国家とは何ぞや 

「多元的国家論と階級国家論」というものをあげておきましたが、これもお話を致しますと、それだけで何時間も必要とする大きな問題ですが、簡単に申しますと、国家とは何ぞや、ということに関しては、従来から一般の知識人は疑惑のない一つの国家観を持っておりました。これは一元的国家論というものでありまして、その国の成立、歴史、文化、民族というものに基づき、国家というものは民族がつくる、 

つまり自然発生的に生成発展したものであるという考え方であります。これに対して、国家というものは、ちょうど我々が家庭をつくったり社会をつくったりするのと同様に、必要のもとに人間がつくった組織の中で最も代表的に発達したものであるというように、他の契約や、組織の団体と同質のものであるとみる、これが多元的国家論です。 

その最も深刻な癖のある考え方が階級国家論であります。

人間には階級があって、例えばプロレタリア、ブルジョア等に別けますが、その中で色々の特権を持った支配階級が自分達に都合の好いように作り上げた権力支配機関を国家だという考え方、これが階級国家論であります。 

現在でも、国家とか、政府というものに対して階級感情、階級意識をもってこれを否定しておるのが共産党であります。 

従って、彼らは君主はもとより、天皇まで国民と対立する存在であるとして、これを打倒し、これを廃止しなければ国家の進歩、人民の勝利はないと考えておる。 

そして大衆に着眼して、それは結局大衆の世論、動向であるとして、戦後、一時大衆社会ということが喧しく言われ、選挙も大衆の投票,社会も大衆の組織という論が非常に普及致しました。 

人類の運命を決する問題

これに対して、スペインのオルテガは次のように述べております。 

「大衆というものは、心理学、社会学の上から言っても、見識だの、信念だの、道義だの、というものが無い雑然たる多数であるから、どうしても堕落する。

そこで、大衆を放任すると、欲望が先に立って生活が煩瑣になり、混乱して、文明も廃頽・堕落する。 

この文明と社会生活。人間生活の混乱、即ち枝葉末節の混乱をいかに剪定して、これらを簡素化し、根元に復帰させるか、ということが文明と人類の運命を決する問題である。」。 

これは私達が東洋の易の哲学を通じてよく解説致します通りの原理に基づいて、近代社会の誤れる僻論というものを正しておるわけであります。 

人間としての本に反る必要

いずれにしても、このまま推移いたしますと、どうしても大衆が放縦、混乱、闘争に走り、人間社会は野蛮へ後退してしまって、遂には忌むべき破壊革命が始まります。 

そこで結論を申しますと、呉子にあるように、人間としての本に反り、始に復って事を行い、功を立てるには矢張り義というものを正さなければ、この世界は救われないということであります。その意味に於いて呉子の論は、真理に古今も東西も無いということを立派に証明する議論であると言うことが出来ます。 

         安岡正篤先生の言葉