日本の神様

 平成10年1月4日 日本海新聞潮流に寄稿

一 今年のお正月も全国各地の神社に大勢の人々がお参りした。例年の事にて特に目新しくはない。
  元旦とか出産とか入学とか人生の折り目折り目に心を新たにしたい時われわれは神社に参拝する。この島の人々が縄文時代から自然にやってきた事だ。
現在のわが国の神社総数は約十一万その内神社庁管轄は約八万と聞く。九百二十七年の延喜式当時各集落の小さな祀も含め既に八万以上あったらしい。先祖様も神様を祭るのが好きで神様と共に生きてきた民族だとつくづく思う。
どこの国にも神話時代がある。然し日本の神は西欧的概念のゴッドと違う。キリストとかイスラムの神々は唯一絶対神で戒律を持ち異教に対し歴史的に排他的である。聖書とか神学も戒律も無い神道。仏教のような深遠な哲学も膨大な教典も無い神道。日本の神々は自然崇拝的で巨石、大樹、滝とかにも神を感じたのがわれわれの先祖だ。 
     

二 神様は架空のものであろうか。私はそうは思わない。余りにも幽遠にして学問的には実証不能であろうが架空の人を何千年も崇拝する程人間とはヤワなものではあるまい。古代に村を開拓したり稲作を教えたり火の起こし方を指導したりして民に恩恵を与えた偉大な方々であったと思う。 

三 記紀によれば天照大神の第一子アメノオシホミミから三代へてウカヤフキアヘズの子が神武天皇。即ち現在の天皇家だ。第二子アメノホヒの子孫が出雲大社の国造家だ。昭和天皇崩御の時現天皇が大嘗祭をされた。天皇しかなさらぬ行事があった。多分即位された天皇は祖霊に捧げた食事をされて祖霊と一心同体となられ祖霊の精神即ち霊、魂を受けて原点に立つ再生の儀式をされたと思う。
出雲の国造家も亀太夫神事を終えて相嘗の儀式があるやに聞く。共通している神事のようだ。両者共に祖霊を受け継ぎ自らが新たに再生し甦る儀式であろう。だから両家は二千年も存続しているのだ。毎年の儀式で精神の再生と復活が行なわれていると私はみる。


四 伊勢神宮は二十年毎に遷宮を行う。宇宙万物は変化して止まない。停滞を防ぎ生成発展の為の儀式を二十年毎に行いそれにより精神が活発化し永続して行くのは嘗の儀式と相通ずるように見える。人間の知恵を感じる。
十二月下旬の冬至は陽の死であり新年を迎え鎮守の森で打つ柏手はわれわれ庶民のささやかな再生の儀式と言えるのではないか。こうして精神が自浄作用をする。こう考えると日本民族数千年の知恵は大変なもののように思える。


五 数年前フランスの若いエリート達が伊勢神宮を見て自国の聖地は伊勢神宮程の精神性は無いと言った。他の学者も伊勢の荘厳、森厳の静寂に宗教の根源的なものを感じたと言う。新年のお宮参りもわれわれは無意識の内にその簡素美の中にそれを感じて心の安らぎを覚えてきたのであろう。


六 このように自然に見てくると明治以降特に昭和十年頃からの神社即ち日本の神様は軍部に利用されてしまったと断ぜざるを得ない。真の姿がここ数十年で一部日本人にも勿論外国にも誤解されている。  

七 私は神とは大自然、宇宙を動かす理とか法則と言うか森羅万象に満ち満ちている力の様なものではないかと思ってみたりする。その理法に対して多少の矛盾とか反則に一々拘泥しないが宇宙の理法に反する事は何時の日にか必ず摘出されるのではないか。何故なら人間も大自然の一生命に過ぎぬから。


八 自然と言えば歴史家で著名なトインビーであったか文明は必ず滅亡する事実から西欧的考察で行き詰まり東洋的自然観即ち大自然の理法を学び遂に易経の変化の原理で開眼したと読んだ事がある。

     

  窮すれば変ず。変ずれば即ち通ず。

この哲学では物事は行き詰まる事は無い。日本国の現況は行き詰まっている。今直ちに為すべき事は自らが変ずる事ではあるまいか。これは大自然の理法にも適い日本の神様にも通ずる。        完
                                    徳永圀典