安岡正篤の言葉  平成2810月 徳永圀典選

 

意識の所産

 天地は万物を生成化育してきました。そして人間にいたってその万物を知るという霊妙な存在に到達した。人が知るということは、経験を重ねてその対象を意識する、確かめることであり、物の世界、自然界は、人間が我を離れて存在すると考えるものでありますが、直接には我を離れた存在ではなくて、我の意識であり、我の所産である。

まさに陸象山のいわゆる、「宇宙内のことは、即ち己が分内のことであり、己が分内のことが即ち宇宙内のこと」で、宇宙すなわち「()れ吾心」、吾心すなわち「()れ宇宙」である。

 これは単なる観念論、唯心論というものではない。具体的な経験、把握の問題であります。天地万物を究明しようとするならば、そうせねばならんのが人の性であるが、それには先ず我の内に復って自性を徹見せねばならんのであります。

 

 われわれの身体は一時の形質であるが、生命は永遠の相続である。身体に伴う意識、すなわち知覚・思惟・論理・批判・打算・欲望・感情など色々あるが、そういうものは、生じたかと思うと消える。消えたかと思うと生ずる。まったく、例えて言うなら、雲煙の去来なんであります。        

 然し、我々の意識の深層は無限の過去に連なり、未来に通ずるものである。それは、祖宗以来の経験・記憶・思考・知恵・創造の不思議な倉庫。宝蔵・無尽蔵であり、肉体の感覚器官に制約されず、原体験の送信に応じて、神秘な快投指令を発信するものであることが、今日の科学によっても、既に相当に解明されている。これは宗教家に限られるものではなく、科学者も芸術家も為政者も誰もが参じ得る人間の神秘である。もとより偶然に得られるものではなく、あくまでも厳しい努力によって初めてあり得ることである。

                 王陽明