徳永圀典の「近現代史」平成2810月度

共産主義           

経済的不況の進行から満州事変後、無産党は国家社会主義へ傾斜、資本主義打倒の為に、赤松克麿らは国際的な領土再分割を綱領に掲げている。これは現代の視点から見れば白人の世界侵略を訴えておるものであり、世界の後進国、且つアジアの唯一の先進独立国、日本ならではの発想である。昭和8年獄中の共産党最高指導者、鍋山貞親は転向声明を出した。コミンテルンが既にソ連を擁護した一機関に過ぎない、君主廃止は日本に合わない観念的だとし、天皇を民族的統一の中心とした独自の一国共産主義を提起した。マルクス主義敗退と共に日本回帰が発生した。現今共産党の感覚は国際共産主義の残滓であろう。

統帥権              

法人としての国家が統治権の主体であり、天皇は憲法に従い統治権を行使する国家の最高機関であると美濃部達吉が主張した。天皇は統治権の主体であるとした軍部や国家主義者が美濃部を攻撃し政府に対して取り締まりを求めた。当時としては天皇は元首であり統治権の主体であろう。然しながら軍部が統帥権を意のままにし始めた為に日本国の進むべき道を誤らせたのである。軍部が既成事実を作り統帥権保持者である天皇の裁可を得つつ進まなかった事こそ敗戦の根源的巨悪であろう。立憲国家の元首に対しては内々の内奏によりいかようにでもなった筈である。

日華事変1. -蘆溝橋事件  

昭和12年、1937年北京郊外の蘆溝橋で、突如として日中両国軍が衝突した。近衛内閣は不拡大方針で一時停戦協定が成立した。7月末、政府は武力による事態打開と居留民保護のため内地の師団の動員令を下し、華北での両国紛争は拡大する。8月には日本軍海軍将校が殺害されたので戦火は上海に飛び火し日本は不拡大方針を放棄した。中国の蒋介石も総動員令を下し、共産軍も戦線に参加し、戦闘は宣戦布告ないまま戦線は中国全土に広がり全面戦争となった。近衛内閣は、早期停戦を模索しドイツを仲介国として交渉をしたが収拾不能であった。日本は中国内に日本と協力する新興政権を期待して「今後国民政府を相手にせず」の声明を発表し、早期停戦の望みは無くなった。

近衛総理は軍部を抑える為には内閣が強力な指導力が必要でその為の国家改造をと考えた。各方面から一身に期待を浴びた。昭和研究会は英国・米国と対立を回避しながら日本・満州・中国が互いに連携して経済発展すべきだとの、東亜共同体論の基本構想を持っていた。アジア人の共栄圏である。日本主導で中国とこれが出来ておれば白人に対抗できたのに、日本の敗戦まで迂回しなくてはならなかったのは日本だけの責任ではない。中国の偏狭な或いは国内不統一があり残念である。

昭和8年、満州問題は一応解決し日中は平穏であったのだ。然し関東軍は、この機会に華北を日本の影響下に置こうとして冀東防共自治政府を樹立した。中国の国民政府に抵抗していた現中国共産党は抗日救国運動を提唱、内戦を停止して抗日民族統一戦線の結成?第二次国共合作-した。日本は、ここで踏みとどまるべきであったが事の重要性を把握しなかった。痛恨の極みはやはり軍部の近眼視な政治判断の欠けた思い上がりであろう。

首都南京の陥落後、国民政府は奥地の重慶で英米の支援を受け抗戦した、日本軍の戦線は伸びきり戦争は長期化する。中国国民党の汪兆銘は重慶を脱出し日本の支援を受けた新政府樹立を宣言した。米国は一応中立を保っていたが近衛声明の、国民政府を相手にせず、に反発して蒋介石を支援し日米関係が悪化することとなる。米英を巻き込むこととなりアジアの隣人との深刻な戦いを招いたのだ。米英を敵とした事は世界的視野で勘案すれば国益上不利益なのは明白で現在でも政治経済面も同様である。世界の屋台骨を支える国々と争っては勝ち目はない。

国民精神総動員と国民徴用令  

昭和13年、支那事変が抜き差しならぬ泥沼の様相を帯びてきた。戦時体制が強化され遂に国家総動員法が制定された。これは戦時に於ける人的・物的資源の統制と運用は議会の承認なく行う事ができるものだ。電力国家管理法も同時にでき国策会社による電力管理も可能とし一直線に国家あげて戦時体制となる。そして遂に国民徴用令が昭和14年発令され国民を徴発して軍需工場に動員可能とした。昭和15年には砂糖・マッチなど切符制、16年には米穀配給制となる。

経済統制強化と日米通称条約廃棄    

日本は軍需物質の多くを海外に依存しており、とりわけアメリカへの依存度が高かった。然し、アメリカは昭和147月、日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。資材の入手は困難を極めた。アメリカを敵に回せば日本は困窮するのは自明であった。そのアメリカが中国の支援に回っているというのにである。知的全体的判断不能であり、既に、論理の必然の結果を見通しできる。精神主義だけの指導者であったのか、理解に苦しむものである。

ノモンハン事件

昭和13年、1938年、満州国の国境線をめぐりソ連との国境で張鼓峰事件、翌年にモンゴルとの国境でノモンハン事件が起きた。日ソは軍事衝突した。優勢なソ連の機械化部隊の前に関東軍は惨敗した。然し、これは軍部により国民に秘せられた。これを国民が知れば日本の国力、軍事そして対米物資問題と理性が働いていたと思われるが軍部の秘密主義と独断が、更に対米敗戦への道に進ませる事となって行く。

日独伊三国同盟

昭和157月、ドイツとの連携に消極的であった米内内閣が陸軍の圧力で倒閣し、次の近衛内閣で「大東亜共栄圏」構想を発表し9月には日独伊三国と同盟を締結した。同時期、米英の中国支援ルート分断の為にドイツに降伏したフランスと協定を結び日本軍の一部をフランス領インドネシア北部に進駐させた。こうして軍事戦線は拡大して行く。物資の補給をどうするツモリなのであろう。

日本指導部の非現実性     

日本はオランダ領東インドに対してアメリカの禁輸による戦略物資輸入の交渉したが不成立Aアメリカ、Bイギリス、Cチャイナ、Dオランダの諸国が共同して日本の南方、現在のアセアン諸国への進出を抑える形勢となる。時既に遅きに失しているが、これは明白に戦争の生命線である物資補強路のないことであり日本指導部の非現実性を糾弾したい。

当時の国際情勢

昭和164月、外相松岡洋右は独ソの友好関係を信頼して日ソ中立条約を結んだ。1939年ドイツはポーランドに侵攻、イギリス・フランスは直ちにドイツに宣戦布告、ここに第二次世界大戦が勃発した。ソ連もポーランドに侵入、ソ連は続いてバルト三国を併合フィンランドへも侵入したがイギリス。フランスはこれを黙認した。1940年、ドイツはパリ−陥落させた。遂にイタリアもドイツと提携参戦した。

昭和14年の陸軍阿部信行内閣、1月の米内内閣、いずれも大戦不介入の方針をとりアメリカとの協調を求めて交渉した。然し、ドイツの電撃的な成功は軍部に強い成功を与え東南アジアに進出せよとの主張が陸軍に起きた。アメリカは中国を支援し日本に強硬な姿勢であった。昭和15年、対日輸出の全面停止をほのめかしつつ日本に大きな譲歩を要求してきた。昭和167月御前会議では、軍部の強い要求により南方進出が決まり、情勢が有利に展開した場合にはソ連の攻撃へ移ることとした。

日米開戦1.       

第二次近衛内閣は中国大陸での事変解決に向けて日米交渉に取り組む。駐米大使野村吉三郎、日米交渉の障害は外相松岡洋右である。為にわざわざ内閣総辞職して松岡を排除した。第三次近衛内閣は日米交渉を本格化すると共に予定通り南部仏領インドシナに進駐した。アメリカはこれに対して在米日本人資産の凍結、石油などの主要物資の対日輸出禁止措置をとる。日本経済を圧迫し対外進出を抑制しようとしフィリピンには極東軍司令部を置きマッカーサーを総合司令長官とし対日対策をとる。

近衛総理はアメリカ大統領との直接会談で事態打開する事としこの旨をアメリカに伝達した。駐日大使グルーは近衛の熱意に打たれ、首脳会談の早期実現を本国政府に強く訴えたが会談は実現しなかった。アメリカは戦争開始を決断していたのである。この会談が実現しないのは巧妙でアメリカが戦争をする意思があると判定する。戦争は一方だけの理由ではない。敗戦して絞首刑にしたり人道に反する広島・長崎への原爆投下は民間人大量虐殺である。戦争犯罪は双方にあるのだ。戦争より原爆とか大空襲のほうが残酷で非人道的であろう。

首脳会談を拒否された日本、これは戦争以外の道はないことである。昭和1696日、御前会議で対米交渉がまとまらなければ10月下旬を目安として対米・英・オランダ戦の準備をする事が決定した。戦争以外の道は在り得ない。その後も交渉は進展せず、継続を主張した近衛と陸軍大臣東条英機が衝突し10月近衛内閣は総辞職した。そして東条内閣が実現した。

東条内閣は戦争準備を進めつつも外交交渉による対米戦回避の可能性を求めた。米国は1126日、国務長官のハルが覚え書を示した。ハルノートである。それには日本が中国・仏領インドシナから一切の軍隊を引き揚げる。重慶政府のみ中国の正統政府と認める、三国同盟を破棄するなど、要するに日本が満州事変以前の状態に戻る事の要求であった。日本政府はこれが事実上の最後通告と認定した。日米両国の資源と生産力に巨大な格差があるのを承知して遂に開戦に府踏み切った。ハルノートの通りに日本が飲むことは生存上不可能であり、米国はフィリピンの総司令官の戦争体制も完了しており決定的に日本を戦争に追い詰めた、これは日ロ戦争以降の米国のオレンジ計画通りであろう。

第二次世界大戦を現在は太平洋戦争と言う。これは敗戦後のアメリカの意思による命令的呼び方である事を先ず知らなくてはならない。日本は128日を期してアメリカと英国に宣戦布告した。開戦直後、この戦争を大東亜戦争と決定した。戦争の目的は、自存自衛とアジア新秩序の建設である。要するに500年の白人のアジア支配を見直す為の戦争である。それがなぜ太平洋戦争というのかは後述する。

大東亜共同宣言
ここにその宣言文を披露する。開戦直後である。
「大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放してその自存自衛を全うし左の綱領に基づき大東亜を建設して以って世界平和の確立に寄与せんことを期す。
1.   大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す。
2.  大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す。
3. 大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以って世界の進運に貢献す。「日本外交年表並びに主要文書」
実に大東亜戦争の目的が人種差別撤廃にあり中世以降の白人の侵略に対するアジア人の抗議であり崇高な日本の意思である事が明白である。対米敗戦したが日本の意思のほうがアジア人の平和と幸福に貢献するものである。無念ながら中国と他の諸国の後進性が日本のこの精神を助けるものとならなかったのしアジア人の不幸であった。歴史のチャンスが未到来であったと言える・

戦争責任とは司馬遼太郎氏は、日ロ戦争の原因は基本的には64でロシアに責任があり、その中8割はロシアのニコライ二世という皇帝の性格に起因すると言われた。西尾幹二氏は同様に日米戦争は64、または73の割合でアメリカに責任があるという。そしてその中3割が人種的偏見を抱いていたアメリカの元首、大統領たちの性格に原因があるという。全く同感である。戦争は独りでは出来ない、必ず相手がいる。相手に戦争する意思がなければ戦争はおきない。アメリカは着々と準備を重ねていて、徴発行為を仕掛け繰り返した事が事実として残っているのだ。そこを日本人はなぜキチント考えないのか実に疑問である。日本人の戦後の思考は正常でないと自覚すべきである。

オレンジ計画
1904年、アメリカ陸海軍の統合会議で世界戦略研究に着手した。対世界戦略のシュミレーションである。戦争開始した時、夫々どの国とどのように戦うかの計画策定である。ドイツを仮想敵国としたのがブラックプラン、イギリスがレッドプラン、そして日本がオレンジプランである。南米はまとめてパープルプラン、カナダはクリムゾンプラン、メキシコにはグリーンプランという戦争予定準備計画図を作成していた。日本のオレンジ計画とドイツのブラックプランが仮想敵国意識の中に長く残っていくのである。
内容は、日本が戦争開始したら、海軍はどう動き、動員計画の見通しからあらゆる戦略を詰めている。毎年改定していてそっくのそのまま実行されたのだ。大東亜戦争開始の40年前の日ロ戦争直後から準備が繰り返されていたのだ。人種差別のカリフォルニアの排日移民問題は、こうした戦略的意識の中で発生しているのを忘れてはならない。

セオドア・ルーズベルト大統領の人種差別感情
対米戦争勃発時の米国大統領である。彼の発言がある。「日米間の人種的相違は極めて根深いものがあるので、ヨーロッパ系の我々が日本人を理解し、また彼らが我々を理解するのは至難である。
一世代の間に日本人がアメリカに同化することは到底望めないので、日本人の社会的接触はアメリカ国内の人種対立を益々悪化させ、惨憺たる結果をもたらす。その危険からアメリカ国民を守らねばならない。」彼はインディアンの絶滅を広言していた。日本を褒め称えた人でもあるが自分の身辺に多数の日本人が住み着くことは絶対反対であった。国家元首がこのような態度と心では日米が戦争になる事は理の当然である。さて、このような背景で、果たして日本が戦争に負けてしかも戦争犯罪国といえるのか、絶対いえない、日本のみが一方的に悪くないない。然し中国に出向いて戦争した事は侵略である。先の戦争は対米国、対中国と別々に見なくては正しく見えない。日本人は先の戦争について学ぶべき義務が国民としてある。

大東亜戦争異聞

幕末の日本人は、五百年に渡る白人の世界支配を押し返すだけの精神と知識と力を保有していたからこそ、欧米諸国のわが国侵略を防ぎ得たのは明白である。これは日本人の子々孫々まで歴史教科書で語っていいと確信する。残念ながら戦後の米国占領により属国となり日本人は去勢されて真の国家とは如何なるものかイメージが掴めない国民が多すぎる。

その理由だが、先ず、敗戦直後の支配層、戦地経験者の現在75歳以上の人達。この方たちは、自虐の心があり、戦争に参加したと言う小さい観点からの戦争忌避と米国の占領により骨抜きとなったと言える世代である。同時に日本人的奥ゆかしさをもつが故に戦前を慎ましく語らない世代である。宮沢元総理のように英語が喋れるだけで米国のいいなりの戦後政治をしてきた支配層がこの世代に多い。

次に敗戦直後に生まれた団塊の世代と言われる50歳から55歳くらいまでであろうか。この人達は日教組・社会党・社民党・共産党の戦後左翼の指導による国史喪失者である。この人達は歴史を歪んで把握しているし正しい国史を学んでいない、学校から教わらない又個人的にも無知の人が多い。故に、大東亜戦争について理解は絶対必要であろう。日本人は先祖の遺志を体して太平洋戦争と言うべきではない。先の大戦の初志を冒涜してはならない。

次は先の大戦の米国首脳の会話であり日本が間違いなく日米開戦に誘導された事の明白な事実を証明するものである。日米開戦は昭和16128日でありこれは121日の首脳会話である。

スチムソンの日記1. 19411125日 火曜日
大統領は、・・・・米国はたぶん次の月曜日に攻撃を受ける可能性があると注意を喚起し、我々はいかに対処すべきかを問題にした。問題は、我々自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾をうたせるような立場に、日本をいかにして誘導していくべきかということであつた。

スチムソンの日記2. 19411127日 木曜日
ハルは「私はそれから手を引いた。今やそれは、君とノックスとの手中にある。」とつけ加えた。
大統領とはルーズベルト米国大統領。スチムソンとは陸軍長官。 攻撃を受けるとは121日の事。実際の開戦は128日。ハルとは国務長官。手をひいたとは日米交渉の事。 ノックスとは海軍長官。