鳥取木鶏会 10月例会  平成25年10月7

言志耋録(てつろく)50.  霊光は真我

端坐して内省し、心の工夫を做すには、宜しく先ず自ら其の主宰を認むべきなり。省する者は我れか。心は()と我れにして、()も亦我れなるに、此の言を為す者は果して誰か。()れを之れ自省と謂う。

自省の極は、(すなわ)ち霊光の真の我れたるを見る。

岫雲斎

きちんと座り、内心を省み、心の修養をするには、先ず自ら自己の本体を認識しなくてはならぬ。「内省する者が自己であるか、それとも、内省されるものが自己なのか。心は元々自己であり、肉体もまた自己である。それなのに、この言葉を発する主体は果して誰なのか。」こうやるのが自己反省ということなのである。このような自己反省の窮極は、霊妙な良心の光が真の自己であると知るに至るのである。

日常過程12条より 

誰でも心すべきことは、「黎明即起(そっき)し、醒後(せいご)霑恋(てんれん)する勿れ」であります。夜が明けたらならすぐ起きる。しかもフラーッと起きるのじゃない。即起である。そして、目を覚ましてから後は、霑恋(てんれん)するなかれ、「(てん)」と言うのは「うるおう」と言う字、ぐずぐずする、ひたるという意味。霑恋(てんれん)するなかれ。ああ眠いなとか、いい気持ちだな、もう少し寝床の中でうとうとしていたいなんて言って、ぐずらぐずらするのを霑恋(てんれん)という。目を醒ましてからはぐずぐずかるなと、これは誠にいい格言です。  

佳書

 それにしましても、もの世の中に本と言うものがなかったら人間はどうなるのでしょう。よくよく偉い人のほかは実にくだらぬことばかりして、無駄な苦労をして途中でへこたれたり、精神病者になって心を悩むかもしれません。少なくとも何より寂しいでしょう。

 然し、書物の氾濫も困ったものであります。殊にこの頃のように安っぽい新聞、パンフレットや大衆の俗な心理に挑む週刊誌など、こんなものは「書」の中に入りません。ここに言う「書」とは、それを読むことによって、我々の呼吸、血液、体液を清くし、精神の鼓動を昴めたり沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書物のことであります。

 佳い食べ物も宜しい、佳い酒も宜しい、佳いものは何でも佳いが、結局、佳い人と佳い書と佳い山水との三つであります。しかし佳い人には案外逢えません。佳い山水もなかなか会えません。

 ただ、佳い書物だけは、いつでも手に取れます。不不幸にして佳い人に逢わず、佳山佳山に会わずとも佳書だけには会いたいものである。佳書によって、私たちはしみじみと自分自身に話すことが出来る。天地が壊れる時も、ああ天地が壊れると語れるのであります。これが天地の外に立つということであります。

                (人生の五計)