佐藤一斎「言志晩録」その一 岫雲斎補注 

 

言志晩録は292条、佐藤一斎先生が67歳より78歳まで凡そ12年間に記されたもの。学問、修養、倫理、道徳、政治、法律、風流に至るまでの人間生活のあらゆる局面に於ける、身の処し方、心構えが説かれている。

 

はしがき

 単記すること積年、又一堆(いったい)を成す。輯録(しゅうろく)するに及びては、則ち(ほぼ)類を以て相従う。事も亦多く(かつ)()くの後に係れり。録は天保戊戌孟陬(てんぽうぼうじゅつもうすう)の月に起り、()(えい)()(ゆう)仲春(ちゅうしゅん)の月に至る。 一斎老人自ら題す。

 

岫雲斎

 一条づつ書いたものが年を重ね、また一と積みとなった。これを編修する為、少し整理し同類のものを集めた。記述内容は仕官後の事に関係している。これは天保9(67)正月に始まり嘉永2(78)2月に至るものである。   一斎老人記述

 

1.  為学(いがく)為政(いせい)

学を為すの緊要(きんよう)は、心の一字に在り。心を()って以て心を治む。之を聖学と謂う。(まつりごと)を為すの(ちゃく)(がん)は、情の一字に在り。情に(したが)って以て情を治む。之を王道と謂う。王道、聖学は二に非ず。

 

岫雲斎

 学問をするに当り最も大切な事は「心」の一字である。自分の心をしっかりと把握し、これを治める。これを聖人の学という。政治をするに当り第一の着眼点は「情」の一字にある。人情の機微に従い人々を治める。これを王道の道というのである。これら王道の道と聖人の学とは実は一つであり、二つではない。

 

2.  (きょう)(けん)二則 その一

狂者(きょうしゃ)は進みて取り、(けん)者は為さざる所有り。()()(ぜん)(ゆう)(こう)西華(せいか)は、(こころざし)進み取るに在り。曽皙(そうせき)は独り其の撰を(こと)にす。而るに孟子以て狂と為すは何ぞや。三子(さんし)の進み取るは事在りて、曽皙の進み取るは心に在り。

 

岫雲斎

 志高く一意のみに突進する者は進取の気性がある(狂者(きょうしゃ))。引っ込み事案ばかり((けん)者)で進取の気性に欠ける者は不善不義をなさず自守(じしゅ)がある。孔子は門弟の子路、(ぜん)(ゆう)(こう)西華(せいか)曽皙(そうせき)に対して、志を言わせた。(論語先進篇24)曽皙(そうせき)以外の三人は進取の気性ある志を述べた。曽皙(そうせき)は「暮春(ぼしゅん)には春服既に成る。冠者(かじゃ)5-6人、童子6-7人、()(すい)の温泉に浴し、舞?(ぶう)の辺りで涼風に吹かれ歌いながら帰ってきたい」と言う。孔子は「我は曽皙(そうせき)に与みせん」と褒められた。然し孟子は、この曽皙(そうせき)を狂者としたのは、どういう理由なのか」自分が思うには、三人の進取的なのは「事柄上」のことであり、曽皙(そうせき)の進取的であるのは「心の上」にあるのだろうと。

 

3.   (きょう)(けん)二則 その二

 曽皙(そうせき)は齢老ゆ。宜しく老友を求むべし。(かえ)って(かん)(どう)を求め、幽寂(ゆうじゃく)を賞せずして、卻って?(えん)(よう)を賞す。既に浴し且つ(ふう)するも、亦老者の事に似ず。此等の処、(すべか)らく善く狂者の心体(しんたい)(たず)(いだ)すべし。

 

岫雲斎

 曽皙(そうせき)が孔子と問答の時は既に42-43歳で老境であった。だから老人の友を求めるべきであるのに、冠者、童子と若い者を求め、老人の好む幽寂な風趣を愛でず、却って艶美で陽気な風趣を愛でるなど老人のすることに似ていない。曽皙(そうせき)がこれをしたのは志が高く進んでなんでもやろうという狂者の心体の持ち主であったからだと。

 

4.  修養の工夫

吾人(ごじん)の工夫は、自ら?(もと)め自ら?(うかが)うに在り。義理混混として生ず。物有るに似たり。(げん)頭来処(とうらいしょ)を認めず。物無きに似たり。

 

岫雲斎

 自分の精神修養上の工夫は、自分の心の状態を知ること、自らそれを視察することに在る。さすれば、正しい道理が滾々として水が流れ出るように、そこに何物が在るかが分る。その根源は何処にあるか不明であり何物もないようでもある。これが心の本体というものであるようだ。

 

5.  胸中虚明

(きょう)()(きょ)(めい)なれば、感応(かんのう)神速(しんそく)なり。

 

岫雲斎

胸中が空っぽで透明であれば、誠心が通じて、その感応は実に神の如く迅速である。

(人間、真空の部分があるから人を惹きつける。()の一杯詰まっている人間に人は寄り付かない。)(こだわりの無い所に悟りの心が生まれる。)(応無所住而生(おうむしょじゅうにしょう)()(しん))

 

6.  心は(たいら)なるを要す

心は(たいら)なるを要す。(たいら)なれば則ち(さだま)る。気は()なるを要す。()なれば則ち(なお)し。

 

岫雲斎

 心は常に平安が望ましい。心が安らかであれば自ずと安定する。気は()わらぐことが必要だ。さすれば何事も素直に真っ直ぐに行うことが出来る。

(心、平らかなれば寿(いのちなが)し。白楽天)(長寿者は心が安らかな人が多い。菜根譚)

 

7.  ()は地、心は天

人は皆仰いで蒼蒼(そうそう)たる者の天たり、俯して?(たい)(ぜん)たる者の地たるを知れども、而も吾が()()(もう)(こつ)(がい)の地たり、吾が心の霊明知覚の天たるを知らず。

 

岫雲斎

 人々は、空を仰いで青々と際限なく広がるものが天であり、伏しては柔らかく固まつているのが地であることを知っている。然し、自分自身の皮膚、毛髪、骨骸などは地から承けたものであり、心の霊明にして知覚ある事は天から享受したものである事を知らずにいる。残念である。

 

8.  沈静(ちんせい)なる者と快活なる者

人と()り沈静なる者は、工夫尤も宜しく事上(じじょう)の練磨を勉むべし。恢豁(かいかつ)なる者は、則ち工夫宜しく静坐修養を忘れざるべし。其の実、動、静は二に非ず。(しばら)(やまい)に因って之に薬するなり。則ち是れ沈潜(ちんせん)なるは(ごう)もて(おさ)め、高明なるは柔もて(おさ)むるなり。

 

岫雲斎

 沈着な人物は精神修養の工夫は実際の仕事で鍛錬するのが良い。快活で落ち着きのない人間は、静坐して沈思し、修養工夫を忘れないことが肝要である。前者の方法は動的であり、後者は静的であるが、実は動と静と二つあるのではない。病気に応じて薬を処方するようなものである。則ち、引っ込み思案の人間には(つよ)い行いでその欠点をおさめ、出過ぎ易い人物には柔和を以てその欠点をおさめしめるものである。   10月 完