鳥取木鶏会設立25周年記念 徳永万葉集その一 平成23年10月3日
初めに
私は、実に若い時から万葉歌好きで、とても馴染んできた。往時は数十歌くらい記憶していた。来年の鳥取木鶏会25周年記念の特集と思って準備してきたが、3ヶ月繰上げて、日本人の原点である万葉集に就いて再び学んでみたい、題して「徳永万葉集」。私は関西在住の頃、高名な大阪大学名誉教授の犬養孝の万葉ゼミにも参加していた。犬養節には到底及びませぬが・・。
万葉集は日本の原点、古代史を学ぶことにも繋がるのであります。
山之辺の道
万葉集は日本の黎明期、その舞台の中心は飛鳥であり、奈良盆地である。その辺の地図を頭に入れておかないと理解が進まぬものがある。
それには、何と申しても「山の辺の道」、史実に現れる我が国最古の道、大和平野(奈良盆地)の東側に連なる山々の「山裾」に位置するが故に「山の辺」の道という。20代以降、しばしばこの山之辺の道を歩いてきた。
風光明媚のうえ日本の黎明期の歴史的古墳、古社寺、旧跡が多く点在し、この道は「古代歴史街道」そのもの。
現在の奈良盆地は、大昔、大きな湖で(奈良盆地湖)、人が通行できた「湖岸通りの道・山裾の道」が「山の辺の道」である。大阪湾から大和川を遡行して海石榴市あたりまで船で行けたのであろう。
湖面が時代と共に低下していくに従い、上つ道、中つ道、下つ道が出来た。だが、本来の「山の辺の道」は寂れながらも拡張整地されることなく山裾の狭き道として残ったのである。
「山の辺の道」が完成したのは周辺に豪族が君臨した時代で、次の寺院時代になる前の古墳時代。故に古墳の里、古社の里と言われる所以。
「山の辺の道」が通る山々には、山にまつわる歴史と秘話が多くあるだけでなく、春夏秋冬、変化に富む山の自然がある。
三輪山
山の辺の道に言及すれば、この三輪神社に触れなくてはならぬ。大和の国の一ノ宮であり、日本最古の神社、
大神神社とも称し、国のまほろばと称えられる大和の東南に位置する円錐形の秀麗な山、三諸の神奈備・三輪山を御神体として、大物主神(にぎはやひ)を祀る。私は、麓で拝礼し白いタスキを掛けて幾度もこの山に登らせて頂いた。
この地域は盆地湖と言われた、大阪湾から大和川を遡行して山の辺の道近くまで他国から船で到来し得たのである。
初瀬の海石榴市が開かれた理由も理解できようというものである。全国各地でもそうだが、古代は道は無く船の往来、そして原住民は自分たちの神を祀り周辺に暮らしていたのであろう。
まほろば
「素晴らしい場所」「住みやすい場所」,国の中心という意味の日本の古語。
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
古事記の中巻、日本書紀では景行天皇の望郷歌とされる和歌が「まほろば」の代表歌。
檜原神社
三輪神社の裏の檜原の岡にある。祭神は天照大神。崇神天皇の御代、皇居内の同床に祀り継がれてきた天照皇大神の御神霊を豊鍬入姫命に託し、倭笠縫邑に遷し祀られたが、当地・檜原の岡が、その倭笠縫邑であるという。天照皇大神の御神霊は、その後各地を移動して最終的に、現在の伊勢神宮へ祀られたことにより当社は、元伊勢とも呼ばれている。
海石榴市
初瀬の海石榴市にも触れなくては進めない。この辺まで、古代には船でやって来れたと言う。交通の要衝であり市が立っていた。歌垣も行われたとか。
歌垣
古代の習俗、男女が山とか海辺に集り、歌舞飲食して、豊作を祝う行事、春秋に行われた。男女の自由な性交が許される場であり、古代に於ける求婚の一方式。性行為は生命力を与えるものとされた。のち農耕を離れ市でも行われた。
磯城瑞籬宮
日本最初の天皇とも言われる崇神天皇、都は桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)即ち山之辺の道にある小さい神社、『古事記』には、「師木の水垣宮に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。ここで私は古事記を開いて朗読したこともあります。
崇神天皇陵、景行天皇陵
巨大な御陵である。
石上神社
禁足地に、布都御魂大神 布留御魂大神 布都斯魂大神
祭神の布都御魂大神は、出雲平定の折に建甕槌神が帯びていた霊剣「平国之剣」魂」の御霊。
神武天皇東征の際に、熊野の高倉下を介して天皇に奉られた剣。神武天皇は即位後、物部氏の遠祖・宇麻志麻治命に、その神剣を授け宮中に奉祀させた。
宇麻志麻治命は、父・饒速日尊が降臨の時に天津御祖から賜った「十種の神宝」を天皇に献上し、斎き祀った。その神気を、称えて布留御魂大神と称したという。
崇神天皇七年、物部連の祖・伊香色雄命が勅を奉じて布都御魂大神と布留御魂大神を石上の高庭に遷し祀り、石上神宮と称したという。
垂仁天皇三十九年十月、五十瓊敷命が茅渟川上宮で
剣一千口を作り石上神宮へ納めたが、後に五十瓊敷命(垂仁天皇の第二子)が石上神宮の神宝を管理するようになった。
あるいは、物部首の始祖、春日臣族の市河が管理したとも伝えられている。神代紀によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣は布都斯魂大神と称し吉備神部のもとに祀られていたが、市川臣命が勅を奉じて
石上神宮の高庭に遷し、布都御魂大神の東に埋葬したという。
楼門の向いにある出雲建雄神社は、式内社・出雲建雄神社に比定されている。出雲建雄神とは草薙の神剣の御霊のこと。天武天皇朱雀元年、布留川上日谷に瑞雲とともに出現し鎮座してという。
このように当社は剣を祀る神社で、朝廷の兵仗をあずかる物部氏ゆかりの神社。当社には、神功皇后が百済より献上された七支刀(七枝刀)などの社宝がある。
大和神社
日本大国魂大神、大和神社の主神で三殿の中央の社に祀られている。
この神は大和平野に鎮座する神々の主神であり、日本の大地主大神とされており、地上地下万物の生育発展、人間及び生物の生命を司っている偉大なる神格に坐しているという。
さて、これくらいにして、愈々万葉集に入ります。
万葉集
最新歌759年、遡ること130年、ですから1300年前となります。全20巻、4516首の歌。
1.最後の歌は大伴家持の歌。因幡国守・大伴家持が、
「新しき年の始めの初春の 今日降る雪の いや重け吉事」ですね。
因幡国司の家持は左遷されていた。跡に石碑がある。元旦歌らしく、のののリズムは流暢で吉祥歌だが凄愴な調べを感じる。
この歌には寂しい家持の心境が歌われています。犬養先生は、当時の因幡は、辺境であり島流しに近いと云われた。天皇側近に仕えたことのある家持、都に帰りたいと言う気持ちを思いながら歌いましょう。
最終の歌を紹介したら冒頭の歌を引用しなくてはいけませんね。
第一番はも雄略天皇の歌です。
泊瀬朝倉宮 |
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜採ます児 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れしきなべて われこそませ われこそは告らめ家をも名をも |
巻1―1 雄略天皇 求婚の民謡風、五世紀後半の英雄的君主の大らかな国見の歌かな |
時代区分
文字のない頃からの歌、天皇から額田王、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、大伴旅人、東歌、防人歌。
時代区分は4つに分類、
第一期
舒明天皇以後672年、壬申の乱くらい迄。
第二期
飛鳥藤原宮時代、710年から奈良に都が移るまで。
第三期
奈良時代を二分割、天平5年、733年まで
第四期
759年まで。
時代背景
万葉人――夫婦は通い婚、夜明け前に帰る、これを5年でも10年でもしてから同棲する。女性の地位は高く奥さんは奥に寝て、主人は戸口近く寝た。
巻13-3312の長歌があります、
2.隠国の泊瀬小国に結婚せず わがすめろきよ 奥床に 母は睡たり 外床に父は寝たり 起き立たば
母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし
ぬばたまの 夜は明け行きぬ ここだくも
思ふごとならぬ こもり妻かも
万葉集は素朴で大らかで恋の歌は熱烈。歌は心の音楽、歌わなくちゃいけないのであります。
10月の万葉歌
秋ですね、歌というのは、感性であり、想像力が豊かに古代の万葉人を思いましょう。万葉人は、素朴で、大らかで、溢れるような人間性の持ち主です。情熱的でもありました。
好きな歌は一杯ありますが、やはり、歌聖と言われる柿本人麻呂を最初に登場させましょう。三輪山近くの住まいらしい場所からの歌です。三輪山の北の巻向山と巻向川です。
3.弓月が嶽 巻7-1088 柿本人麻呂
あしひきの 山河の瀬の 鳴るなへに
弓月が嶽に 雲立ちわたる
山之辺の道、巻向川のほとりから眺める度にこの歌を自然と口ずさむ。流動感、動的、律動、力感、ウワ-と心が動く。あしひきのは山の枕詞。鳴るなへは、と共に。自然の変化、風格、品性、気韻がありますね、その躍動感。
枕詞
あしひきの、といえば山が続く。枕詞は、主として和歌に見られる修辞、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のこと。万葉集の頃より用いられた技法。
4.宇智の大野 巻1-4 中皇命
たまきはる 宇智の大野に 馬並めて
朝踏ますらむ その草深野
中皇命は舒明天皇の皇女、間人皇女、皇后かの説。
長歌の反歌、天皇が宇智の野に遊狩の時の歌。高原の朝露は清々しい、なぜか心が躍動する歌。宇智近くの山で感じたが地には霊がある。さわやかで気持ちいい歌。颯爽とした舒明天皇の狩場を思う中皇命
5.熟田津 巻1-8 額田王
熟田津に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は榜ぎ出でな
額田王は、大海人皇子即ち天武天皇の奥さん、後に中大兄皇子即ち天智天皇の奥さんになった人。
新羅征伐に行く時、道後温泉に立ち寄った時の歌。天武天皇の奥さんの歌。私の心を躍動させる、男らしい歌。力強い、堂々とした指揮官の心の高揚であろう。実にいい歌だ。
6.豊旗雲 巻1-15 中大兄皇子
渡津海の 豊旗雲に 入日さし
今夜の月夜 ま清かにこそ
西暦661年、斉明天皇7年、新羅征伐の折。播磨灘。
正月だから茜色で豊かな大きい豊旗雲の歌、素晴らしい月夜を待つ、未来への祈りか。期待に満ち堂々としている。
7.巨世山の椿 巻1-54 坂門人足
巨世山の つらつら椿 つらつらに
見つつ思はな 巨世の春野を
椿の好きな私、音楽を聴いているような陶酔感がある。楽しい旅心、近くの椿温泉もいい湯だ。リズムがいい。
持統天皇と文武天皇が白浜の牟婁の湯にお供した人。
万葉古道巨勢の道、JR和歌山線、近鉄吉野線
8.
蒲生野 巻1-20 額田王
天皇、蒲生野に遊狩したまひしとき額田王のつくれる歌
あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖ふる
天智天王の寵を得ながら前の恋人、大海皇子に心ひかれる調べ。明るく率直、明日の歌と関係深い。
9.
紫の 巻1-21 大海人皇子
皇太子のこたへまする御歌
紫草の にほへる妹を 憎くあらば
人嬬ゆえに 吾恋ひめやも
元妻の額田王に贈った歌。新緑の野に茜色の朝日の狩場のこの状況を想像するとスリル万点。
天智天皇の後は天武天皇、兄弟である。中大兄皇子は藤原鎌足と共謀して蘇我入鹿を倒してクーデター壬申の乱を起した人。舒明天皇の長男、母親は斉明天皇。
額田王はこの二人の奥様であった、最初の旦那は、大海人皇子。この時の旦那は中大兄皇子・天智天皇。
額田王
☆謎だらけの女王、額田王
れっきとした実在の人物であり、天皇家の血筋ということで皇室に女官として仕えていたことと大海人皇子、そして中大兄皇子の側室となった事実。
☆生い立ちと皇室での出来事
額田王は、630年前後、鏡王の娘として生まれ、大化の改新後、16歳で斎明女帝に仕えた。
万葉集のもとになる歌をたくさん詠んでおり、斎明女帝の側近の中でもずばぬけた裁量をはっきし、宮中一の才女。
斎明女帝の皇子には、大化の改新の立役者の中大兄皇子と弟の大海人皇子がいて、歳が離れていることもあって、宮中の中では、まったく異なった立場にあった。大海人皇子が政治の世界に登場するのには、まだ間がありました。元服しただけの弟大海人皇子は、宮中で、母(斎明女帝)の側近に仕える美女額田王をひとめみて気に入ってしまい、自分の立場を利用し額田を恋人にした。額田のほうもまんざらではなかったようで、まもなく、額田との間に十市皇女が生まれました。
☆驚愕の事実
このころ、中国での戦いが激しくなり、友好国である百済を援護するため朝鮮に兵を派遣することになり、斎明女帝自らが北九州にむかっていました。無論、天皇の側近である額田王も同行し、途中熱田津では、万葉集で有名なこの歌を詠んでいます。
熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな
また、中大兄皇子の隣には、故幸徳天皇の皇太后(中大兄皇子の実妹)が、べったりとついて同行していた。
これには、驚愕の事実があったようです。それは実の兄弟でありながら、中大兄皇子は幸徳天皇生存時から妹の幸徳天皇皇后と男女の関係になっており、これが中大兄皇子が幸徳天皇逝去時に即位できなかった理由。
古代日本でも近親相姦は絶対悪として神を冒涜する行為であり、生神である天皇には、考えられない行為だった。
☆中大兄皇子即位(天智天皇)による男女相姦関係
北九州遠征は、途中斎明女帝の発病死亡と孝徳天皇皇太后の発病という突然の出来事と朝鮮での大敗のトリプルパンチをくらい悲しみにうちひしがれての都帰還となる。
いよいよ中大兄皇子の即位が現実のものとなったときに妹との近親相姦で汚れた心体をどうすれば禊げるかが大問題になり、ボクジョウ(占い)をおこなったところ、弟の大海人皇子の側室、額田王と交われば不浄がとれるとのお告げがあり、額田王は、天皇の命令にさからえるはずもなく複雑な心境で天智天皇のところへ行くことになります。大海人皇子との間には娘まであった中なので、そんなに簡単にわりきれるものではなかったと思います。
天智天皇は、弟の大海人皇子に遺恨を残さぬため額田王を引き取る前に実の娘である大田皇女と讃良皇女(後の持統天皇)の姉妹を大海人皇子の后として送りこみます。
この時、大海人皇子は、他にも側室がいて額田王を兄に差し出すことを後世の物語になっているほど気にもとめていなかったのが本質のようです。
従って、この問題が後の壬申の乱の要因のように伝えられているのは、間違いで、実際のところはもっと別の次元の皇位継承が複雑にからみあってのものなのです。
このころの天皇の后には、蘇我氏の血をひいていることが、絶対条件で、蘇我氏の血をひいていない額田は、側室にはなれても、后にはなれず、自分の産んだ子がたとえ男子であっても即位をすることはできなかったのです。額田自身はこのことはよく理解をしていたようです。
こういった圧壁の中で才女で絶世の美女であったことが、彼女の心根を無視してどんどん勝手にえがかれていきます。宮中行事にはかかせない存在であったことや場を盛り上げる機転のきくところが恋多きエピソードとして数々残っています。
上の歌もそうですが、滋賀へ巻狩りに行ったときの場面で即効でつくった歌で、過去の関係から思わせぶりな歌を披露し、場をもりあげたものと現代では解釈されています。けっしてこの歌が、壬申の乱の引き金ではないようです。
場を盛り上げるのが上手な彼女は、一人きりの時に、本来の自分と違うお人よしの自分にかなりナーバスになっていたとのことです。この時代を生き残るために自分をつくらねばならなかったのでしょうか。
☆壬申の乱後の額田王
壬申の乱後、大海人皇子が即位し、天武天皇となりますが、天智天皇側の宮中にいた額田王と娘の十市皇女は、天武天皇に助け出され、再び、なつかしい天武邸に変えることになりますが、そこでは、かつて自分が見下していたあの讃良皇女が天武天皇の皇后となって君臨しており、居場所がない額田王でした。
程なく天武天皇が逝去し、讃良皇女が持統天皇となって即位、額田はまったく出番のないまま、晩年をむかえてしまいます。娘の十市皇女も天智天皇の皇子高市皇子との相思相愛の仲は、成就せず、大友皇子の后になったのは、歴史が伝える通りです。政治の駆引きによる政略結婚。それもこの戦(壬申の乱)によって引き裂かれ、親子でさびしい晩年をむかえていたようです。