ウン、ウン  平成10年11月1日  日本海新聞潮流に寄稿            

最近私の体験した事象。
@大阪は千里中央駅のセルフ型喫茶店に入る。能勢の奥にハイキングする為の時間調整で ある。受付に若い女性が数人立ち並んでいる。白人女性を選んで行く。イラッシャイマ セ、何になさいますか。お席はご自由にどこにでもおかけ下さいませ。違和感の無い柔 和で心のこもった応対である。ケレンミも全く無く完璧で、抑揚といい発声といい教養 ある日本の良家の子女のそれであった。素晴らしく礼儀正しい日本語で応対され内心ア ット驚く。

A鳥取市内の某著名小売店での事。品のいい老年の男性が品物を探している。使い方が分 からぬのか遂に女店員に尋ねた。この品はどおして使うのですかと会話が始まる。老人 の質問に対して女店員はウン、ウンと言い頷いている。数分後この老人は突然怒鳴り声 をあげた。何と言うものの言い方か。ウン、ウンとは失礼ではないか。私は君の友達で はないんだ、お客なんだと。


Bさる五月NHKテレビでアフガニスタンの事情が放映された。若い決して見かけは豊か でない青年が粗末な家の土間で土器か何かを作っている。レポーターが話しかけた。な んと、その青年から返った日本語の流麗で礼儀正しく素晴らしく美しい事か。これも完 璧な教養溢れる日本語である。真実驚いた。日本語も礼儀正しい態度も敬語も日本でキ チント学んで帰国したのであろう。美しい日本語に鮮烈な感動を覚えた。     
Cこれも大阪は梅田の喫茶店で。旭屋書店で専門新刊書を探して立ち疲れを癒す為に喫茶 する。私は本を読んでいた。レジを済ませたらしい男性が突然怒鳴り声をあげて女店員 に言う。ウン、ウンとは何だ、バカにするなと。彼女はポカンとしている。そう言えば スーパーでも同様のケースを見聞した。

D芸術大学の学生が集団で下登校する阪急電鉄某駅での事。仲間同士でありウンウンは至 極当然、気にならない。然し凄い会話が行き交っている。女学生はクワエ煙草でオマエ とか何とかイヤハヤ仰天した。えらい時代となっている。


Eスポーツ開会式の時、選手代表が宣誓するがあの奇妙な発声と抑揚のキテレツさは一体 何なのか。あれは日本語であろうか。例をあげれば際限が無い。本家本元のイヤな日本語が恥ずかしい。それに比べて外国人の日本語は素晴らしい。テレビでも外人の礼儀正しい日本語をよく聞く。彼等はキチント学習している。然し日本の若い青年男女から正統派の日本語はトンと聞かない。これが日本の高等教育を受けた人々だとすると戦後日本の教育は根本的に大間違いであったと言わねばならぬ。学校は資格だけのバーチャル世界となっている。
自国語の基本を知らずして英語を幼児から教えるのは英語国民となるに等しい。英語国の思考、文化伝統を言語を通して無意識に受け入れるからだ。日本の文化伝統を知らぬままに成人となるのは恐ろしい。これでは日本国は廃れる。司馬遼太郎氏が正しい言葉遣いは人生の全線優待パスだと言った。日本人としての教養、素養の面からもそうなのだ。自国の言語や歴史文化伝統を正しく身につけなくて何が国際化か。外国からバカにされるだけだ。

相手を大切にと言うことは相手の人格に敬意を表わす事だ。その第一の方法は礼儀正しい言葉を使う事だ。若い人達がこんな事では日本人としての求心力が失われる。国家としての体を成さなくなる。世の乱れは言葉と思想から発する。既にその兆候は発現している。守り続けるべき伝統文化の最たるものは民族の言葉であろう。


人間は一袋の血袋を持つ生き物だ、そこらの動物と変わらぬ。犬でも猫可愛がりすると人間より上と思い人間に噛み付くようになる。現在の日本の状況と酷似している。

戦後、國家とか連綿たる民族の誇りを教えないから今日の結末を招いたと言える。なさけない國となってしまった。美しい日本語に関心を持とう。日本語は外人経営の日本語塾で教われと皮肉の一つも言いたくなる昨今である。 
                    鳥取木鶏クラブ 代表 徳永圀典