格言・箴言 10月「小学の読み直し」D
       失われた自己を取り戻す為に

       
小学は「人間生活の根本法則」

1.安岡教学は、活学であり、現代人間に欠けてしまった、生きる上での基本を実に分かり易く教えておられる。私の元に連絡の来る、若い人が意外と故安岡正篤先生の著作を読んでいるのに驚きと共に納得できるものを感じている。
現代人は、今こそ「小学」を学び直せと叫びたい。そこで安岡正篤先生の「小学の読み直し」を日々精力的に取り組みたいと決意した。          平成1871日 徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

平成18年10月

 1日 学問・芸術は功利の為にやるのではない 胡子(こし)曰く、今の儒者文芸を学び、仕進を(もと)むるの心を移して以て其の放心を収め、而て其の身を()くせば、則ち何ぞ古人に及ぶべからざらんや。 父兄は文芸を以て其の子弟に令し、朋友は仕進を以て相招く。往いて而て返らざれば則ち心始めより(すさ)んで而て治まらず。万事の成ること(みな)古先に(およ)ばず。
 2日

安岡正篤先生概説1.

胡氏は胡文定公の子供で、名は、号をごほうと申します。本文はその著「胡子知言」にあります。今の儒者は、今日の所謂学者・評論家といった連中は、思想表現の技術である文学や芸術を学ぶの にみなそれを名聞利達・出世の目的の為にやっている。そういう他に移しておる心を外に放っておる心を一度取り戻してそうして自分自身をよくしたならば、どうして古人に及ぶことが出来ないということがあろうか。
 3日 概説2. 処が、親達はそういう功利的手段に過ぎない知識・技術を以て、やれうまくなれと命令する。友達は名聞利達を以て派閥を作って相招く。所謂コネをつくるというようなことをやる。 そういうことばかりやっておって一向に反省しなければ心が初めから荒んで治まらないから万事成ることみな昔に及ばない。だんだん文明が逆に退化するというわけであります。これは千古変わらぬ原則であり真理であります。
 4日 概説3. ある有名な学者・評論家に「どうして君はソ連や中共の提灯持ちをやるのだ」と訊いたら、「その方が得だからね」と答えたということでありますが、これが実際の本音であろうと思う。そもそも日本の思想が混乱して来た原因は、勿論いろいろありますが、政策的・政治的に言って混乱の始まりは、前大戦直後の政友会内閣が党利党略をかねて旧制高校の増設をやつたことであります。 そのために、従来の八高校が二十余の高校に増加し、教員不足を中学校の教師を昇格させてこれに当てた。処がなんと言っても大戦後のこととて思想が極度に混乱して、懐疑的な思想や否定的な行動が流行する。又、そういうと著作が宣伝紹介される。そういう時ににわか教授達は、どうすればこの時勢に、若い学生達に受けるかというので、みんな便乗して盛んに否定的懐疑的な文学や評論を宣伝したのであります。こうして日本の高等教育機関の混乱が始まったと申して宜しい。今度の戦後も亦同じであります。
 5日 人間も植物と同じく剪定(せんてい)する必要がある 明道先生曰く道の明らかならざるは異端之を害すればなり。昔の害は近うして(すなは)ち知り易し。今の害は深うして而ち弁じ難し 昔の人を惑はすや其の迷暗に乗じ、今の人に入るは其の高明に因る。自ら之を神を窮め化を知ると謂ひて、而も以て物を開き努を成すに足らず。
 6日 人間も植物と同じく剪定(せんてい)する必要がある2. 周へん(しゅうへん)ならざるなしと()して、実は則ち倫理に外れ深を窮め微を極めて而も以て堯舜(ぎょうしゅん)の道に入るべからず。天下の学浅陋(せんろう)固滞(こたい)に非ずんば則ち必ず此れに入る。道の明らかならざるに()るなり。
邪誕(じゃたん)妖妄(ようもう)の説競ひ起こり、生民の耳目を塗り、天下を汚濁に溺らしむ。高才(こうさい)明智(めいち)と雖も見聞に(なづ)酔生(すいせい)夢死(むし)して自ら覚らざるなり。是れ皆正路(せいろ)蓁蕪(しんぶ)、聖門の蔽塞(ようさい)、之を(ひら)いて而る後以て道に入るべし。
 7日 安岡正篤先生概説1. 程明道先生曰く、「道の明かならさせるは異端之を害すればなり」、道の明らかにならないのは、つまり根本に対する異端邪説が害するからである。本筋から離れて行うか ら、これが害になる。その弊害も昔は近くて知りやすかったが、今は深くてなかなか弁じ難い、昔の世人は知識が余り発達しておらなかった為に無知である。
 8日 概説2. その無知に乗じて人を惑わす。今の知に惑の入りこむのは知識が発達してなんでもわかるために、その発達した知識につけこむ。自分自身は深いところを極め、造化の理を知っておるのだと思うて・・しかもその知性というものはどうかというと、開物成務、本当に物の秘めた性能を開発して、なさねばならぬ人間社会の大切な努めを完成してゆく役には立たない。
文章や議論等が行き届いておるようであって、実は人間同志の理念に外れ、そうして深を極め、微を極めて、堂々たる格好はするが、然も人間の本当の進歩向上を計る道にはいることかできない。およそ、世の中の学というものは、浅くて卑しく或いはかたくなな停滞しておるのでなければ、逆にこういう風に開物成務にはならないのである。浅くて卑しく或いは頑なに停滞しておるのでなければ、逆にこういう風に開物成務にはならないのである。これはとらねばならぬ本当の道が明らかではないからである。
 9日 概説3. そこで、よこしまな、でたらめな、或いは変なみだりがましい説が競い起こって、民衆の耳目を塗り潰し、天下を汚濁に溺らせるのである。高才明智のある人も見聞になづんで、酔生夢死して自から覚ろうとしない。
これ皆正しい路がいばらで荒れ阻まれ、神聖な門がふさがつてしまつておるからで、これを開いた後に、何が本当の智であり、道であるかということを明らかにし、然る後本当に人間を向上の道に進めて行くことができる。全くその通りであります。
10日 陶侃(とうかん)伝1.

陶侃(とうかん)広州の刺史(しし)となる。州に在って事無ければ(すなわ)ち朝に百甓(ひゃくへき)斉外(さいがい)に運び、(くれ)に斎内に運ぶ。人其の故に問ふ。答えて曰く、吾(まさ)に力を中原(ちゅうげん)に致さんとす。過爾(かじ)に優逸せば、恐らくは事に堪へざらんと。其の志を励まし力を勤むる皆此の類なり。

陶侃(とうかん)は陶淵明の曽祖父に当たる人で、本文は晋書列伝の陶侃(とうかん)伝にある。陶侃(とうかん)が今の広東地方の長官になった。毎日役所にあった、仕事が無ければ、朝、書斎に積んで在る瓦を外に運び、夕暮れに又それを内に運ぶ。人がそのわけを訊ねた処、答えて言うには、吾方に力を中原に致さんとす。丁度、南北朝の大動乱の始まる直前であります。今に本土が大動乱になれば、私は懸命に力を捧げねばならん。のらくらと好い加減にやっておったら恐らくはその任に耐えることが出来ないであろう。そのために今から身心を鍛え力を作っておくんだと。
11日

後に荊州(けいしゅう)の刺史となる。(かん)、性聡敏(そうびん)にして吏職(りしょく)に勤む。(きょう)にして而て禮に近づき、人倫を愛好し、終日膝を(おさ)めて()()す。こん外(こんがい)多事にして、千緒(せんちょ)万端なれど遺漏有る()遠近(えんきん)書疎(しょそ)手答せざる()し。

後、荊州(けいしゅう)の長官となる。荊州は揚子江中流の要害の地で、南北勢力の激突する一つの中心地であります。(かん)は性聡敏で官庁の職務に精励した。恭にして礼に近づき、人倫を愛好し、終日膝を揃えて坐っていた。当時は日本と同じ坐り方であります。役所の仕事以外に人間生活の用事が多く、それでいて、万端遺漏なく、親しい者や疎遠なものから来る手紙だと意見書だのには、一々答えるざることがなかったという。中々できないことであります。
12日

筆翰(ひっかん)流るる如く、未だ(かっ)壅滞(ようたい)せず。疎遠を引接(いんせつ)し、門に停客(ていきゃく)無し。常に人に語って曰く大禹(だいう)は聖人なるに(すなは)寸陰を惜めり。衆人に至っては当に分陰を惜むべし。()逸遊(いつゆう)荒酔(こうすい)すべけんや。

筆翰(ひっかん)は流るるが如く、未だかって停滞したことはなかった。疎遠なものでも引接し、門に停る客がんいくらいであった。常に人に語って言うには、、大禹(だいう)は聖人でありながら寸陰を惜しんだ。衆人に至ってはそれこそ分陰を惜しむべきである。どうして安逸を狎れ酒をくらつてばかりおってよかろうか。
13日

生きて時に益なく、死して後に聞ゆる無きは()れ自ら棄つるなりと。諸参(しょさん)佐譚(さたん)()を以て事を廃する者あれば、(すなは)ち命じて其の酒器蒲博(ほはく)の具を取って、悉く之を江に投じ、吏卒には則ち鞭朴(べんぼく)を加ふ。

生きてその時代に益なく、死んで後に名を聞えないは、自分自らこれを捨てるのである。諸々の補佐役でつまらぬ娯楽や遊戯をやつて仕事をしない者があると、命令して酒器や博奕(ぱくえき)道具を取り上げ、ことごとく揚子江にぶち込み、下役人や防衛関係の下っ端役人には鞭をふるってこれをぶった。
14日 朋友の道

曰く、樗蒲(ちょほ)牧猪奴(ぼくい)の戯のみ。老荘浮華(ふか)は先王の法言に非ず。行ふべからざるなり。君子は当に其の衣冠を正し、其の威儀を(をさ)むべし。何ぞ乱頭(らんとう)養望(ようぼう)して自ら(こう)(たつ)と謂う有らんやと。

そうして言うには、賭け事は豚飼いの道楽に過ぎない。老荘浮華は観念や文筆の遊戯で、見てくれはよいが、人間が法とするに足る正しい言葉ではない。行うべきではない。君子というものは必ず衣冠を正し、威儀を整えなければならない。頭髪を乱し、そういうことを以て洒落ておると思っておるような人間が、物に拘泥しない、人間が出来ておる、という道理があろうかと。
15日 朋友の道 司馬温(しばおん)(こう)(かつ)て言ふ、吾れ人に過ぐるもの無し。但だ平生(へいぜい)()す所、未だ嘗て人に対して言ふべからざるもの有らざるのみ。 自分は人に過ぐるものがない、平凡である。ただ平生行うところ、未だかって人に言うことの出来ないようなものが無いだけのことであると。これは然し偉大なことだ。
16日

劉忠定(りゅうてい)(おん)に見え、心を尽し己を行ふの(よう)、以て終身之を行ふべきものを問ふ。公曰く、其れ誠か。劉公問ふ、之を行ふ何をか先にす。公曰く、妄語せざるより始む。劉公初め甚だ之を()とす。退いて而て自ら日に行ふ所と(つね)の言ふ所とをいんかつするに及んで、

自ら相掣肘(あいせいちゅう)矛盾するもの多し。力行(りっこう)すること七年にして而る後成る。此れより言行一致、表裏相(ひょうりあい)応じ、事に遇うて坦然(たんぜん)常に余裕有り。

丹書は今日伝わっておりません。周の武王。位について、太公望(たいこうぼう)に皇帝の道を尋ねたところ、

丹書に曰くと言って説明したということであります。

17日 曲禮(きょくれい)

曲禮に曰く、敬せざること(なか)れ。儼若(げんじゃく)として思ひ、()を安定し、民を安んぜんかな。(おごり)は長ずべからず。欲は(ほしいまま)にすべからず。志は満たすべからず。楽は極むべからず。賢者は狎れて而て之を敬し、畏れて而も之を愛し、愛して而も其の悪を知り、憎みて而も其の善を知り積みて而も能く散じ、安に安んじて而も能く還る。

浅はかな人は、こんなことを一々苦にしておれば何も出来ないというが、それは大きな間違いであります。財に臨みて()(とく)する母れ。難に臨んで苟免(くめん)する母れ。(あらそ)うて勝を求むる母れ。分ちて多を求むる母れ。疑はしき事は(さだ)むる母れ。(なお)くして而て有する母れと。

曲禮は禮記中の一篇。

18日 怒り 君子に九恩あり。視には明らかならんことを思ふ。聴には聡ならんことを思ふ。色には温ならんことを思ふ。(かたち)には恭ならんことを思ふ。言には忠ならんことを思ふ。事には敬ならんことを思ふ。疑には問はんことを思う。忿(いかり)には難を思ふ。得を見ては義を思ふ。(論語) 世界最初の医書と言われる「素問」の第一章には、聖人は瞋恚の心なしと言っている。近代アメリカ医学は、人間の感情と汗や呼吸との関係を調べて、怒りがもっとも毒素を出すことを照明している。その毒素の注射をしたモルモットは頓死したという。
癌に罹る人に怒りっぽい人が多いそうであります。従って、「おんにこにこ、腹たつまいぞや、そわか」が一番良いのであります。然し、余り好からぬと人間はだれる。私情はいけないが公憤は良い。それよりも自分の不肖に対する怒りは大いに発したいものであります。
19日 圭角 伊川先生曰く、近世浅薄(せんぱく)相歓(そうかん)(こう)するを以て(あい)(くみ)すと為し、圭角(けいかく)無きを以て相歓愛すると為す。()くの如きもの(なん)ぞ能く久しからん。若し久しきを要せば、(すべか)らく是れ恭敬(きょうけい)なるべし。君臣朋友皆当に敬を以て主と為すべきなり。 要は、久しくありたいならの希望の意。程朱の学は、道徳学的に見てカントの哲学に相通ずるものがあります。よく、私は圭角がありますと申しますが、圭とは玉ということで、人を論ずるのに、あれは圭角があるというのはよいが、己を論ずるのに、私は圭角がある、と自分を玉にするのはとんでもないことであります。
20日 終を慎む

官は(かん)成るに怠り、病は小癒(しょうゆ)に加はり、禍は懈惰(かいだ)に生じ、孝は妻子に衰ふ。此の四者を察して、終を慎むこと(はじめ)の如くせよ。詩に曰く、初め有らざる()し。()く終り有る()しと。

官と宦は大体同じ意味でありますが、強いて区別する時には、官は一般的総称、宦は人間を主として具体的に用いる。文字本来から言えば、役所の中に書類等の山積しておるのが官、宦は臣下が官庁の中におる文字であります。出世するに従って役人は怠けてくる。病気は少し治ってきた時に気が緩みも不養生をして悪くなる。禍は怠けるところから生じて来る。親孝行は女房子供を持つ頃から衰えてくる。誠にその通りであります。だから詩経にも「初め有らざる靡し。克く終り有る鮮し」と云うてある。
21日 人間そのもの (げん)忠信(ちゅうしん)(ぎょう)篤敬(とっつけい)ならば、蛮貊(ばんばく)(くに)と雖も行はれん。言・忠信ならず、行・篤敬ならずんば、州里(しゅうり)と雖も行はれんや。 民衆の程度の低いところへ行けば直ぐ分かる。如何に文章が上手でも、なんにもならない。人間そのものでなければ通じない。
22日 文会(ぶんかい)輔仁(ほじん) 曾子(そうし)曰く、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を(たす)く。(論語・先進篇) 古来、教養ある階層に普及した名言であります。文とは今日で言う教養であります。教養を以て友を集める。利を以て会するのではない。そうして友を以て仁を輔く。仁とは限りない我々の進歩向上を言う。文会(ぶんかい)輔仁(ほじん)、わが師友会もこれを以て旨としておるのであります。
23日 無限の意味を含んだ一文1. 孔子曰く、朋友は切々(せつせつ)偲々(しし)たり。兄弟は怡々(いい)たり。(論語・子路篇) 切々偲々は努力する形容詞。怡々(いい)は喜ぶ、楽しく愉快にすること。簡単でしかも無限の意味を含んだ一文である。善は人間の生命であるけれども、肉親の間柄で、兄弟は勿論父子の間でも、これを責めるということはよくないと孟子が論じております。
24日 無限の意味を含んだ一文2.

肉親はつながって一体でなければならん。離れるということは禍これより大なるはない。だから善と雖もこれを責めることはよくない。和やかに愛情の中にひたっておらねばならない。それが怡々(いい)であります。

然し、それだけでは人間はだらけてしまう。そこで切磋琢磨してお互いに磨きあう必要がある。それは肉親の間ではできない。よって師と友に託して教育して貰う。だから師弟とか朋友とかいうものは、お互いに磨きあうことが根本義であります。父子・兄弟と師友が相待って初めて円満な進歩個向上が得られるのであります。
25日 朋友 孟子曰く、善を責むるは朋友の道なり。 これは孟子の離婁篇にある語で、その前に父子の間で善を責め合うことはいけないと論じている。師弟の間も同じことで、善を責め合うにはやはり朋友が一番であります。何を言っても構わない。大いに論じ合ってお互いに磨く。怒るような人間は友とするに足りない。
26日 朋友2. 子貢・友を問ふ。孔子曰く、忠告して而て之を善導す。()かれざれば(すなは)ち止む。自ら(はずかし)むることと(なか)れ。

 

子貢が本当の友たるの道はなんでしょうかと尋ねた。すると孔子は、忠告してこれを善導する。しかし聞き容れられない時には一旦止めるがよい。無理強いすると反発するばかりで、却って自分を辱めることになると。相手が人間のことでありますから、いくらこちらをが正直に友誼を尽くしても、その善意が分からずにとんだ誤解を招いたり失敗することもある。余り無理をしないことが肝腎であります。
27日 益者(えきしゃ)三友 益者(えきしゃ)三友。損者(そんじゃ)三友。(ちょく)を友とし、(まこと)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは益なり。便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。 益になる三種類の友達と、徳を損ずる三種類の友達がある。正直な人を友とし、誠のある人を友とし、−諒は諒解の諒で、うん、もっともだとうなづける誠―見聞の広い人を友とする。自分の知らない色々の見聞に長じておって、珍しい話を聞かせてくれる友達は実に楽しいものであります。これが益者三友。
28日 損者(そんじゃ)三友 これと反対に所謂世慣れた人を友としー便辟(べんへき)は便利、利益本位、或いは抵抗のない安直なの意。辟はかたよる、或いは避に同じで、厄介なことは避けて、相槌をうつ、調子を合わせるの意。 気軽に調子合わせてゆく誠意や実意のないことを便辟(べんへき)というー又善であるけれども、ぐにゃぐにゃして事勿れ主義の人を友とし、調子を合わせて媚びる人を友とする。これは損者三友である。
29日 佞奸(ねいかん) 便佞(べんねい)の佞という字は、信と女をくっつけた佞と、仁に女を加えた佞と二通りありますが、従って元来は善の意味を持った文字であります。仁愛に富んだ信のある女の言葉は必ずやさしいものである。行届いて気持ちがよい。そこで信から出る行き届いた挨拶・言葉遣いを佞と言う。 それが出来ぬというので、つまりろくな挨拶もできぬという意味で、自分のことを不佞(ふねい)というのであります。処がだんだん意味が変わって来て、口先だけの信のないことを佞というようになり、佞奸(ねいかん)などと使われるのが普通になってしまつたわけであります。
30日 孔子曰く、(あん)平仲(へいちゅう)善く人と交る。久うして人之を敬す。 (あん)平仲(へいちゅう)は管仲・晏子と言って並び称される春秋時代の斉の名宰相であります。晏子の行蹟などを拾い集めた「晏子春秋」とう本がありますが、立派な書物で晏子の人柄がよく偲ばれるのであります。 その晏子を孔子が褒めて「久しうして人之を敬す」と言う。大抵は人と交わって久しうすると、人これを侮るものです。久敬という言葉がありまますが、年が経つにつれて敬意を払うようになつてこそ本物であります。
31日 恩讎(おんしゅう)分明(ぶんめい)

恩讎(おんしゅう)分明(ぶんめい)、此の四字は有道者(ゆうどうしゃ)の言に非ざるなり。好人(ここうじん)無しの三字は有徳者(ゆうとくしゃ)の言に非ざるなり。後生(ごせい)之を戒めよ。

恩と(しゅう)(あだ)を余りはっきりと分けるというようなことは、道を体得したものの言葉ではない。又、好人無し、ろくな奴はおらぬ、などというのは徳の有る人間の言うべき言葉ではない。終戦当時、進駐軍の顧問として日本に来た所謂進歩的文化人がありますが、「日本にはろくな奴はおらん、立派な人間は牢屋に入っておる人間だけだ」と言って徳田球一や志賀義雄等を解放した。つまり好人無しであります。もつともその為に公使として再び日本にやって来た時には、心ある日本の識者達から相当反対されて問題になつたのでありますが、こういうことを口に出す本人自身己に好人でないことがよく分かるのであります。