蟻の熊野詣で 平成10年3月16日 日本海新聞潮流に寄稿
一 友人の文化ショック
昨年の晩秋、東京の友人と永年の懸案であった紀伊の熊野古道を歩み熊野本宮参詣の念願を果した。三泊四日の日程である。伊勢志摩の出身である友人は熊野本宮の重厚なる拝殿に柏手を打ち終えると声をあげて驚いた。拝殿は四社あるが右端に天照大神が祭ってあるからだ。真中の主祭神はスサノオである。伊勢人の彼には屈辱的ですらあったのであろう。
二 熊野本宮
歴代上皇、法皇が平安鎌倉以降延べ百数十回遥々京の都から一ケ月以上費やしていわゆる蟻の熊野詣でをした歴史的事実。中世では皇室の深い信仰の対象であった。源氏や平家を手玉に取ったあの後白河上皇は実に延べ三十四回参詣されている。何故であろうか。
三 熊野古道に就いて
梁塵秘抄に記載されている[熊野へ参らむと思へどもかちより参れば道遠し。すぐれ
て山きびし、むまにて参れば苦行ならず、空より参らむ羽たべ若王子]。
簡単ではな
い事が分かる。京都の鳥羽から淀川を下り大阪天満橋付近で上陸。泉州を通り紀の国に入る。田辺から山間の中辺路を進み伏拝峠を越えて本宮に到る。現代でも三泊四日
は必要。その道には大阪から本宮迄九十九の王子と言う祠がある。中辺路の滝尻王子
から登山となる。
私達は先ず日本では数少ない紀伊田辺のナショナルトラスト天神崎
近くの宿で合流した。上皇とか法皇の通った道と軽く考えていたのが実は大きい間違
いであると気づいたのは午後三時頃であった。朝9時に滝尻から登山開始したのに三
時には谷の中は真っ暗となり宿への不安がよぎった。それ程険しく長いのである。京都から熊野への往復は約七百キロ。そんなにしてまで三十四回も参詣したあのアク
の強い後白河上皇。なぜであろうか。
四 出雲の熊野大社
実は紀伊の熊野本宮は私の研究では出雲の意宇にある熊野大社から勧請されている。異説は無い事は無いが。ここらあたりから私の興味は津々と深まり出雲の神様の研究
を始めて何年になろうか。この大社の祭神は当然の事ながらスサノオ。八重垣神社に
祭られているスサノオとクシイナダ姫。平安時代に巨勢金岡が描いた秘宝の大絵馬着
色神像にはこの夫婦の側に楚々としたアマテラスと娘のイチキシマ姫が描かれている
。何かを物語るように。全国でスサノオを祭る神社の夥しさも気にかかる。
五 中辺路の王子
古道の途中に高原熊野神社という小さな祠がある。巨大な楠の古木が林立し現皇太子
様の参拝記録があり登山好きな皇太子に親近感を抱く。ここら辺の風景は素晴らしく
のどかで明かるい。ここに住んでいれば人間世界で円が高かろうが株が暴落しようが
関係なく暮らせる。人間の暮らしとはそんなものであって欲しい。現代はどこかで間
違ってしまったとここでは思う。百円で十五ケもある小さいミカンが実にうまい。無
事に宿に到着し親切なお婆さんの手料理と鄙びた風呂に仄々とする。お爺さんの古道
解説も面白く夜の更けるのを忘れた。
翌朝6時出発、九時間歩き詰め、途中から里に抜けられない。さすがに疲れるが本宮
に到着して参拝する清々しさは凡ての労を忘れる。古代から著名な熊野牛王神符を拝
受し念願成就。その夜の湯の峰温泉の爽快なこと。
六 壮烈な自然破壊
帰途、瀞八丁を遊覧して新宮に出るべくバスに乗る。乗客は我々二人だ。熊野川の上
流であるが豪快な渓谷美で紅葉の時は素晴らしいであろうと話していた。山を越えた
途端にバイパス建設で大渓谷が無残に破壊されコンクリートの橋桁が渓谷の上に跨が
っている。乗って来た地元の老婆も運転手も今迄のままで良いと言う。一体どんな合
意を得て誰がこの何千年何万年かかって出来た大自然の破壊を決断したのであろうか
。自然破壊の報復を地球規模で人間は受けつつあるのに許せない思いだ。後味の悪い
印象が残る。それでも春が来る。新緑によみがえる山々が待遠しい。 完 徳永圀典