某氏著作より   徳永圀典書写

 

前章で「万葉集」を編纂した大伴家持のことを紹介しましたが、日本人が忘れてはならないのは、彼が
「海行かば」の作者であるということです。

  

(うみ)()かば 水漬く(みづく)(かばね) 

   (やま)()かば 草生す(くさむす)(かばね)

   大君(おおきみ)()にこそ()なめ

   かへり()はせじ

 

これは「万葉集」巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」

(陸奥(むつの)(くに)より(くがね)出せる詔書(しょうしょ)()ぐ歌)という長歌の一部ですが、昭和12年、1937年に(のぶ)(とき)(きよし)がメロディをつけた歌が、大東亜戦争中には広く愛唱されました。

ある時、ウエブで、昭和18年、1943年、の学徒出陣壮行会の際に、明治神宮外苑競技場で、みんながそれを一斉に歌う動画を見ました。粗い映像でしたが、その合唱の迫力と、崇高なメロディ、そしてそれを歌う当時の日本の若きエリートたちの想いに、心の底から圧倒され、感動を覚えました。自称リベラルの「根なし草」には理解不能でしょうが。

歌詞からすると、ちょっとエキセントリックだと感じる人もいるかもしれません。然し、これは、いわゆる軍国主義時代の日本が作った歌詞ではなく、1300年前に生きた大伴家持が詠んだ歌なのです。つけられたメロディも、荘厳で、透明な明るさと透明なもの悲しさを兼ね備え、日本的な滅びの美を匂わせつつ、とても雄大に響きます。

日本の軍人は、自らの生き方を桜に譬えます。美しく咲いて、パット散ろうじゃないかと。必要以上に「死」を意識するこの感覚は極めて日本的なものだと思います。日本人には昔から、戦う際には常に死を覚悟して戦うというも強烈な戦闘精神や自己犠牲の精神があるからでしょう。おそらく華々しく潔く散ってしまうことに「美意識」さえ見出しているのだと思います。

アメリカ人の考え方では、そこで散ってはダメなのです。「死んでは元も子もないではないか、何を言っているん!」と考える。軍隊がそんな歌を兵士に歌わせたら死ぬことを求めているのか、ふざけるな。勝つために戦うんであって、死ぬために戦うんじゃないだろう」ということになります。

逆に日本人がアメリカ的な軍歌ばかりを聞かされたら「なんだか単純で子供っぽい歌だなあ。現実はそんなものじゃない、もっと厳しいよ」などとシラケた感じがするのでしょうか。

そこが文化の違いかもしれません。

日本の文化には、前章で見てきたように、とてもやわらかで崇高なまでに美しい「美的な精神」がたくさんあります。勇ましさを求めるアメリカ文化と比べれば女性的といってもいいかもしれません。

然し、同時にその一方で、非常に気高く、敢闘精神に富み、一致団結し、自己犠牲をも(いと)わない「武の精神」もあります。

しかも、その「美の精神」と「武の精神」の両面を日本では「草莽(そうもう)の精神」を持った市井(しせい)の人々が兼ね備えてきたのです。

だいたい、先ほど紹介したように「天皇のためには死をも恐れぬ」という1000年以上前の「万葉集」の歌を、あれだけ崇高で美しいメロディに乗せて20世紀の戦争で国民が一丸となって愛唱する国なんて、アメリカ人からすると完全に理解を超えています。

しかも、そこには圧倒的な「美の精神」と「武の精神」、そして「草莽(そうもう)の精神」が調和しつつ屹立(きつりつ)しているのです。二度と敵に回したくない国ですよ。

最近の日本では、「武の精神」はあまり強調されませんが、然し、この三つの精神を見事に兼ね備えているところが日本文化の本当素晴らしさではないでしょうか。

 

        平成29年10月2

                 徳永圀典書写