万葉集 地域別 H  10

平成18 10月

 1日 (いは)国山(くにやま) 周防(すは)にある 磐国山を 越えむ日は 手向(たむけ)よくせよ 荒しその道 山口の若麻呂 巻4-567
周防は山口県東部の国名、今の岩国山でなく、欽明路峠をさすと言われる。古代は難所であったのだろう。旅人は峠の神に手厚い手向けをしなければならない気持ちとなる。筑紫路唯一の陸路である
 2日 角島(つのしま)迫門(せと) 角島(つのしま)の 迫門(せと)()海藻(かめ)は 人の(むた) 荒かりしかど わが(むた)和海藻(にきめ) 作者未詳 巻16-3871
角島は日本海、本土との間の海峡が角島の迫門で海士が瀬戸と呼ばれる。岩礁が多い、日本海流に加えて急潮の波浪荒い。「角島の瀬戸のワカメはほかの人には荒っぽかったが、私には柔らかい海藻だよ。海藻に寄せて女との恋情を歌ったもの。あの女は人には靡かないが俺にはなびく」と単純明快、みんなに通じる想いの律動化。
 3日 筑紫道―瀬戸内 大和から九州は筑紫への航路、今では想像出来ないが瀬戸内海の航路も古代では、一ヶ月、風雨激しければ四十日かかったと言われる。まして大陸への遣唐使、遣新羅使には命懸けの航路であったろう。 それでも瀬戸内には、海人の藻刈り、清き白浜、白砂青松、しきる白波があり、望郷・旅愁さえも安定感のある楽しさも見られる歌も多い。
 4日

四国

さみねの島

讃岐(さぬき)()峯島(みねしま)に、石の中の(みまか)れる人を視て、柿本朝臣人麻呂の作る歌

玉藻(たまも)よし 讃岐の国は 国柄(くにから)か 見れども()かぬ 神柄(かむから)か ここだ(たふと)は 天地(あめつち) 日月とともに ()りゆかむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 中の水門(みなと)ゆ 船()けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居(くもい)に吹くに 沖見れば とい浪立ち ()見れば 

白浪さわく (いさ)()取り 海を(かしこ)み 行く船の(かじ)引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭峯(さみね)の島の 荒磯面(ありそも)に (いほ)りて見れば 浪の()の 繁き浜辺を 敷栲(しきたえ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に (ころ)()す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ ()しき妻らは 
2220
 5日 大意

讃岐の国は国柄のせいか見ても飽きない。土地の神様のせいか大変貴い。天地日月と共に満ち足りてゆく神様のお顔として受け継いで来た中の水門から、船を浮かべて私が漕いでくると、時つ風が大空に吹くので、沖を見るとうねり来る浪が立ち、岸を見ると白浪が騒いでいる。海を恐ろしく思って、行く船の艪を引きたわめて、さてあちこちの島

は多いけど、名の素晴らしい狭峯の島の荒磯辺に仮庵を作って見ると、浪の音のしきりな浜辺を枕にして、荒い床にひとりねている君があるが、その君の家を知っていたらば行っても知らせよう。妻が知っていたらぎ来ても尋ねるだろうに。ここに来る道さえ知らずに、不安な気持ちで帰りを待ち恋うていることだろう。いとしいその妻は。
 6日 説明

丸亀市の中津付近から出船すると、時つ風(時を定めて吹く風)による風波の怖ろしさに狭峯の島(沙弥島)の磯辺に避難したら、そこの石中に死人あり慟哭敬弔を捧げた歌。

四国は、国生み神話に「この島は身一つにして(おも)四つあり、面ごとに名あり」(古事記)、讃岐を神の御面(みおも)と讃えている。
 7日 狭峯島 沙弥島、坂出市。東西3キロの浅瀬あり、退潮時には時つ風が吹く。この島の磯辺に仮りの泊をすると、岩床に永遠の眠りについている人あり、厳粛な命運に深い感動を訴えないではおられない。 遠く離れた家郷、孤島孤独の哀れさ、いつ我が身の上とならないとも限らない共感に裏づけられた慟哭と敬弔である。
 8日 さみねの島 反歌1.

妻もあらば ()みてたげまし 佐美(さみ)の山 野の()のうはぎ 過ぎにけらずや

もし妻でも側にいたらヨメナを採んで食べたであろうに。

柿本人麻呂 巻
2221

 9日 さみねの島 反歌2 沖つ波 来よる荒磯(ありそ)敷栲(しきたえ)の 枕と()きて 寝せる君かも

島の外側、恐ろしい沖から波の寄せる荒磯、永遠の眠りについた人への合掌で終わる、死者への挽歌である。
柿本人麻呂  2222

10日 いざはにの岡 ・・こごしかも 伊予の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざにわ)の 岡に立たして 歌思ひ 辞思(ことおも)はしし み湯の上の 樹群(こむら)を見れば (おみ)の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変わらず・・・

伊予(いよの)温泉()で詠んだ長歌、道後温泉である。伊佐(いざ)爾波(にわ)神社に参拝したことがある。臣の木とはモミの木。
山部赤人

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11日 熟田津(にぎたつ) 熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば (しお)もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

斉明天皇7年、661年、百済の要請を受けて新羅征討のため、女帝自身筑紫に向かう、湊で船の乗るべく月の出待ち、潮の具合も丁度よくなった、さあ、今こそは漕ぎ出そうよ」、この緊張感をもたらした八音の結句。額田王(ぬかたのおおきみ)18

九州
12日 香春(かはる) 豊国(とよくに)の 香春(かはる)吾家(わぎへ) (ひも)の児に いつがり居れば 香春(かはる)吾家(わぎへ)

抜気大首(ぬきけのおほびと)
91767

香春町は田川市、豊前国風土記によると、昔新羅の神がこの河原に住んでいたから香春の名があるという。紐の子は遊行女婦(うかれめ)か、香春は我が家だと、都の官人が異国の娘子の「紐の子」との熱い交情に歓喜の声をあげている歌。
13日 鏡山 河内王(かふちのおおきみ)豊前国鏡山(とよくにのみちのくちのかがみやま)に葬る時、手持(たもち)女王(おおきみ)の作る歌
(おほきみ)親魂(にきたま)逢へや 豊国(とよくに)の 鏡山(かがのみやま)を 宮と定むる

神功皇后が天神地祇を鎮めたという伝説の鏡山は香春から近い。大宰帥であった河内王は筑紫で没した。この地を王が睦まれたのかと、遠い異郷の山野に眠る人への切なさである。
3417

河内王

14日 大宰府(だざいふ)の地 (とほ)朝廷(みかど)である。古訓では「おほきみこともちのつかさ」と読むという。二日市の都府楼跡がある。 宣化元年536年、那の津の国(博多地方)に国防・貿易の大陸への前進基地として宮家(屯倉)が前身。
15日

わが(さかり) また変若(をち)めやも ほとほとに 寧楽(なら)(みやこ)を 見ずかなりなむ

着任早々妻を失い、60歳過ぎた家持、ほとんど二度と寧楽の都を見ないで終わるのだろうかと、わが壮年期への若返りを思わないではいられない。望郷の歌である。
大宰府
(だざいふ)

巻 3331 大伴家持

16日 大宰府(だざいふ) (あま)飛ぶや 鳥にもがもや 都まで 送り(まを)して 飛び帰るもの 70歳過ぎていた山上憶良、帰京する人に、空飛ぶ鳥だつたらお送り申して飛び帰ってくるものを、と望郷切ない思いの歌。
5876 山上憶良
17日 三笠の(もり) 思わぬを 思ふといはば 大野なる 三笠の(もり)の 神し知らさむ

大伴坂上(さかのうえの)郎女(いらつめ)に宛てた恋歌らしい。今でも三笠の森は現存するが小さいものだ。4561 大伴(おおともの)百代(ももよ)

18日 水城(みずき) 丈夫(ますらを)と 思へるわれや 水茎(みずくき)の 水城(みずき)の上に 涙(のご)はむ

水城は長堤、天平二年、旅人66歳、大納言となり上京いる時、親しんだ遊行女婦児(うかれめ)島があり、つつましいなかに堪えかねる真情の歌。妻を失った涙もろさに堂々たる男子と我が身を顧みながら娘子(をとめ)の純情には勝てない。
6968大伴旅人

19日 大野山 大野山(おほのやま) 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯(おきそ)の風に 霧立ち渡る

 

山上憶良の「挽歌」は大伴旅人の妻の死を悼んだもの。これもその一つ。嘆きの息(息嘯(おきそ))の風で霧が立ち渡るとは古代人には神秘的に思われたから。山霧の動きに深い悲愁を広がらせてゆくようである。
5799山上憶良

20日 梅花の宴 わが園に 梅の花散る ひさかたの (あめ)より雪の 流れ来るかも 老年、鄙に下り、妻を亡くした旅人、貴族名門の生い立ちに中国詩文の豊な教養をもとに賛酒歌を詠み、風雅浪漫の世界に遊ぶ貫禄。
5822 大伴旅人
21日 梅花 春されば まづ咲く宿の 梅の花 独り見つつや 春日暮さむ

旅人の官邸に集る人々は、山上憶良、小野老、紗弥満誓、大伴百代らの中央官人らと諸国の官人らの饗宴。
巻 
5818
山上憶良

22日 大宰府 (あま)ざかる (ひな)五年(いつとせ) 住ひつつ 都の風習(てぶり) 忘らえにけり

回廊に囲まれた(とほ)朝廷(みかど)の大きさは遺跡でわかる。大伴の旅人の上京した天平二年、730年、126日、(ふみ)殿(どの)での送別の宴の憶良の私懐。すっかり田舎者になった、丈夫の激しい性格の憶良も、旅人との別れに、物欲しげな愚痴になり、そこに都を思う真情が表れる。
5880山上憶良

23日 観世音寺 しらぬひ 筑紫(つくし)の綿は いまだは()ねど 暖けく見

当時の筑紫は繭からとる綿の産地。平城から来た作者が異国の原産地のまわたの山を見て、そのふくよかさに感動したのであろう。
3336沙弥(さみ)満誓(まんせい)

24日 蘆城(あしき) 月夜(つくよ)よし 河音清(かおとさや)けし いざここに 行くも()かぬも 遊びて行かむ

蘆城(あしき)駅家があった、現在の()志岐(しき)、作者は防人司の次官。今夜はことに忘れ得ぬ月、忘れ得ぬ川音だ。4571
大伴四綱(よつな)

25日 岡のみなと 天霧(あまぎ)らひ 日方(ひかた)吹くらし 水茎(みずくき)の 岡の水門(みなと)に 波立ち渡る

古代から機械船のできる前までの要津、日方は風の名前、ここでは東風を言う。日頃静かな湊の水面にも白々と波の立っているそそけだつた景を見て、空を見上げ「日方が吹くのだろう」と歌う。
71231作者未詳

26日 (かね)の岬 ちはやぶる (かね)の岬を 過ぎぬとも われは忘れじ 志賀(しか)皇神(すめかみ)

福岡県宗像郡の鐘ノ岬のこと。玄界灘と響灘の境界、向かいの地ノ島との迫門は最大難所。波の恐ろしい金の岬を過ぎたとしてもわたつみ神の志賀海神社の海神のことは絶対忘れまい、航海者の総ての祈りであった。
71230―作者未詳

27日 名児山(なごやま) (おほ)(なむち) 少彦名(すくなひこな)の 神こそは 名づけ()めけめ 名のみを 名児山(なごやま)()ひて わが恋の 千重(ちへ)一重(ひとへ)も 慰めなくに

大伴旅人の異母妹、妻を亡くしていた旅人の家事手伝いで筑紫にきていたのか。国土創成の神、大国主命と少彦名の神は、なんといい名前をつけたのだろう。だのに名前ばかりナゴ山とつけて私の恋心の千分の一もナグさめてくれはしない。言葉の即興。
6-963大伴坂上(さかのうえの)郎女(いらつめ)

28日 志賀のあま 志賀(しか)海人(あま)の 火気(けぶり)焼き立てて 焼く塩の 辛き恋をも われはするかも

博多湾口の志賀島、金印の出土した島。海人族の根拠地、その長の安曇氏の一統を祭るのが志賀海神社、志賀(しか)皇神(すめがみ)、製塩と漁業が盛んであった。12742作者未詳

29日 大浦田沼 荒雄(あらを)らが 行きにし日より 志賀の海人の 大浦田(おおうらた)()は さぶしくもあるか

志賀の荒雄は大宰府の命令で対馬へ糧を送るため出船したまま暴風雨で消息を絶つ。残された妻子への憶良の歌。

163863山上憶良

30日 也良(やら)の崎 沖つ鳥 鴨とふ船の (かえ)()ば 也良(やら)崎守(さきもり) 早く告げこそ

沖つ鳥は枕詞、荒雄の妻にとり、帰ってくるような、帰らぬような、鴨丸という船が帰って来たら也良の崎の防人よ、真っ先に知らせてくれよ、と妻の声。也良の崎は現在の残島の北端荒崎。
163866山上憶良

31日 荒津の崎

(かむ)さぶる 荒津(あらつ)の崎に 寄する波 ()無くや妹に 恋ひ渡りなむ

遣新羅使人の一行の一人、海辺で月を望み、絶え間ない波にかけて絶え間のない遠い妻への慕情の歌。 
()
(にしの)稲足(いなたり)

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