仏教再考--「空海を考える」A  ---釈迦と空海の仏教の違い--


平成24年10月

1日 空海の考え 特徴としては、仏(本尊)の()と口と(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言う。弘法大師は、このあり方を仏が我に入り我が仏に入る、 という意味で「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼ぶ。弘法大師は顕教にはこの入我我入とも言うべき瞑想が欠けていると述べている。尤も平安時代後期から鎌倉時代にかけて登場する新仏教について、真言密教の教学や修法の影響を受けているので一概に顕教には瞑想が欠けているとは言えない。
2日 顕教との違い

真理そのものが

もう一つ顕教との違いは仏や菩薩についての理解である。顕教の仏や菩薩などは、悟りを開いたり悟りを求める「人」だが、密教の仏や菩薩は、宇宙(法界)の真理そのもの(法)である。これが素晴らしい。その「法」を身体的イメージとして表現するのが仏や菩薩なのである。密教の仏や菩薩たちを(ほっ)身仏(しんぶつ)と呼ぶのはその為だ。弘法大師はこの法身仏つまり法界の真理そのものが、

我々に直接真理の智慧を説くあり方を「(ほっ)(しん)説法(せっぽう)」と述べている。この智慧の説法を聞く時空が三密加持(入我我入)の境地である。その意味で、真言宗とは、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えている不可思議な力(加持力(かじりき))を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の智慧を悟り自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること即ち(利他(りた)(ぎょう))を考える実践的な教えである。理に適っている。
3日 理趣経

東大寺では毎朝の勤行で読経されているお経である。煩悩を否定しないのは、生命を与えられて人間にとって極めて妥当なものである。

煩悩は天与のものである、これを否定しては人間の生存価値はない。ここから出発しなくてはならないと真にそう思う。
4日

理趣経』は「金剛頂経」の第6会にあたるとされる密教の経典である。空海訳。主に真言宗各派で読誦される。
単に『理趣経』という場合は「大楽(たいら)金剛不空真実三摩耶(きかこうふこうしんじさんまや)(けい)

(大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なりとの仏の覚りの境地を説く経)、あるいは「般若波(はんにゃは)()()多理(たり)趣品(しゅぼん)」の略である。
5日 『理趣経』は、最初の序説と最後の流通(るつう)を除くと、17の章節で構成されている。

1.   大楽の法門 金剛薩?の章
2.   証悟の法門 大日如来の章
3.   降伏の法門 釈迦牟尼如来の章
4.   観照の法門 観自在菩薩の章
5.   富の法門  虚空蔵菩薩の章
6.   実働の法門 金剛拳菩薩の章
7.   字輪の法門 文珠師利菩薩の章
8.   入大輪の法門 纔発心転法輪菩薩の章
9.   供養の法門 虚空庫菩薩の章

10.忿怒の法門 摧一切魔菩薩の章
11.
普集の法門 普賢菩薩の章12.
有情加持の法門 外金剛部の諸天の章
13.諸母天の法門 七天母の章
14.三兄弟の法門 三高神の章
15.四姉妹の法門 四天女の章
16.各具の法門 四波羅蜜の大曼荼羅の章
17.深秘の法門 五種秘密三摩地の章

それぞれの章節には内容を端的に表した印契真言があり、真言僧は必要に応じてこの印明を修する。

6日

十七清浄句

真言密教では、「自性清浄」という思想が根本にある。これは天台宗の本覚思想と対比、また同一視されるが、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないというものである。 『理趣経』は、この自性清浄に基づき人間の営みが本来は清浄なものであると述べているのが特徴である。 特に最初の部分である大楽(たいらく)の法門においては、「十七清浄句」といわれる17の句偈が説かれている。
7日 十七清浄句 1.   妙適C淨句是菩薩位
-
男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
2.   慾箭C淨句是菩薩位
-
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
3.   觸C淨句是菩薩位
-
男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
4.   愛縛C淨句是菩薩位
-
異性を愛しかたく抱き合うのも清浄なる菩薩の境地である
5.   一切自在主C淨句是菩薩位
 
-
男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である

6.   見C淨句是菩薩位

-
欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
8日 十七清浄句 7.   適スC淨句是菩薩位
- 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
8.   愛C淨句是菩薩位
-
男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
9.   慢C淨句是菩薩位
-
自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
10.   莊嚴C淨句是菩薩位
-
ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である11.   意滋澤C淨句是菩薩位
-
思うにまかせて心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
9日 十七清浄句 12   光明C淨句是菩薩位 - 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
13.身樂C淨句是菩薩位 - 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
14.   色C淨句是菩薩位 - 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
15.   聲C淨句是菩薩位 - 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
16.   香C淨句是菩薩位
- この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
17.   味C淨句是菩薩位
- 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である

このように、十七清浄句では男女の性行為や人間の行為を大胆に肯定している。

10日 欲望を否定せず

仏教において顕教では男女の性行為はどちらかといえば否定される。これに対し『理趣経』では上記のように欲望を完全否定していない。「男女の交歓を肯定する経典」などと色眼鏡的な見方で

この経典を語られることもあるが、真言密教の自性清浄を端的に表した句偈であり、人間の行動や考え、営み自体は本来は不浄なものではないと述べていることがその肝要である。
11日 厳しい規則

衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切

十七清浄句は欲望の単なる肯定であると誤解されたり、また欲望肯定(或は男女性交)=即身成仏であると誤解されたりする向きも多い。 ちなみに、『理趣経』を使った『理趣経法』は、四度加行を実践して前行をしてからでないと伝授してはならないという厳しい規則がある。また『理趣経』の最後の十七段目は「百字の偈」と呼ばれ、一番中心となっている。

真言僧は大欲(たいよく)を持ち、衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切であると説き、清浄な気持ちで汚泥に染まらず、大欲を持って衆生の利益を願うのが真言僧の務めであると説かれている。このような思想は両部の大法の一である『大日経』の「受方便学処品」にも見られる。
結語 空海の思想は大自然の理法に適ついると信ずる。         岫雲斎圀典 一応、ここらで空海に関して終りとする。