平成の宰相論「菅直人」篇
真剣な緊張感の表情も眼光もない連中ばかりの内閣。宰相の器量は当然、その素養も練磨も欠けた男が、一国を預かるとこのような事態となり、国家の一大不幸となることを如実に示したのが東北大震災時の菅内閣で、国家背任罪的であった。
菅直人クンは、組織運営の経験と実績がない。これは、他の労組上りの大臣にも言えるのだが、彼らは、経営側を口激して成り上がり、汗をかかずして生活してきた労働貴族である。彼らには組織マネージメント能力が完全に欠落している。その上に「上に立つ者の謙譲さが皆無」である。
そのような民主党の彼らがトップになると、人を使うことを知らない、「物を生み出すソフト」を持たないから、どうしていいのか分らぬ連中なのであった。
その代表的な菅クンは、一匹狼として、権力を批判することでのし上がった男である。それ故に、「口撃」は百戦錬磨のものである。かかるが故に、菅クンが国家組織のトップになるや菅クンの能力の限界を超えてしまったのだ。また、それを認めない傲慢さ、幼稚さが日本の最大不幸であった、人間性に問題があるから、それを認めようとしない。
1. 人を使う立場の研鑽素養がないこと。滲み出る人間性もない、あの顔。
2. 人を受容する度量が小さいこと。人々の気持ちが判らぬ男だから震災避難者から怒号を浴びせられた。
3. 人物が小さいクセに自分は頭がいいと過信しているから視野狭窄に陥って、度し難いこと。謙虚さが微塵も感じられないこと。
4. 大きく、人材を活用できなかったこと。
5. 人間的謙虚さが欠如しており、器が小さすぎること。
6. 身捨即光明(身を捨ててこそ浮ぶ瀬があり)の「出処進退の要」を知らぬこと。口撃オンリーの左翼の通弊である。
7. 人を立てる術を知らぬこと。
8. 菅クンが経済政策を樹立できないのは彼の生き様と無関係ではない。口激で生きてきた菅クンは元来そのソフトを持たなかった。
9. 人の活用が菅本意であり菅には国家運営に「私」が入り過ぎていたこと。
このように、菅直人クンは宰相として、完全に落第である。己を空しくするだけで合格点となるのが最高指導者なのだが・・。東洋学に素養がないから、それすら知らないのである。彼の四国辺路姿など、見てはおられない軽薄すら感じさせる。
指導者の判定には「知識」、「見識」、「胆識」という尺度もある。菅クンは、「知識」があるだけの人物に過ぎない。大学卒程度のまま、人格・人物の鍛錬、苦労もなく今日に到ったという程度の人間である。
菅クンには、人物的に練れたものが顔に少しも見当たらない。貧弱な面相である。(鳩山・小沢・輿石君も然り)。胡錦濤均との面談時の態度の情けなさ、俯き、震えていたお粗末さは国辱ものであった。
これでは、国民の心を動かせまい。某氏が言うように、菅クンには「人間的に問題あり」と見て間違いない。
また、菅クンは、「見識」すら備えておらないと断定する。菅クンには、最高権力者の資質として絶対不可欠な「胆識」は欠片も見当たらない。これが、国難的問題発生時の日本の宰相であった事の不幸な現実であった。
一日も早い菅クンの議員辞任を要求する、日本には最早や不要の人材であろう。それ程、菅クンの存在自体が「日本国の大災害」であった。それにしても、民主党の犯罪的政権運営であった。何らのなす術もない「民主党のテイタラク」、また、日本政治のこのお粗末さには呆れ果てている。
平成24年10月7日
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典