鳥取木鶏研究会 10月例会 レジメ 

大脳使用率

学問、研究というものは、そういうもので本当の学問をした人から申しますと、我々の頭もまことに粗雑なものと言われても仕方ありません。大脳生理学者の話によりますと、大脳の能力を100とすると、普通人は大体13%位しか使っておらないという。

折角霊妙な大脳を勿体無い遊休施設にしておるわけであります。その後暫くして、アメリカの学者のレポートを読んでおりますと、この頃は、文明が発達して色々の機械とテレビだの雑誌等が出て、人間は益々頭を使わなくなった。 

そこで折角の大脳の使用率13%は既に昔のこと、この頃は一単位の7lまで落ちておることを読みまして感を深く致しました。機械の発達等が人間の直覚力、感覚力を衰えさせ、大脳の働きもこのように非常に落ちてしまいました。

従って文明は人間を次第にロボット化、機械化するということも本当でありまして恐るべきことであります。 

どの面下げて

もし霊妙に人間の顔色を見分けることができますと、その人の存在、性格、能力等恐ろしい程良くわかり、全身の生理機能なども全部顔に書いてあるわけでありますから、故障の所在或いは原因等もすぐわかりましよう。

そうしますと、昔からいい伝えられた言葉を改めて考え直すのですが、「貴様、どの面さげて歩けるか」などという言葉は、顔に書いてある筈ですから達人が見たらちゃんと解ります。それを考えると恥ずかしくて面を上げて歩けなくなります。「どの面さげて」とはうまく言ったものだと始めて感心しました。 

 神相(しんそう)

それ程、人間の色と、それに相を加えた「色相」というものは怖いものです。いわんや、もう一つその奥にある「神相」というものは最も恐ろしいものであります。

だから人相の書物に「神相全編」などという本がありまして、この神とは、意識からもう一つ奥の無意識層につながるものであります。

 

無意識層・超意識層

つまり、実在の色々の機能、これは不滅でありますから、我々の無意識層―超意識層は、無限に過去につながっております。その抹消部が大脳にきて、ここに大脳皮質というものがあって、そこで現実の色んな思索だとか理論だとかいうものを扱っておる。

―けれども、大脳の表皮から次第に脳髄に入って、それから先の無意識層、超意識層と永遠につながっておるわけでありますが、その無意識層が時々、夢だとか、或いは何か突然の刺激で大脳皮質―表に、つまり意識となって浮かんでくる。そして、この無意識層は、無限の過去につながっておるわけであります。 

生の神秘

私達の両親はたった二人でありますが、十代遡りますと百万を超え、三十代遡りまかと十億を超えます。だから例えば私達の肉体、生命、存在はそれこそ大変な数の先祖の産物であると考えますと、その何億という先祖が考えたり、行ったりしたことのエネルギーが、今日我々を作っておるのであります。

「因業な奴だ」という言葉がありますが、どんな先祖の(ごう)が、如何なる神秘な因になって、今日、我々の生命、意識というものを作っておるかわかりません。そういうことを考えてきますと、成る程、生というものは神秘であります。生命というものは、極めて神秘なものであります。その生命というものは、陰陽相対()性原理を含んでおり、それは見方、考え方によりますと五行の働きをしております。そして五行の相生(そうせい)相剋(そうこく)論が易の重要な一つの内容であります。 

相生(そうせい)相剋(そうこく)

五行とは、それを形で表し、象徴的にいうと、(もく)()()(きん)(すい)であります。そして、「相生(そうせい)」とは、「(もく)()を生じ」、「()()を生じ」、「()(きん)を生じ」、「(きん)(すい)を生じ」、「(すい)今度(こんど)(もく)を生じる」。これを「相生関係」と申します。

―これに対して、「相剋(そうこく)」とは、「木剋土(もくこくど)」、木は土を搾取して生長するから、木は土を剋する。「土剋(どこく)(すい)」、土は同様にして水を剋する。「水剋(すいこく)()」、水は火を剋する。「火剋(かこく)(きん)」、火は金を剋する。それから「金剋(きんこく)(すい)」、金は木を剋する。これが「相剋」であります。  

大事な易の原理

この五行の相生相剋論は、陰陽相対()性原理に次いで、大事な易の原理の一つであります。これは主として戦国末、漢代から発達しまして、後世、易に取り入れられ特に民間に普及して、次第に活用されるようになりました。

抽象的理論はなかなか民衆には理解されませんが、このように具象化されると、大変認識し易く取り扱い易いものですから、五行思想というものは、年とともに民間に大変普及しました。それとともに、普及に伴う色々の誤解や悪用がありまして、学問的に言いますと問題もありますが、それは後世の煩いでありまして、根本的には非常に大事な易の原理の一つで陰陽に劣らず普及しておるものであります。 

五行の相生相剋と人体

この五行は、漢方医学にも取り入れられ、非常に活用されております。我々の五臓六腑というものは皆五行の木性に配置されており、「肝臓」は五行の木性に属し、「心臓」は火性、「脾臓」は土性、「肺」は金性、「腎臓」は水性と配置されております。

特に、木・土・水というのは相剋関係ですから、傷みやすい「肝・脾・腎」という熟語が出来ておる位大事なものであります。我々の健康を保つためら最も注意しなければならないのが、この肝臓と脾臓と腎臓であります。 

内臓の陰陽

また、肝臓と(つい)するものが「胆」。心臓と対するものが「小腸」。脾臓と対するものが「胃」。

肺と対するものが「大腸」。腎臓と対するものが「膀胱」となるのであります。そして、肝、心、肺、腎は「陰」で、胆、小腸、胃、大腸、膀胱は「陽」であります。 

相生作用

そこで相生作用により、肝、胆がよくなると「心」、「小腸」がよくなり、心、小腸がよくなると「脾」と「胃」がよくなり。脾と胃がよくなると「肺」、「大腸」がよくなり。

肺、大腸がよくなると「腎」と「膀胱」がよくなり。腎、膀胱がよくなると「肝」、「胆」がよくなる。これは五行の我々の肉体における相生作用であります。 

相剋作用

相剋となりますと、木剋土ですから、肝、胆を悪くすると脾、胃が悪くなる。脾、胃を悪くすると腎、膀胱が悪くなる。腎、膀胱が悪くすると心、小腸が悪くなる。心、小腸を悪くすると肺、大腸が悪くなる。

肺病患者が腸を悪くしたらおしまいです。私の友人も数人肺病で亡くなりましたが、聞いて見るとその殆どが、おなかを壊す。つまり大腸カタルです。大腸を悪くして死んでおります。だから肺病患者は腸を悪くしないことが一番大切であります。 

.肝心(かんじん)(かなめ)

また私達の生活に一番大切なものは、肝臓と腎臓であります。肝臓をよくすると、心、脾、肺、腎がよくなり、腎臓をよくすれば肝臓がよくなります。それで昔から一番大事ということを肝腎というわけです。肝心と書く人がありますが、これも誤りではありませんが少し足りません。

必ず肝腎と書かなければなりません。肝腎要という要の字は腰という字です。後世も要に月―にくづき、をつけて腰の字を作ったので、本当は要だけで腰です。

だから肝腎腰で、その意味においても要は「かなめ」と読むより「こし」と読んだ方が宜しい。この肝臓と腎臓がしっかりしておりますと、相生関係で全体がよくなるということは五行論の応用である漢方医学が夙に実証しておるところであります。 

五行と人体機能表

以上は五行の相生相剋関係を内臓で言ったのでありますが、この五行に人間の器官、機能等をすべて配置しております。その非常に精細な表もできております。大変興味津々たるものでありますが、その一番の根本形態と申しますか代表的なものの一つは次の表です。

(五行) (相生陰)  (相剋、陽)

   木――肝――    胆――  青

   火――心−−   小腸――  赤

   土――脾――    胃――  黄

   金――肺――   大腸――  白

   水――腎――   膀胱――  黒 

青二才

最後に色について申しますと、木の系統は青。火の系統は赤。土は黄。金は白。水は黒という具合に五色に配置します。だから、肝も胆を傷めると病的な青い色になります。青二才と言いますが、あれはまだ肝臓がよく出来ておらぬということで、俄か勉強、くそ勉強をしますと青くなります。

これは肝―青を表しております。心臓、小腸を悪くすると必ず赤みを帯びてきます。頬がほんのりと赤みをさしたりするのが心臓病の特徴であります。よく心臓の病人に美人が多いと言いますが、頬がほんのりと赤味を帯びてくるので美人に見えるのでしょう。 

.人体と色

脾、胃を傷めると黄色く、焦げたような色になります。肺病患者は白茶ける。肺病の婦人に美人が多いなどいうのはここからくるのであります。腎、膀胱を悪くすると黒ずんできます。腎臓の悪い人は必ず額とか、目のふちに黒斑(しみ)が出てきます。

酷いのになると手の甲などに盛んに出る。これを寿斑(じゅはん)―長生きをしているからこういうところへ寿斑が出るようになったと喜んでいる人がありますが、とんでもないことで腎臓を傷めておる証拠であります。そういう誤解、誤認が世間では非常に多い。 

漢方の名医

五行理論というものは、まことに興味津々でありまして、これを活用すると実に有益であります。この相生・相剋理論は表を見るとすべてに適用されておりますから大変参考になります。今日は人体の内臓関係の一部を出したのですが、これが色にも音声にもありまして際限がありません。

例えば声を聞いて、あれは肝臓が悪い、心臓が悪い、胃が悪いという具合に耳の好いお医者さんは聞き分ける。漢方の名医になりますと、私も数人の医者を知っておりましたが本当に恐ろしくなるようなことがよくありました。こういう名医になりますと、いまここに問題があるから次はここが悪くなると予見することが出来ました。 

明治天皇の侍医

明治の話ですが、私の親戚に広田と言って、明治天皇の侍医をつとめた人がおりまして、その夫人から聞いた話でありますが「浅田宗伯先生(漢方の名医)と、この広田侍医とが夜勤の交代をした。そして退出する時に明治天皇を拝診された浅田宗伯先生が「解熱剤を用意しておく」と言って帰っていかれた。そこで広田侍医が拝診したけれども別にお変わりがない。お熱が出る様子もない。変に思って朝を迎えると、やっぱりお熱が出たので「浅田宗伯先生という人は偉い医者だなーと感心した。

我々のように西洋医学をやった者ではこういうことはわからない」と言ってしみじみと述懐しておった」ということであります。名医になりますと、やはりこのように陰陽五行の理論でちゃんと先々の診察をすることが出来るのであります。そこで易学というものは、昔から医者と自然科学者が最も多く尊重致しまして、次第に色々の学問に適用されるようになり、深遠な発達を遂げました。 

易は(ちゅう)の学問

ここで易に今一つ大切なものは、中論(ちゅうろん)中道(ちゅうどう)であります。(ちゅう)とは相対するものを総合統一して更に発展させる。

所謂、弁証法的発展と、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼという、そこへ進んでいくのが(ちゅう)でありますから、易学は中の学問であります。これを色々の問題に広げて適用してまいりますと、本当に興味はつきません。 

宿命と運命

多くの人々は、易というものは、人間の運命に関する学問であり、その運命とは、宿命であると誤解しております。

宿、とどまるという意味ですから進歩がありません。運、めぐるですから動いてやまないものを言います。つまり宿命と運命とを取り違えております。 

立命

本当の運命は文字通り創造していくことであります。この宿命に対して「(めい)」を立てる、(めい)(ひら)くことを「立命」と申します。だから本当の運命は立命でなければなりません。

如何に自ら運命を立てていくか、ということが本当の「運命の学」即ち易学であります。だから易学というものは定められた、その関係を調べるのではなく、どこまでも自分の存在、自分の生命、生活というものを創造していく学問であります。 

易は創造の学問

それには、矢張り(めい)というものを、明らかにしなければなりません。その命の中に、「因」となり「果」となって色々と創造が行われます。その複雑微妙な因果の関係を「(すう)」と言います。

そこで易を学ぶということは、我々の動いてやまない運命の中に含まっておる命数(めいすう)、運命の複雑微妙に創造関係、因果関係というものを明らかにして、これを再創造していく、運命に乗じて運命を自ら作っていく学問であります。 

自分の運命を拓く

そこで易を学べば学ぶ程、自分で自分の存在、自分の活動、そして自分の運命を(ひら)いていくことが出来るのであります。

これを世間の人々は、自分に定められておる宿命を発見する、教えて貰うことが易学だというように、全く正反対に考えております。それがわかりませんので算木(さんぎ)筮竹(ぜいちく)に頼るのであります。 

占筮(せんぜい)

占筮も、本当の占筮は世間が考えておるようにものではありません。これは占筮のお話のときに致しますが、本当の占筮の達人は(せん)せずと言います。

何故なら占う必要がない、考えたら分かる。易の六十四卦というものが本当にわかったら算木筮竹はいらない、真の易学というものが分かれば自分の頭で判断できる。これが易学の又一つの薀蓄(うんちく)、神秘な原理であります。 

真の易は(せん)せず

易と言えば占うものだと考えておるのは、それはまだ易学を知っておらぬからでありまして、本当に易学を知れば、占うということはいらなくなります。

自分で判断して自分で決定できます。そういう意味で申しますと、易学というものは占う必要のなくなる学問であるということになります。 

自己改革の学問

ちょうど、今日で五回目ですから、主として復習的にお話を致しました。

あと五回もやれば、かなり皆さんの人生や自分というものに対する考えを根本的に変えることが出来るのではないかと思います。
                                            (昭和53年3月15日講義)
 

徳永圀典のコメント

神相(しんそう)、人間の顔色、それに相を加えた「色相」というものは怖いもの。いわんや、もう一つその奥にある「神相」というものは最も恐ろしい。

だから人相の書物に「神相全編」などという本があるが、この神相とは、意識のもう一つ奥の無意識層につながるもので本源から出ている。ここに洞察があり言語に言い表せない、眼力でもある。          

 徳永圀典記             

10月「安岡正篤先生の言葉」 

人間の本質的要素

人間には大別して本質的要素と附属的要素の二つがある。

その中でも本質的要素とは、人の人たる所以のもの、即ち人間として欠くことの出来ぬものであり、徳性がこれにあたる。 

人間の附随的要素

これに対して、知能とか技能というものは、いくら効用があっても、あくまで附随的要素である。

また習慣・躾というものがあるが、これは徳性に準ずる大切な要素である。

そこで、これ等の本質的要素を無視した知識教育・技能教育というものは非人間的教育に走る。

本質的要素の欠けた戦後教育の結末が「現今日本の惨憺たる犯罪社会化」である。