来日外国人見聞による日本文化の歴史的検証 徳永圀典

東洋文庫という東洋学の専門的文庫があります、世界的にも有名な研究所です。

イザベラ・バードと言う名前を聞かれたことがあると思います。イギリスの女性旅行家です。

 

イザベラバードの文庫本の思い出です。

19世紀末、日本、朝鮮、中国を旅行し詳細な記録を残したイギリスの婦人です。少しく紹介しましょう。彼女は、アジア、アフリカなど人跡未踏の各地を精力的に歩いています。

1878年ですから明治11年、東京を出発、日光、新潟から北海道の北日本を旅行しました。「日本奥地紀行」という文庫があります。神戸、京都、奈良も伊勢などの日本の原郷も訪れています。

 

1894年、明治27年には「李氏朝鮮」を訪問し釜山やソウルを見て回り「朝鮮とその近隣諸国」として刊行されています。

1895年、明治28年には上海から揚子江を遡り成都を往復しています。成都は中国本土のど真中です。

 

日本奥地紀行

日本奥地紀行によると、日本に上陸して最初に受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。奥地の奥州、北海道の旅でも、全く安全で、何らの心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも不作法な目にも合わず全く安全に旅行できる国はないと言っています。

こんな逸話も残している。彼女は馬で旅行しています。

「昨日のこと、革帯が一つ紛失していた。馬子は、それを探しに一里戻った。馬子にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、馬子は、旅の終わりまで無事に届けるのが私の責任だと言って、どうしてもお金を受け取らなかった」と。これが日本人なのですね。これ、バブル崩壊の時、日本人の金銭感覚というテーマで県の自治研修所で管理職向けに講義した時に使いまた。

 

こんな話も掲載されている。

「同行者は、私の夕食用に一羽の鶏を買ってきた。処が一時間後、それを絞め殺そうとした時、売り主が大変悲しげな顔をしてお金を返しにきた。彼女は、その鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びないと言う。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは、私は、直感的に、ここは人情の美しいところだと感じた」、その他に「子供を可愛がること、礼儀正しく勤勉であること」などが綴られています。涙が出てきますね現在と比べると。

 

朝鮮奥地紀行

のイザベラバードの見聞をご披露しましょう。

「朝鮮人は優れた知力を気前よく授けられている。スコットランドで言う判りが速いという資質と似ている。朝鮮人には天分があって、言語をとても速く習得し中国人や日本人より流暢に良い発音で外国語を話す、だが、朝鮮人には、猜疑心、狡猾、嘘を言う癖などの悪徳が見られ、人間同士の信頼感は薄い、女性は酷く劣悪な地位に置かれている」と記載している。

私は北京を見るまでは、ソウルを地球上で最も不潔な都市、また紹興―中国浙江省―の悪臭に出会うまでは最も悪臭の酷い都市と思っていた。大都市そして首都としては、みすぼらしさは名状できないほど酷い」と。「狭量、千篇一律(どれもこれも代わりばえがせず、面白みがないこと。)、自惚れ、横柄、肉体労働を蔑げすむ間違った自尊心、寛大な公共心や社会的信頼にとって有害な利己的個人主義、二千年来の慣習や伝統に対する奴隷的な行為と思考、狭い知的なものの見方、浅薄な道徳的感覚、女性を本質的に蔑む評価などが朝鮮教育制度の産物と思われる。

など厳しいものが残っている、この性癖は変わっておりませんね。

イザベラバードは、朝鮮における両班の横暴や役人の腐敗を問題視している。「両班は究極的に無能、その従者たちは金を払わずに住民を脅して鶏や卵を奪う」、「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」とまで述べています。

堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難極まりなかった」と書いています。

 

その上で、「朝鮮は内部の改革は不可能だから、外部から改革されなければいけない」感想を抱き、思い切って述べるとした上で、「朝鮮の状況は、日本かロシアの援助を得て次第に改善される運命がある」と自立不可能、他国にしか救えないと見抜いている、慧眼であります。 

 

中国奥地紀行

中国旅行記の「中国奥地紀行」を少しご紹介します。中国人は活力や能力は優れている一方、不潔、迷信深い、冷酷で他人の不幸に無関心だとしています。実際は、「辛災(しんさい)(らく)()」という諺が中国にありますように、「他人の不幸を喜ぶというのが心性。であります。

 

東洋文庫より中国人観をご披露しましょう。

「中国人は明敏だし、機敏であるが、保守的で何事についても直ぐに感化されるということがない。商売の才には舌を巻いてしまう。生まれながらの商人である」とか「多くの人々の無知さ加減は酷い。

 

「中国で仁が重んじられているという印象は日常生活からはさほど受けない。中国人の性格に関するこの国での一般的な見解は、冷酷、残忍、無慈悲、徹底して利己的であり、他人の不幸に対して無関心だ」、他人を何時間にもわたりジロジロ見ることに大人の異常な無神経さが見て取れた」とも記しています。

「中国の町のごろつき連中は、不作法で、野蛮で、下品で、横柄、自惚れが強く、卑劣、その無知さ加減は筆舌に尽くせない。そして表現することも信じることもできないような不潔さの下に暮らしている。その汚さと言ったら想像を絶する、その悪臭を表現できる言葉は存在しない。

そんな連中が、日本人を、何と「野蛮な小人」と呼ぶのであると驚いています。現代でも似たようなものです、これを夜郎自大と言う。

夜郎自大とは、自分の力量を知らずに、いばっている者の例えですね、「夜郎」は中国漢の時代の西南の地にあった未開部族の国の名。「自大」は自らいばり、尊大な態度をとることであります。

中国人には、自らの大変狭い世界に生きる保守的で順応性のある農民と、極めて国際的で成功を得ている華僑の二つが存在しています。中国人は明敏で機敏でもあるが、本質的には保守的で何事に就いても直ぐ感化されるということが無いと言われる。だが商才には舌を巻いてしまう、生まれながらの商売人であろうとバードは言ってます。

 

ミシェル・ルボンの「日本文明史論」

バリー大学の歴史学者、1893年明治26年、東京帝大の招聘教師、6年間滞在し帰国後の著書。

こんな事を書いています、

 

「三千年間、殆ど変化しないシナや、原始時代のままで外人の好奇心を誘う朝鮮と異なり、日本は、自発的に社会を不断に改め、進歩発展して一大国に成長した」と説いている。そして日本文明の特質は東西文明の融和だと言う。

ルボンは言う、

日本は、長久の神代を経て、上古にシナ文明を採用した、やがて奈良文化や平安文化に次いで、源平二氏が藤原氏を倒して、武断から文治、やがて封建社会になる。16世紀になって、ヨーロッパと交流が始まり、信長・秀吉の両英傑の後には日本第一の政治家である徳川家康が鎖国を行い200年余の平和を保った国。

アメリカの使節・黒船到来後、近代日本は1867年の明治維新で俄然勃興し、西欧の文化を輸入して中央集権制を敢行した。

古代日本が、シナの文物を模倣したように熱心に外来文化を取り入れた。と歴史学者らしくその記述は極めて正確なものです。

そこで、日本は、優美精粋でギリシャに例えており、シナから受け入れたものを融合させたのが日本文明だと論じています、これはトインビーという世界的歴史学者の文明観と似ています。

ルボンは、本当に日本をよく研究し、風習から社会、法律に至るまで幅広く観察が正しい。

日本の農業は古代エジプトと似ているが、非常に耕作が進んでおり、田圃はさなから庭園のようだと言っている。

工業もヨーロッパ人を驚嘆させる精巧さのものだと本質を喝破している。ジャパンはずーとクールなのです。クールは素晴らしいの語感です。

ルボンを続けます、

日本の労働者は常に自治、独立、自尊の生産者である。農民生活は、強制されることなく、互助精神に富む。赤貧の者は少なく、200年余年の鎖国にもかかわらず人民は多福であると説いています。

 

文学はすこぶる思想が豊富、西洋の作家に比べ奇抜なものが多い。和歌や小説、源氏物語も論じていますが、特に美術は「日本文明の核」だと語って「日本人は芸術の上では実に天才的だ」と驚嘆しています。

 

日本人は古代ギリシャ人のように稀有の性質を持っておりながら、不幸にして、自然を愛しながら自然を制覇することを遂に考慮しなかった。この点を除けば、日本人の素養はゆうにヨーロッパ人に拮抗する。

そして歴史家たるもの、文明世界の全てを知るなら「日本人の精神的素養を無視してはならない」と論じています。

日本人は「自然とともに生きる」「自然に生かされている」と、これ私の言う「日本の原理」です。

自然との共生、対する西洋は「自然開発」、「人間対自然」の関係をルボンは洞察しています。

ハインリッヒ・シュリーマン

19世紀半ば、清国と幕末の日本を旅行して記録を残しています。トロイ遺跡発見者です。

「シュリーマン旅行記・清と日本」があります。

当時の清に就いての観察記録を披露しましょう。

清国政府は自国の税務業務に外国人官吏を登用せざるを得なかったが、そうすると程なく税収が大幅に増え、それまでの自国役人の腐敗堕落が明らかになった。

「私はこれまで世界のあちこちで不潔な町を随分見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられる、町並みはぞっとする程、不潔、絶えず不快感に悩まされる」

「殆どどの通りにも、半ば或いは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷が出来ている・・」

現在でも官僚腐敗、大気汚染、水質汚染は中国の一大特徴であるが、シュリーマンが見たそのオゾマシサが現代同様であったことがわかる、民族性と習慣は変わらない。

シュリーマンは中国人気質に就いて次のように述べています。

「どうしても、しなければならない仕事以外、疲れることは一切しない。これがシナ人気質である」と。

これは言っておかなくてはならぬシナ人気質であるとその利己主義ぶりを書き留めています。

 

シュリーマンは上海から横浜に着いている、1865年、慶応元年61日。そして次のように述べています。

「これまで方々の国で、色々の旅行者に会ったが、彼らは、みんな感激しきった面持ちで日本に関して話してくれた。私は、予てからこの国を訪れてみたいと言う思いに身を焦がしていたのである」。

 

「船頭たちは私を埠頭の一つに下すと「テンポ―」と言いながら指を四本かざしてみせた。労賃として四天保銭――13スー、を請求したのである。これには大いに驚いた。それではギリギリの値ではないか。シナの船頭たちは少なくとも、この四倍をふっかけてきたし、だから私も彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ」。

といきなり中国本土とのカルチャーショックを受けている。

荷物検査の際にも、中国人官吏との違いについて驚いています。

「荷物検査を出来れば免除して欲しいものだと、日本の官吏二人にそれぞれ一分、25フランずつ出した。処がなんと彼らは自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ(日本男児)」と言い、これを拒んだ。日本男子たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、と言うのである」。

 

シュリーマンには警護の役人がついたが、その過剰警護ぶりに少々辟易しつつも、役人の精勤ぶりには驚嘆している。

「彼らに対する最大の侮辱は,たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら切腹を選ぶのである」。

 

町並みや人々の清潔さについても非常に感心している。

「家々の奥の方には必ず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木で、ふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう」。

「日本人が世界で一番に清潔な国民であることに異論の余地はない。どんなに貧しい人でも、日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」。

「大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾り立てたて中国の寺は、きわめて不潔で、しかも頽廃的だったから嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、鄙びたと言ってもいいほど簡素な風情ではあるか゜、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びをおぼえた」。

そして、日本の工芸品については、

「蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」と評し、

「教育はヨーロッパ文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では、女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と絶賛する。

 

エドワース・モース

モウスと言う名前より、大森貝塚というのを聞いたことがありませんか。日本最初に発見された大森貝塚は縄文土器が発見されています。1877年ですから明治10年です。アメリカ人の生物学者・人類学者です。ダーウィンの進化論を日本に伝えた学者。法隆寺の百済観音を発見したフェノロサはこのモースに影響を受けて来日しています。多くの著書を残しています。日本見聞録、日本の家庭とその周囲、瞥見・中国とその家庭、日本その日その日等。

 

モースの日本人観

「人々が正直である国にいることは実に気持がいい。私は決して札入れや、懐中時計の見張りをしようともしない。錠をかけぬ部屋の机の上に私は小銭を置いたままにする」

「日本人の子供や召使は・・触ってはならぬ物には決して手を触れぬ」、こそ泥は絶無ではないものの「盗まない」。

 

魏志倭人伝

日本人が盗まないということは魏志倭人伝にも記録があります。「不盗窃」という言葉が記録されている。

 

盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。

その風俗は、淫(みだら)でない。
婦人は、淫でない。妬忌(やきもち)もしない。

 

サビエル

1549年、室町時代の末期、日本に初めてキリスト教をもたらした宣教師。彼の言葉です。

「盗みの悪習を大変憎む」と記録しています。

戦国時代の宣教師たちは日本に魅了されています。それは記録にきちんと残っています。

 

フロイス

この人も有名な宣教師です、1532年、慶長2年に来日したポルトガル人です。日本史を残しています。

フロイスは日本の子供の聡明さに驚き、それは親の躾にあると見ています。彼は織田信長や戦国大名の生涯について記録しています。第一級の史料と言われる。

 

ロドリゴ

鎖国前の日本を見た貴重な資料を残したスペイン人。

日本には都市が多くて清潔、食料が豊かなこと、故郷を捨てて日本に住みたいと記録がある。

 

実は、孔子も日本に行きたいと言っています。

前漢書というのが日本の名の出る最初の文献。

それには、こうある、

「東夷の天性従順、三方の外に異なる。故に、孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな」です。

つまり「東夷は性格が従順であり、孔子は中国では道徳が行われないので、九夷(日本を指すと思われている)へ行きたいと述べていた、と言うのである。

これは論語にもあります。

子罕第九です。

「子、九夷に居らんと欲す」

「子、九夷に居らんことを欲す。或るひと曰く、(いや)し、

これを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋しきことかこれあらん。

現代語訳

先生が東方の未開蛮族の国・「九夷」に移住せんとされた。ある人が言う、文明のない賤しい所だか。先生は言われた、「君子が住めば文明や学問の教化が進む、文明の問題にはならない」。

 

公治長第五には

子曰く、道行われず、桴に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由なるか。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なし。

 

魏志倭人伝

「婦人淫せず、妬忌(とき)せず、盗窃(とうせつ)せず、諍訟(そうしょう)少なし」

 

シーボルトとケンペル

二人ともドイツ人、

ケンペルは五代将軍綱吉の頃に来日、ドイツ最大の旅行家。日本誌を書いている。東洋文庫にはケンペルの「江戸参府旅行日記」があります。

特徴は彼は日本語とチャイナ語に全く「類似性」が無いことに気付いた。そして「日本人とシナ人は別種」としていることです。

 

日本語は、確かに無数の語彙を取り入れて、音読みと訓読みにより自在な表現力を高めている。

だが、中国語と日本語は

1.  文法的に関連性が無い。

2.  発音も全く異なる。

ケンペルは目先の類似に惑わされずに日本語と中国語の本質の違いに気づいたのです。

 

また、ケンペルは日本人の高潔さを賛美しています。

美術工芸の面では、他の全ての国民を凌駕していると指摘しています。

日本の空間には「美」が溢れており、日本の旅館の「坪庭」の美しいこと、アジアの他のどの地方よりも、

日本の女性が美しく発育していると絶賛したのです。

 

シーボルト

有名な名前、西洋の知日派の第一人者ではないでしょうか。自然科学者として賞賛すべき業績を残していますが、キリスト教の過剰評価と仏教批判はヨーロッパ人の限界なのでしょうか。

 

ロシア人も日本に憧れていました、

ゴロウニンです。ロシアの艦長です。日本に開港を迫っています。彼は、国後島で捕虜になり徹底した取り調べをうけ、「日本人は世界で最も残忍な野蛮人」とまで考えていた。

だが次第に日本人を見る目が変わってくる。

日本俘虜実記を書いています。

「ヨーロッパ人が野蛮人と呼んでいる平和な住人―日本人たちの寛容さをつぶさに経験した陸岸は遥か遠方に遠ざかっていた・・・」と釈放された時に書いた。

「もし、この人口多く、聡明で抜け目ない、模倣の上手な、思慮深く勤勉で、どんなことでも出来る国民の上に、わがピョートル大帝ほどの偉大な王者が君臨すれば、日本が内蔵している能力と財宝によって、その王者は多年を要せずして、日本を全東洋に君臨する国家に仕上げるであろう」。