり。
26日

日光東照宮

日光東照宮栃木県日光市にある神社

江戸幕府開祖の徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。全国東照宮の総本社的存在、久能山東照宮とともに「三大東照宮」。
27日 永保寺 山号は虎渓山。1313(正和2年夢窓疎石が長瀬山の幽境に庵居しこの禅寺を開創。
 現存する開山堂観音堂は国宝に指定され、両堂には南北朝期から室町初期における歴代住持や檀那の位牌が納められ、開山堂には元翁本元と夢窓疎石の木像が安置。
 
絹本着色千手観音像(重要文化財)のほか、夢窓や元翁の墨跡など数多くの文化財を所蔵し、観音堂前の庭園は臥竜池と称する池に反り橋の無際橋がかかり、浄土教的庭園の様式を感じさせる名庭、国の名勝に指定。臨済宗南禅寺派の専門道場(僧堂)
28日

出雲大社本殿

『日本書紀』や『古事記』に起源説話をもつ古社である。伊勢神宮のような式年造替制が明確でないが,数多くの造営が行われ,現本殿は延享元年(1744)に建てられたもので,正方形平面・切妻造・妻入の大社造である。  規模の大きさ,高い床,太い部材など現本殿も相当に雄大であるが,史料や伝承によれば,古代にはさらに高大であった。
29日

神魂神社本殿

大庭大宮とも云う出雲国造の大祖天穂日命が、此地に天降られ御創建、伊弊冊大神を祀り、出雲大神、出雲国の総産土大神として天穂日命の子孫大社町、北島、千家両国造)は元正天皇霊亀二年(716)に至る二十五代果安国造迄祭主として奉仕、斉明天皇の勅令により、出雲大社の創建なるや、杵築(大社)へ移住した。しかし、国造就任の印綬とも云ふべき神代ながらの神火相続(おひつぎ)式、並に新嘗祭を執行の為め、現在も当社に参向される。 従って大国主命の国譲も、出雲朝廷のもと国造として祭政を執った当社が古代出雲の神都、毎年十月には全国の八百万の神々が集ひ給ふ神在祭も行はれている。
 
本殿は民族祖先の独創になる日本最古の建築様式で天地根元造の形態を有する大社造として国宝(本殿。内殿。古代心の御柱の一部共)に指定され全国に現存する大社造としても最古(正平元年)のもので素朴雄大、本殿内は狩野山楽土佐光起の筆とも伝えられる大壁画九面にて囲まれ、天井の九重雲は(出雲大社は七重雲)日本建国の創業を物語る貴重な神話を伝う。
30日 豊楽寺薬師堂 高知県豊楽寺薬師堂は1952年、県内初の国宝指定された四国最古の建造物、平安時代後期の優美な建築様式。山腹には、大田寺・南大門・極楽寺等の堂塔伽藍が立ち並んでい。 だが、数々の天災にもかかわらず、奇跡的に薬師寺だけが現存。寺伝によれば、724年聖武天皇の勅願所として行基が開創し行基が自ら刻んだ薬師・釈迦仏を安置した。
31日 投入堂

鳥取県三朝
三徳山(みとくさん)はラジウム温泉で有名な鳥取県三朝(みささ)町。標高は900mで、山全体が国の史跡名勝に指定。慶雲3(西暦706)年に役小角(えんのおづぬ)が開山して以来、修験道の行場の神秘の山。麓から山腹に広がる天台宗の古刹、三佛寺は、山岳仏教の霊場として平安から鎌倉時代にかけて栄華を極め、今も多くの山岳寺院建築が残っている。 中でも標高470mにある投入堂(なげいれどう)は、断崖絶壁の岩窟にはめ込まれたように建てられた平安時代の古建築(山陰地方唯一)で、国宝。その昔、役小角が法力で投げ入れて造ったという伝説がその名の由来です。