徳永圀典の「日本歴史」 10月 神話・日本語の確立

 1日 ()調(ちょう)(よう)

税は田の面積に応じた租(収穫の約3lの稲)が先ずある。これは地方の財政をまかなう。次に調・庸がある。調は絹・布・糸・綿・海産物などを、庸は労働の義務であった。庸は実際に労働する代りに一

定量の布地を朝廷に納める義務である。他に雑徭という60日を限度に地方で労働する義務もあった。また都の警備、北九州の海辺を守る兵役の義務もあった。農民にはかなりの負担であった。
 2日 地方の民

東北地方には蝦夷(えみし)、九州南部には熊襲(くまそ)、或いは隼人(はやと)がいて大和朝廷に服従しなかった。

律令国家が進展するにつれて北も南も平定され琉球列島最南端の信覚(しがく)(石垣島)球美(くみ)(久米島)の人々も早くも8世紀初頭に平城京を訪れ朝貢した。
 3日 律令政治 中央役人が国司として地方に派遣され、そのもとに地方豪族が郡司として起用され政治を行う。 奈良時代の日本の人口は約600万人、平城京の人口は約10万人、官僚が約1万人と言われた。貴族は200人程度である。
 4日 ()同開珎(どうかいちん)の頃

708年、銀と銅銭。日本最初の貨幣。諸国から金銀銅が献上され唐に習い貨幣を発行するようになつた。

660年、百済滅亡、668年、高句麗滅亡。676年、新羅は唐と結び朝鮮半島統一。
 5日 墾田永年私財法 743年、聖武天皇の治世(724749)頃、疫病や天災が頻発、土地を離れ逃亡する農民も増加。仏教に頼り国家の安定を祈願し全国に国分寺、国分尼寺を建て東大寺大仏の詔勅を出す。 朝廷は開墾を奨励し、国家の統治の及ばない未墾地も規制するためこの法律を作る。開墾への人々の意欲をかき立て水田が拡大した。班田収受の法は次第に厳格に行われなくなってゆく。
 6日 日本語の確立 文字の無い社会であった日本、漢字に触れてから、自分達の言葉にこれを利用するまでに45世紀の長考・熟慮の工夫期間が必要であった。 7世紀末、藤原京の木簡(もっかん)に、イカやスズキを「伊加」や「須須支」と記した音仮名の例がある。日本語が中国の文字を音に利用したものである。
 7日 古事記・日本書紀 奈良時代に、これらは漢字を並べて書いたものだが、漢文ではないから勿論、中国人が読んでも意味は分からない。(古事記は序文だけが、純粋な漢文である。) 万葉集で、恋という語は、「古比」「古飛」「故非」「孤悲」などと記され、また衣は「乙呂母」「去呂毛」「許呂毛」「許呂母」と書かれている。万葉仮名と言われる音仮名の例である。
8日 事例研究 大伴家持の歌からの考察万葉集の大伴家持の歌から見る万葉仮名の事例である。
宇良宇(うらう)良介(らに) 照流(てれる)春日(はるひ)() 日婆理(ひばり)安我里(あがり) 情悲毛(こころかなしも) ()登里(とり)() 於母倍(おもへ)()
これは「うらうらに 照れる春日に 雲雀上り (こころ)悲しも 独りし思へば」であり漢字の音を利用している。
ここで明快なのは、日本語と中国語が全く別の言語であるということだ。日本語の音に応じた漢字の音を借りただけである。
 9日 平仮名誕生 平安時代になると万葉仮名の、くずした字が発展して、そこから平仮名が誕生したと言う。 こうして日本人は漢字の音を借りて日本語を表記する方法を確立したのである。
10日 平仮名の起源 平仮名は漢字の草書体から発生した、草書体それ自体は,中国の漢字のくずしのなかにあるが,それから「ひらがな」と呼ぶものを創り出したのは,日本人の創意であり,日本独特のもので,漢字文化圏でほかにみることはない。
平仮名が発生するために,万葉仮名の果たした役割の大きい。たとえば「安米能三多」(天下)の「安」の字をくずしてゆくと,「あ」の字にな
る。これが逆に万葉仮名がなく,安の字をくずしても1音の「ア」という発音が約束としてなかったら,安のくずし字を「あ」と読む共通理解は生じなかった。平仮名の発生は早く,平安時代の初期である。平仮名の発生は表現を容易にし,やがて平安朝の女流文学として開花することになり,文化史的にみれば,文盲率の歯止めの役割を担った。
11日

訓読みの登場

当時の日本人は中国の律令、仏教、儒教を学ぶために漢文の内容を読むことも大切であった。漢文は中国音で発音し、中国文の語順通りに読み書きする練習をして学べばよい筈だ。

―処が当時の日本人は、そうした学び方と他に、中国語の発音を無視し、語順を引っくりかえして日本語読みにする方式を編み出した。所謂、訓読みという読み方の発明である。

12日 日本人の深い決断の証し 古代日本人の知恵の深さと強い決断の結果、日本人は漢文の日本語読みを発明し、古代中国の古典を自らの精神文化の財産として取り込むことに成功したのである。 これは日本人としての主体性・アイデンティティを失うことを防いだ懸命な大事業である。中国の柵封国にならなくてすんだのである。
13日 片仮名 漢文を読む時、万葉仮名の画数を省略して、ふり仮名として使用したり、ヲコト点と呼ばれる記号を打ち、助詞を補って読んだ。 やがて、そこから片仮名が誕生してゆくのである。
14日 神話 どの民族にも、様々な神話や伝説がある。無いのは新しいか、人工的なイデオロギー国家であろう。古代人の民族の先祖の考え方にとどまらず、暮らしぶりを知る上で素直に読む必要のある重要な文化遺産である。 神話を否定する人々は,為にするイデオローグであり素直でない無機質の人間であると断定してよい。神話は民族の情緒として読んだらいいのである。神話のない国は感性に欠けるレベルの低い証拠。
15日 日本の神話 古事記と日本書紀、風土記、その他いくつかの民話ら残されている。 内容は、天地(あめつち)の初め、神々の出現、国土の興り、生と死の問題、光と闇、恋愛と闘争、建国の由来などの物語である。
16日 古事記1
イザナギの(みこと)とイザナミの命.
混沌から天と地が分かれ、天は高天原(たかまがはら)と呼ばれて多くの神々が現れ住まい始めた。イザナギとイザナミの命の男女の神が、天地に懸かった梯子に立ち、(あめ)沼矛(ぬぼこ)(うしお)にさし降ろして「こおろ、こおろ」とかき回して引き上げると その矛先(ほこさき)からしたたり落ちた潮水(しおみず)が積もり「おのころ島」が出来た。そこに降りたイザナギの命とイザナミの二神が性の交わりをして生まれた子が淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐島、対馬、佐渡が島、そして本州、八つの島なので「大八(おおや)島国(しまぐに)」と呼ぶ日本の誕生である。
17日 古事記2. イザナミの命は火の神を産んだために死ぬ。イザナギは亡き妻が忘れられず死者の住む黄泉(よみ)の国へ出かけた。そこで見たものはウジがたかり、体中に八種の雷神が座っている妻の姿。 その妻が黄泉の国の軍勢を繰り出して襲ってくる。イザナギの命は呪力(じゅりょく)がある桃の実を投げてて辛うじて逃げ帰った。
18日 天照大神とスサノオの命 イザナギの命が黄泉の国の(けが)れを日向(ひゅうが)阿波岐(あわき)の原で清める時、左の眼を洗うと、天照大神が生まれ、鼻を洗うとスサノオの命が生まれた。 天照は太陽の女神で皇室の先祖であり高天原を治める。嵐の神スサノオは、山が枯れ海が乾く程泣きわめくばかり。亡き母のいる()堅州国(かたすのくに)に行きたいと言いイザナギに追放された。
19日

天の(あまの)岩屋(いわや)

スサノオは天照を訪ねて行くが気性の荒いスサノオは神殿に糞をするわ、天照の神聖な機屋(はたや)に馬の皮を剥いで落とす。天照は恐れをなして天の岩屋に籠ってしまう。すると天地は真っ暗になり災いが起こった。そこで神々は策を考え、祭りを始め、常世(とこよ)の長鳴き鳥を鳴かす。

アメノウズメの命が乳房をかき出して踊り、腰の衣の紐を陰部まで押しさげた。八百万の神々は大笑いした。天照は不思議に思い、岩屋戸を少し開けた処をアメノタチカラオの神に引き出され、岩屋には注連縄(しめなわ)を張られてしまつたので、遂に世界に光が甦った。神々はスサノオを高天原から追放した。
20日 草薙(くさなぎ)(つるぎ)

スサノオが出雲の地に降ると、老夫婦が泣いている。八つの頭と八つの尾を持つ八岐(やまた)大蛇(おろち)が娘のクシナダヒメを食いに来るという。スサノオはその娘をクシに変えて髪にさし、濃い酒を八つの桶に入れて八つの門に分けて待つ。

現れた大蛇が八つの酒樽に頭を入れて飲み干し酔って寝入った頃、スサノオはズタズタに切り退治した。大蛇の尾から立派な太刀が出てきたのでスサノオはこれを天照大神に献上した。これが草薙の剣である。スサノオはクシナダヒメを妻にして大事にした。
21日 国譲り 天上の高天原には天照大神、地下の根の堅州国にはスサノオがいる。地上の葦原の中つ国は大国主命が治めていた。天照大神は、そこは本来は自分の子が治めるべき国であるとタケミカヅチの神を使いに送った。 タケミカヅチの神は海辺に十握(とつか)(つるぎ)を逆さまに突き立て、その剣先に胡座(あぐら)をかいて、大国主命に「国土を譲られるか」と交渉した。大国主命は「わが子に聞かねば」と言い、子は承諾したので、国譲りが実現した。
22日 天孫降臨 天照大神は孫のニニギの命を天上から下した。この時、八尺瓊(やさかに)勾玉(まがたま)八咫(やた)草薙(くさなぎ)(つるぎ)、の三種の神器(じんぎ)を携え、お供の神々と共に天空にたなびく雲を押し分け日向の高千穂の峰に降り立った。これを天孫(てんそん)降臨(こうりん)という。 ニニギの命の子に海幸彦(うみさちひこ)山幸彦(やまさちひこ)という神がいる。山幸彦の孫であるイワレヒコの命は45歳の冬、船団を仕立てて日向を出発、大八島(おおやしま)(日本)の中心である大和の地を目指し各地の豪族たちと戦いの火ぶたを切る。戦いの旅は苦闘につぐ苦闘であったが遂にこの地を平定し大和に橿原(かしはら)の宮を建てて初代天皇となった。これが古事記の伝える神話である。
23日 飛鳥文化 聖徳太子は仏教に深く帰依し世に広めた。また渡来文化を研究したが中心は仏教の教えである。十七条憲法にも仏教の考え方が取り入れられている。 太子の影響を受けて飛鳥時代に仏教を基礎とする新しい文化か起きた、これを飛鳥文化という。中国・朝鮮からの新しい文化を積極的に取り入れつつ日本人の美意識に合った建築や美術品を創った。
24日 法隆寺 聖徳太子の建てた寺だが、世界最古の木造建築、調和のとれた優美な姿の五重塔や金堂は、中国では見られない独特の配置で並んでいる。更に勝れた仏教彫刻も残され、金堂にある釈迦三尊像( (とり)仏師(ぶっし)作)、四天王像(山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)作)、夢殿の救世(ぐぜ)観音(かんのん)像などである。
25日 国宝の宝庫 法隆寺の百済観音像は神秘的な微笑をたたえた美しい像。工芸品では玉虫(たまむしの)厨子(ずし)、扉や台座には巧みに絵画的趣向が施されている。 金堂には素晴らしい壁画があったが戦後の火事で一部しか残存していない。
26日 奈良時代の歴史と文学概略 奈良時代になると律令政治の仕組みが整う。れは国家の自覚であり国の起こりや歴史を纏める動きが起きてくる。古事記が作られ、朝廷として日本書紀が完成した。風土記の編集も命じ各地の様子が記録された。 古事記は古代国家確立期に、民族の神話と歴史を探る試みであり文学的価値も高い。

日本書紀は国家の正史であり天皇の系譜と歴史を辿ったものである。
27日 万葉集の編纂 日本古来の和歌を集めた万葉集も朝廷の命により編集され、飛鳥時代から奈良時代の130年間に作られた4500余首の和歌が収められている。自然に親しみ、その情緒を詠んだ歌が多い。 和歌の作者は天皇から、農民、兵士に至る国民の幅広い層である。古代このような平等な国は世界にはない。柿本人麻呂、山上憶良、大伴家持などが有名。舒明天皇の「国見の歌」のように日本の美しさや国作りの様子が眼に浮かぶ歌もある。
28日 天平(てんぴょう)文化1. 奈良時代、仏教は朝廷の保護を受けて一層発展する。インドや中国から伝った仏教の理論を研究する僧たちは、平城京に東大寺、興福寺などの大規模寺院を建築した。 遣唐使を通じた唐文化を受け入れながら世界に誇りえる高い精神性を持つ仏教文化が花開いたのである。奈良の貴族たちを中心としたこの文化を、聖武天皇の頃の年号を取り天平文化と言う。
29日 世界最大の大仏 東大寺の大仏は銅で造られた世界最大の仏像である。大仏造立には国家を仏教で守る目的があり、まさに一大事業であった。仏師の国中連(くになかのむらじ)(きみ)麻呂(まろ)が指揮を取り完成した。

聖武上皇、光明皇太后の列席の中、インド人僧侶により盛大な開眼供養が営まれた。東大寺の法華堂、法隆寺の夢殿、唐招提寺などは天平を代表する建築物である。

30日 正倉院 校倉造で建てられた東大寺正倉院には聖武天皇、光明皇后の愛用品が多数収納されている。中に中国や西アジア、中央アジアなどと結びつく工芸品も多く、当時の国際色の豊かさを示す。 天平文化は日本の古典と呼ぶに相応しき写実だけでなく、明瞭で気高い美の表現に溢れている。奈良時代の仏教美術や、万葉集は長く後世の模範とされてきた。
31日 天平(てんぴょう)文化2.

既に画像で紹介したが、仏像彫刻では、少年の顔をした興福寺の阿修羅像、気品溢れる東大寺の日光・月光菩薩、きびしい面持ちの東大寺戒壇院の四天王像などの傑作が残されている。

それらの美しさは、ギリシャの古典彫刻に言われた「高貴なる単純さ、静かなる偉大さ」と言え、日本独自の感性の表現が見られる。