無上の幸運-安岡正篤先生のこと

         平成6年5月号 関西師友に掲載さる。
         平成10年8月2日 日本海新聞潮流に寄稿




昭和20年8月15日の敗戦当日私は旧制鳥取一中(現鳥取西高校)を休学中で病に臥せていた。飛行場建設の勤労動員による過労が肋膜炎を起したものの小康を得ていた。不穏な情勢のさ中、小さな町の噂が耳に入る。ソ連が攻めて来ると。この時、本能的恐怖を感じた事を忘れる事が出来ない。翌年になると中国に出征していた軍人が続々と帰国し始め家族たちは喜びに咽んだ。

そして聞く戦争中あれ程悪人扱いした中華民國の蒋介石総統が[怨みに報ゆるに徳を以てす]と云い日本人を全員無事帰国させると云う。これは少年の心に強烈なインパクトを与え東洋思想に魅せられる端緒となるが出典は『老子』と知る。爾来私はご恩を強く感じご逝去後は何時の日にか日本人として御礼の墓参をしたいものと心に秘め続けていた。  

時改まって昭和50年頃私は住友銀行の某支店長であった。某病院の理事長と懇談した折私は偶然この思いを打ち明けた。そして数日後、理事長から安岡正篤先生と料亭たに川で夕食をするから出席せよとの事。恐いもの知らずの私は快諾する。

そのお方とは誰あろう、安岡先生の40年来の愛弟子であり篤実なる安岡教学の実践者である美原病院の創立者理事長の片岡菊雄先生である。理事長の兄上、片岡勇蔵河内師友会会長との四人である。

初めてお目にかかる安岡先生に未熟者でございますがとご挨拶申し上げる。
これは、これはのご挨拶痛み入るとのお言葉。当時住友銀行の部店長を対象に行われた先生の講義〔東洋思想十講ーー人物を修めると云う書物となる〕とか明治以降の住友銀行幹部との交遊についてのお話を謹聴する。

初対面が宴席の場で恐れ多きこと乍ら幾度も盃を賜り感激する。心胆から発せられる厚重なる美声、どっしりとされて威厳と慈愛が漂うご風格は今にして思えば菩薩の如しである。巨人、哲人とはかかるお方を申すのかと身も心も緊張し震える思いでありながら先生の暖かさに包まれていた。

至福とはかかるものかとしっかりと先生をみつめる。私の人生で最も偉大なる人物との出会いの歴史的瞬間である。住友銀行勤務の最高の副産物にして無上の勝縁であり邂逅である。

清談は尽きざるも時流れて陶然たる親和が醸成される。先生は悠々たること泰山の如しである。
やがて女将が筆と色紙を持参する。思いもかけぬのに安岡先生が私の為に書してご説明賜る。「修徳永善是圀典」と。

ほどなくして片岡理事長から蒋介石総統のご廟参拝のお誘いを受ける。安岡先生の紹介状あり台湾に公賓として入国した。そして多年の念願がかない墓参するを得た。日本人として何か胸のつかえがおりた思いがした。

その際歴史上の人物である何応欽将軍も訪ねた。蒋総統の右腕であった王新衡氏にも会ったが安岡先生の色紙の話が出ると直ちに色紙で呼応された。「録安岡先生句呼応 修徳永善是圀典」と。
両国をある面で代表する大人物の色紙に私は感激しご縁の深さに思いを新たにした。

安岡先生の良く仰った多逢聖因 縁尋機妙(たほうしょういん えんじんのきみょう)の不可思議さを噛みしめた。

爾来私は銀行時代を通じて安岡先生の色紙を支店長室に掲げ朝夕仰ぎみて身を律した。そして心ある方には先生の著書百朝集を差し上げた。延べ百冊近くとなろうか。

現在先生の書物は書店に多数見られ多くの方々に読まれている。当時は先生の方針で書物の刊行は無く片岡理事長推薦の〔偉大なる対話ー近鉄での講義〕を拝借した。
毎朝15分間支店長室で心を澄ませて大学ノートに写本を始め2年近くかかって完成した。
一方で先生の講義は欠かさず拝聴し伊勢神宮参拝時には片岡理事長と共に私淑して謦咳に接した。それは私にとり最高の形而上的楽しみとなっていた。そして安岡教学が次第に私の心のまた人生の大きい支えとなっていく。

歴代宰相の師であられた先生がご存命ならば現今日本をどおご覧になるであろうか。今なお先生の徳風を日々お慕いしてやまない。
 
  顧りみて恥多きかな還暦をはや過ぎたるになお到らざる

と反省するばかりだが帰郷して鳥取木鶏クラブを創設して心ある同志と人間を語り合い道縁の一燈をささやかにかざして十年過ぎた。世相の悪化を悲しみ日本の未来を憂いながら。これからも先生の一燈照隅の心で歩んで行きたいと思う。
          鳥取木鶏クラブ代表 徳永圀典 


徳永善是圀典
  
戊牛秋晩 老学正篤 
       
戊牛は昭和53年となる