お金の社会学? 平成10年7月2日 日本海新聞潮流に寄稿

 
ここ十数年金まみれ現象が続いた。とどまるところ無し。歴史を顧みれば珍しい事ではない。大正時代、船成金の内田信也は列車の転覆事故に遭い叫んだ。俺は神戸の内田だカネは幾らでも出す、助けて呉れと。山本唯三郎とか傍若無人なカネの使い方の語り草は多々ある。バブルが終わると相場は大暴落し投機の限界は必ずくる。大きい山の後は破綻、これは歴史が示す原則。

 元禄時代[紀国屋ミカンのようにカネをまき]。紀国屋のように自分の度胸と才覚で儲けた金を惜しげなく使うのは許せる。現代の金にまつわる話は紀国屋時代と違い何かコソコソとインチキ臭くてウソが多く暗くてやり切れない。


卑しさのある所[金は不浄に集まる]と言う諺の通りだ。[浮世の沙汰も金次第]これも真実を突いている[金が人も世も悪くする][金は凡ての諸悪の根源]昔の人はチヤアーンと真理を見抜いている。金に色は着いていないが持つ人の心色でしようね。金の使い方即ちソフトに教養、人格気質とか哲学が表現されますね。
カネと権力は麻薬ですね。余程の哲学と教養と克己心が無いと。諺にもあります[金箱の底に厄神が住む]昔の人は良く見ている。それでも身に着かないのが人間[親子の仲にもお金は他人]職業柄こんな現実を多く見て来ました[悪銭身につかず]良く当たっている。企業でも個人でも金があるだけでは長く続くわけではありません。若い者に金と暇を与えたらろくな事にならないのも真理。

バブル期に公職者の卑しさに端を発して汚職やスキャンダルが多発。これは公職者側の禁欲哲学の欠如が原因。その方法は金と酒と女。人類不変の現実的真理。一度踏み外すととめどない誘惑執着が襲いかかる。恥も外聞も忘れ行き着く処迄行かねば目が覚めない。ワイロは何時の世にもある。奈良時代迄は殆どが土地だが平安時代以降は官位、土地、女となる。現代は接待、女、酒、ゴルフ。中元歳暮なんて可愛いもんだ。ノーパンシャブシャブは大蔵官僚のステイタスシンボルか。

 さて改めてお金。色々問題を引き起こすお金。人間がひたむきに求め続けるお金。人間カネ無しでは生きて行けぬ。確かにお金は限りなく人間を幸せに近付けるのも事実。だが幸せそのものはカネでは得られないのも真実。人間にとり一体カネとは何なのか。問題は金と云うハードにあるのでは無くカネの使い方とか得る方法の言わばソフトに問題がある。扱い方です。これは中々深いものがある。普通の人は儲け方より使い方が賢明でなくてはと云う事でしょうね。かく申す私も怪しいものだが。

 日本人と欧米人とか華僑、東京と大阪、金銭感覚が違いますね。一代で成功した松下幸之助、本田宗一郎、森ビルの森泰吉郎氏など日本人は禅僧の如く枯れた風貌となり財布を持たない。欧米人は宝石を飾りたてパイプをくゆらせパリッとする。また尊敬される。日本人は一代ではと言う処がある。商売でも華僑、アラブ、ユダヤは世界三大商業民族。夫々大人口民族、砂漠の民、迫害された民族。中国の老獪な老酒、ラオチューと日本の初心な酒、生一本酒の違いとでも言いますか。島国農耕民族とは違う。

第一、徳川家康は[商は詐なり]詐ですよ詐と言い商を士農工商の最後にしたのだもの。その名残りがまだある。江戸商人の金銭哲学は[小富は勤にあり大富は天にありされど天をあてにせず][富貴には上なく欲は果てなきものなれば人の富貴を羨む事絶ゆる時なし。足るを知れば貧しくとも富み足るを知らねば富めども貧し]と慎ましい。


 処が日本人は今や世界一の金融資産を持つがテンデその自覚が無い。世界のマネー界は狡知で猛々しい。老酒の外国商人と太刀打ちできますかね。出来ないね。やられるね。自己責任とか規制緩和とは機会の平等の事で結果平等で育った日本人には中々だ。自由経済の結果、貧富の差が極度に拡大する。人並みな事をしていては負け。人の考えない事を考え大儲け出来る経済が自由経済なのだから。横並び、人の振り見てでは勝てない。個性化が必要。日本人ここが本当に分かっているのか。心配だなあ。 完 
                       鳥取木鶏クラブ 代表 徳永圀典