無・武士道に生きる日本人になりきれ

鎌倉・報国寺の住職であった、菅原義道が昭和40年代のものだが、「日本人になりきれ・武士道に生きる・無」というのをものしている。徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

平成18 10月

 1日 日本人に帰れ

私の寺は「功臣山・報国建忠禅寺」といかにも軍国主義の名前であるから、時々も人様より「こちらさんは、大東亜戦争中に建立されたのですか」と言われるが、決してそうではない。この寺は鎌倉時代に足利尊氏の祖父・家時を開基として建立されたものである。

そしてその寺に、私は今から三十年前(昭和12)に住職したのである。太平洋戦争中、航空兵軍曹として陸軍軽爆隊の機付長となり、時には爆撃にも参加し、4年近い従軍生活をして軍人恩給まで貰っている私が、こういう勇ましい名前の寺に住職したということも、また不思議な因縁だと思う。
 2日

そして私が一帰還兵士とし綴った本が時の報道陣の眼にとまり、軍報道部推薦図書となり土肥原賢二大将の題辞も頂いて何万部も出版され、またNHKから放送されたことも過去の遠い記憶となっている。そんな私ですら、国を思う気持ちは人一倍強い。

明治以来百年、欧米の文化、文物に追いつき追い越すことに大きな力を注いできた日本は大東亜戦争による一大異変はあったものの、戦後、米国の援助の下、日本人特有の勤勉性と相俟ってあの一面の焼け野原の中から、兎も角今日の復興と国民総生産自由世界第二位に位する経済躍進を成し遂げたのである。
 3日

然し、憂うべきは、我が国古来の国風は大かた消えうせ、真に誇るべきものも失われつつあることである。今日、次から次へと昔の物、習慣、美風、文化が破壊されて実用風、当世風のものばかりが優勢になりつつある。世界に誇るべき伝統が破壊され、国籍不明、よりどころのない、雑ばくな諸形式が実施されてきているのである。

また一面、不当にマスコミにのった華美、派手な行事が行われ「昭和元禄」などと称して悪風を流行させている。こんなまやかしはそう長く続くものではない。こうした軽薄浅薄な時世にあり、真の日本人として、もう一度目覚めなければ、日本文化そのものを消滅しかねない。日本人も滅亡しかねない。
 4日 日本人の原点に帰れ

今こそ、日本の美、精神の美を志向して、日本独特の本来の大和文化を新たに創りだすべき時であろう。それには、まず、心の統一、人間の在り方を根底から考え、心的充実をはかり、子々孫々に残す文化創造の意欲を燃やすことが必要であろう。物的人間、物質中心の文明は究極において破滅する。そういう世界に永遠の静寂、平和は有り得ない。心眼を開き、心の声を聞き、一人静かに人間を考えるとき、そこから本当の静寂と日本の伝統文化の復興とが芽生えるのである。

無論私とて物質文明、機械文明を全面否定するものではない。だが、幾多の先人の解き明かした道を明らかにした時、初めてそれら文明が真に確立されるものである。現代人はまずそういう原点に一度立ち帰る必要がある。それが人間回復の第一歩である。余りにも精神を忘れ過ぎた物中心社会には花が咲けど実はない。そういう空虚な世界にどうして心の安らぎがあろうか。私はここに声を大にして叫びたい。「日本人の原点に帰れ」と。
 5日 使わぬ機関銃を磨け さて戦後の文化を語る時、戦後の新教育制度を抜きにしては論ずることはできない。私は、約15年にわたり、中学校・高等学校の教師をした経験があるので、戦後、中学校・高等学校がどういう教育方針で進んできたかも分かっているつもりりだ。あの敗戦直後の教科書には必ず、進駐軍司令部検閲済という判が押してあったことも記憶に新しい。 日本人が日本人を教育するのに使用する教科書を他国の者が検閲するのであるから、それがどんな矛盾と混乱の結果になるかは自ずと知れよう。戦後の民主主義国家建設という名のもとに極端に解放されていく日本民族の在り方、これらを講義してきたから、現代青年がどうゆう方向へ進んできたかということも、一応心得ているつもりだ。
 6日

およそ敗戦20数年間というものは、かって日本文化を否定するようなこと、過去をすべて悪と決め付けること、軍人の悪口を書くこと、などで本が売れた。軍人の非道悪行を宣伝しさえすれば、映画館は満員になったものである。あたかも日本の軍人というのは皆、道ならぬ山賊のかたまりか、海賊の集りのように罵られていた。然し、動あれば反動ありで、大東亜戦争の遂行者を裁いた極東軍事裁判とい

うものも、今日になってその真相が段々暴露されてきた。12人の裁判官の中でインドから選ばれてきたパル判事は、たつ一人、あらゆる迫害に耐えながら日本無罪論を唱えて「戦勝国に戦敗国を裁く権利なし」と、堂々と真理の声として発表したものである。今日になってそのパル判事の業績が讃えられ、彼の真理の書こそ本物であることが見直されてきた。だんだん「歴史」というものが、本当の審判をしてきつつある。
 7日

戦勝国が戦敗国を裁くという不当な報復裁判は、いずれ正しい眼で再評価される時がくるだろう。菅原道真の「心だにまことの道にかよいなば 祈らずとても神やまもらん」の歌の如く、大東亜戦争の当事者も、みな私心を捨てて、

身命を投げ打って国の為に正しいと信じて行動したに違いない。「まこと」の道を貫いたものと思う。自分が正しいと信じたら、まことの道と信じたら、それに向かって驀進することだ。
 8日

私は自衛隊の校外講師として10年以上もの間、禅の講義をしている。最近は自衛隊に関する風当たりが強く、隊員の住民登録拒否とか、隊員の大学転入拒否とか、甚だしいのは自衛隊の家のゴミは集めませんなどと言う馬鹿馬鹿

しいものまである。
こんな差別が堂々とまかり通っている日本である。なんの関係もない子供の入学を拒否し傷つけて何とも思わぬ人間もいるのかと、背筋が寒くなる思いがする。
 9日

春の自衛隊坐禅会の時もこのことに及んだが、私は彼等に「諸君は黙って機関銃を磨き通せ。タンクを磨き通せ。その機関銃は例え200年、300年でも、いな500年でも終生使わざる機関銃でもよい。

ひたすら磨き通せ。江戸、明治にかけて剣の師範であった山岡鉄舟はあれほどの剣士でありなながら一生のうち一度も白刃を以て人と対したことはなないという。
10日

使わざる銃を磨き通していくところに諸君の真生命がある。自分達が機関銃を磨いているるから日本が安全なのだ、という誇りをもつことだ。国民を守っている自衛隊員としての誇りを持て。

愛される自衛隊、そんなことは考えなくてよい。そんなことを考えるから行動が姑息になるのだ。愛されようと憎まれようと、俺がこの職にあることが日本の防衛であり、日本の治安維持なのだと思い込め。

11日

その官服を身にまとって堂々と街頭を闊歩せよ。英雄的風格を持て。こそこそと背広に着替えるような姑息なことは考えるな。改まった所へへは必ずその官服で出かけよ。また教養を高めよ。人から尊敬されるほどに人格を磨け、

等々私も力一杯激励した。毀誉褒貶は世の常である。一々かかずりあって気にしていたらノイローゼになる。気にしないことだ。自分が誠の道と信じたらどこまでも突進むのだ。人生に勝つということはそういうこことだ。
12日 武士道に生きる

沈香もたかず屁もこかん男はダメ

私は沈香もたかず” ”屁もこかんというような小心翼々とした腑抜け男は、どうも虫が好かない。ぼんやりしているくらいなら、博打でもやれというのが私の師匠が教えてくれた言葉である。今日は小僧達なにをしている。ぼんやりしていないで野球でもしろと言ってガラス窓をボールで壊されてもニコニコしていたお師匠さんであった。

また、乞食になるくらいなら泥棒になれ、とも教えてくれた。本当に思いっきり生きていけということだ。ボケーと枯木みたいにつったっていないで、自から行動を起こし瞬間に生命を賭けて生きていけ、ということだ。これが禅の教えだし、鎌倉武士道を造りだした禅の道である。

13日

日本人には、思い込んだら命懸けでことにぶつかる、という体に染込んだ所謂武士道の習性がある。鎌倉八百年の武士道精神は、二十年や三十年で一朝一夕に消滅するものではない。日本人の血となり肉となってまだまだ脈々として流れ続けていると思う。
私は日本の本来の姿とは、そういう武士道の滲みこんだ何にも動じない、そして常に白

刃の下にいるような心境の人間のことではないかと思う。常に死と対決ししかもこれを超越し、従容としていつでも死につくことが出来るぐらいの心構えがなくては、人間、大事をなすことはできない。そういう心境は急にできるものではない。日々武士道の如くふだんの心構が必要である。この心境に至る道を教えるのが禅である。

14日

禅と武士道の奥にあるもの

私の住している報国寺は本名称を「相州鎌倉郡宅間ヶ谷 功臣山報国建忠禅寺」といい建武元年1334年、今から約640年前、足利氏によりこの名称を以って創建されたものであることは度々触れた・日本中に報国寺という名の寺は

私のところだけ一ヶ寺のみだそうだから私も意を強くしている。名は体を顕すというが、私この名に恥じず、国に報ゆるの心と、世界人類の繁栄を祈りつつ、禅僧としての努めに精励したいものと思っていいる。

15日

さらにこの寺の創建当時に遡れば栄西禅師道元禅師をはじめ当時の開山・仏乗禅師ほか幾多の高僧は万里波濤を越えて宋に渡って修禅勉学なされた。また大覚道隆禅師、無学祖元禅師等々各名僧

が宋国より渡来された。これら禅僧が鎌倉武士道を育てたか、鎌倉武士が禅僧を育てたか、いずれ相合して、サムライ気質を創りだしていったものであろう。
16日

身を鴻毛の軽きに置きて大義に殉じて行く姿、身命を賭して主君に忠義を尽くす姿は、この時代から鍛えられたことと思う。「武士は食わねど高楊枝」、「どろ水のんでも鯉は鯉」、「腐っても鯛」、

「炎天下を悠々と行く禅坊主」、これをやせ我慢だ、時代錯誤だと人は言うかも知れないが、私は物質的なものよりも、精神的なものに重きを置くこの構えが好きだ。
17日

江戸時代になり更に、この「サムライ気質」がはっきりしてきた。武士と禅僧と朱子学と陽明学が一体となり、日常の生活の中に咀嚼され「自分の責任職務において、あやまちありりと思った時は、礼儀廉恥を重んじて腹を切る」という構えも生まれてきた。
「君子は辱めを受ければ臣死す」の言葉より、主君の無念を晴らすべく、仇討ちという行為も現れてきた。「仇討ち

免許状」という世界に類のない証明書もあった。切腹と仇討ち、共に西洋にはない日本人だけのものであある。従ってこの行為だけ見て、野蛮だとか、封建的と思うのはおかしい。この行為の奥には、恥を知る、礼を知る、誠を知る、という実に精神的な美が隠されている。それは日本だけに特有な、日本人の血に脈々と流れる「美」とさえ言ってもよい。

18日 私心を無くす心 なんでもかんでも、西洋的功利主義で物を判断したら、とんでもないことになる。金が価値判断の尺度になる物質万能主義の世にあって、それらを超越して、いざとなれば己の命を投げ出してまで貫き通す、この日本人の血の中に生き続けている武士の心は、外国人にはやはり理解出来ない側面かもしれない。 「私心」なき心、相手の気持ちになりきって判断する心、禅で言えば「無」であろう。人間一生のうちでも何度か大きな決断を下さねばならない時がある。いつでも、その時、その時に応じて自己が孤独の中で、単独で判断を決していかねばならないこともある。
19日

あの東郷平八郎元帥がロシアのバルチック艦隊を丁字型戦型で破った時も、また旅順攻撃の乃木希典大将も、肉弾また肉弾で喧々囂々と非難を受けながら、それこそ己れ一人の固い信念を守り通した。

いずれも、人は孤独であり自己の判断一つで決断していかねばならない。成功したからいいものの、もしそれが失敗したらどうする、という迷いも当然起きるだろう。
20日

然し、人間がこれでよいと確信し,修練に修練を重ねた挙句、自己で決めた信念なら、雑音に惑わされることなく、これこそ天の声と思って動くことだ。これはやさしいようで難しい。

いつも誠を踏んでおれば間違いない、真心を持って進んでおれば間違いない、とは言っても、人間常に、もし誤ったらどうしよう、という恐れが心の片隅につきまとう。
21日

こんな時、私はいつも次ぎのような言葉を思い起こす。

「接物応機更に別法なし」。

これは、建長寺大覚道隆禅師の言葉であるが、物に接し、機に応じてもっとも適宜と思われる処置をしていくことが即仏道だ。即ち、これが悟りだという意味である。
22日

難しい。万機において判断を過たないことは、実に難しい。お互いにもつと修行しよう。

私心をなくして正しい判断、行動のできるよう一所懸命に修行しよう。人間が作り出したこの世の中、不可能などない。
23日 遮二無二やってみろ 無の体験の尊さ
禅の修行を重ねると「無」というものを体験できるという。在俗の人は「お前は禅宗僧侶であるからその道を選んだ。そのような環境にあつたから無の体験と取っ組んで無の心境を掴み得た」と言われるかもしれない。
然し、僧侶を問わずある年配になつたら、安らぎを求める気持ちが芽生えてくるであろう。そんな時、禅でいう無とは一体どんなことなのであろう、一体どんな心境なのだろう、自分にも体験できるだろうか、等種々な疑問をもつ人も多いと思う。
24日

そんな時、私は、年の老若、或いは精神年齢の多少を問わず、ともかく坐ってみなさい、と勧めることにしている。皆さんの中には、人生は金だと、金を掴むことが凡ての幸福のもとだと、遮二無二金を貯めることに専念している人もいるだろう。

人生は女だと思い、一所懸命に女のあとを追い回している人もいると思う。然し、きっとあるカベに行き着く時がくる。金を追ったのも女を追ったものも、ついぞ満たされるものもなく、果たしてこれで人生のすべてなのかしらと、疑問をもつことであろう。
25日

その時に一念発起したならば、また近くにそういう無を求める環境があったならば、体中でぶつかつて行くことだ。人の為し得たこと、あななただつてやれないことはない。やれないというのは元々やる気がないからだ。

また人生、順境にある時は、常に微笑みに満ちており、そういう安らぎを求める機会のない人も稀にはいる。しかし、人間いつまでも順風万帆ではない。いつまでもスターでいることはできない。いつかは挫折感にさいなまれるのが人生だ。
26日 無になりきれ その無の体験の必要性、それはその人、その人により深浅があることだろう。深く無を突っ込んで体得する人も、或いは浅くさらさらと、こんなものかと掴む人もあろう。それは刻苦光明、必ず盛大なり、体中で骨おった人はその骨おりの度合いに応じてその無のつかみ方もきっと深く掴むものだ。 私はどうも妄想が多くて、とてもそれにはなれない、ということはない。昔から仏僧が大地を打つ槌がはずれようとも、姿勢を正し、呼吸を調えて骨おって修行しておれば、そしい骨おって無に参じておれば、古人が至り得た心境になれぬということはない。
27日

釈迦もこの通りであった。達磨もこの通りであったろう。然し、釈迦もこの心境は知り得まい、達磨もこの心境は知り得まいと思うくらいまでの心境を掴むことは必要だ。

そうすれば、極楽往生の真っ只中を如来様が歩いているんだと、という心境にまでなれる。
28日

不思議なもので、今まで何の気なしに見ていた紅葉の一葉が、遮二無二我ら呼びかけているかの如く美しく見える。

そして苦悩に満ちた人の顔を見る時、その人が背負っている妄想の多さ、いらない荷物を沢山しょって歩いている人の愚かさなど、分かるような気がする。
29日

前にも書いたように、かって私は兄弟子に言われた。「お前は、泥棒猫のように人の顔色を見て動いておる」

やはり兄弟子は兄弟子なりに、私より一歩先に無を掴んでいたわけだ。
30日

だから妄想の多い苦悩の世界にいる私を見て、思わず慈悲のあまりに叱咤激励する言葉が生まれたのだと思う。

あの色は匂へど散りぬるを我が世誰そ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせずのいろは歌の如く、有為転変の世の中、それを一切踏破して、無為の心境になる、無漏の心境になる。
31日

般若心経の中の、不生(ふしょう)不滅(ふめつ)不増(ふぞう)不減(ふげん)不垢(ふうくう)不浄(ふじょう)無けい礙故(むけいげこ)無けい礙故(むけいげこ)無けい礙故(むけいげこ)、という心境に至る無。

もっと突っ込んでいくと、そこには特別善行を成そう、いいことをしようという気持ちさえなくなってくる。そうなれば本物だ。