佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その六 岫雲斎補注  

わが鳥取木鶏会で言志録四巻を5-6年前に輪読し学んだ。このホームページに記載されないのが不思議だとの声が関西方面からあった。言志禄は、指導者たるべき者の素養として読むべきものとされたものである。言志四録の最後の言志耋録(てつろく)佐藤一斎先生八十歳の著作である。岫雲斎圀典と同年の時である。そこで、思いを新たにして、多分に、愚生の畢生の大長編となるのであろうが、言志四録に大挑戦することを決意した。
平成23530日 岫雲斎圀典


平成23年11月度

 1日 149

「信」三則

その二
臨時の信は、功を平日に(かさ)ね、平日の信は、効を臨時に収む。 

岫雲斎
突発的な出来事を巧く処理して信用を取ると、以後ますます信用が高まることがある。
また、逆に平素の信用があるから緊急に際し手腕を発揮することもある。

 2日 150.   

「信」
三則
その三
信、上下に()すれば、天下甚だ処し難き事無し。 

岫雲斎
上下に信用があれば、この世で出来ないことはない。
蓋し名言であり心すべきである。

 3日 151.  

責善の道
善を責むるは朋友の道なり。只だ須らく懇到(こんとう)(せっ)()にして以て之に告ぐべし。然らずして、徒らに口舌(こうぜつ)()りて、以て責善の名を博せんとせば、()れ以て徳と為さず、(かえ)って以て仇と為さん。益無きなり。 

岫雲斎

朋友は善をなすように責め合うものである。
ただ、その忠告は懇ろに丁寧でなくてはならぬ。そうでなく、口任せの忠告は、善を勧奨するという美名だけのもので、友人は感謝せず寧ろ仇と思うことであろう。
そうなると忠告は全く無益の極みとなる。

 4日 152

誠の蓄と不蓄
(たくわ)うること厚ければ発すること遠し。誠の物を動かすは、(しん)(どく)より始まる。独()るとき能く慎まば、物に接する時に於て、(はなは)だ意を()けずと雖も而も人(おのずか)(かたち)を改め(うやまい)を起さむ。独り処るとき慎む能わずんば、物に接する時に於て、(こころ)()けて咯謹(かっきん)すと雖も、而るに人も亦敢て容を改め敬を起さじ。誠の(ちく)不蓄(ふちく)と其の感応(かんのう)(すみやか)なること(すで)に此くの如し。 

岫雲斎

誠の蓄積が多いとこれは遠くにまで顕れてくる。
誠が物事を動かすのは慎独から出ている。独り居る時に慎むことの出来る者は、人物に接した時、格別用心せずとも自然に(かたち)を正して敬意を表わしている。

この慎独の習慣がなければ、人に接する時、用心して謹んで見せても人は決して容を正し尊敬の念を払うことはないだろう。

誠が蓄えられているのと、そうでないのとの感応の速いことは、このようなものだ。
 

 5日 153
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心の誠否

(こころ)(せい)()は、須らく夢寐中(むびちゅう)の事に於て之を験すべし。 

岫雲斎

自分の心が誠であるかどうかは睡眠中の夢で試みるがよい。(平生考えている事は夢に顕れる)

 6日 154

「敬」六則 
その一

妄念を起さざるは是れ敬にして、妄念起らざるは是れ誠なり。 

岫雲斎
下らぬ考えを起さないのが敬である。下らない考えが起きないのが誠である。

 7日 155
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「敬」六則 その二

敬能く妄念を截断(せつだん)す。昔人(せきじん)云う、敬は百邪に勝つと。百邪の(きた)るには、必ず妄念有りて之が先導を為す。 

岫雲斎
敬が心にあれば下らない妄念を断ち切ってしまう。
古人は「敬は諸々の邪悪に勝つ」と言った。色々な誘惑が来る時は必ず初めに下らぬ考えがあるからだ。

 8日 156
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「敬」六則 その三

一箇の敬は許多(きょた)の聡明を生ず。周公曰く、汝其れ敬にして百辟(ひゃくへき)(きょう)()り、亦其の不享(ふきょう)の有るを識れりと。既に(すで)に道破せり。

岫雲斎
敬は人を非常に聡明にする。昔、周公が、兄・武王の子の成王に「汝は常に謹み、諸侯が持参した貢物を受けるか否かを知るがよい」と言った。これは誠があり来た者と、そうでない者とを敬の一字で聡明に識別せよだが、既に喝破しておる。

 9日 157
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「敬」六則 その四

敬すれば則ち心清明なり。 

岫雲斎
心に敬があれば、妄念なく、いつも清々しく晴れやかである。

10日 158
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「敬」六則 その五

己れを修むるに敬を以てして、以て人を安んじ、以て百姓(ひゃくせい)を安んず。(いつ)に是れ天心の流注(りゅうちゅう)なり。 

岫雲斎
自己を修めるのに敬を以てすれば、人々を安んじることができる。それは天下人民を安んずることとなる。敬は天の心の流れ来たものである。

11日 159.

「敬」六則 その六

敬を(あやの)り認めて一物と()し、胸中に放在すること(なか)れ。但だに聡明を生ぜざるのみならず。(かえ)って聡明を(ふさ)がん。即ち是れ(わざわい)なり。(たと)えば猶お肛中(とちゅう)(かい)有るがごとし。気血之れが為に渋滞して流れず。即ち是れ病なり。 

岫雲斎

敬を誤って放置してはいけない。
そうすると賢明な働きをしないばかりか、賢明さを塞いでしまい災いとなる。

例えば、腹中に塊があるようなもので、血液が滞り流れないのと
同様である。

これは病気だ。

12日 160

死敬
人は明快灑落(しゃらく)(ところ)無かる可からず。若し徒爾として畏縮し?()するのみならば、只だ是れ死敬なり。甚事(はなはだこと)をか()し得む。 

岫雲斎
人間は、明快に気持ちよい、さっぱりした処がなくてはならぬ。もし徒に縮み上がり、グズグズするばかりでは、活きた敬ではない。それは死敬であり何事もなすことは出来ない。

13日 161
胸臆
胸臆(きょうおく)(きょ)(めい)なれば、神光四発す。  岫雲斎

心にわだかまりが無ければ、精神が四方に光り輝く。
14日 162.   

(ひき)いて気従う
耳目(じもく)手足(しゅそく)は、()べて神帥いて気従い、気導きて(たい)動くを要す。 

岫雲斎
耳目手足が動くのは全て精神が率いている。次に気がこれに従う。
この気が導いて体が動くということが肝要である。

15日 163.

色欲論二則
その一

学者は当に徳は(とし)と長じ、業は年を()いて広がるべし。四十以後の人、血気漸く衰う。最も宜しく牀?(しょうし)を戒むべし。然らずんば神昏(しんくら)気耗(きもう)し、徳業遠きを致すこと(あた)わじ。独り戒むること(わか)き時に在るのみならず。 

岫雲斎

学問の徳は年齢と共に進み、学業が年々広がってゆく。

40歳を過ぎると血気が次第に衰えるから閨房は慎むがよい。さもなくば、精神・気力も衰え学徳の達成に到らぬこととなる。
閨房の慎みは若い時だけでなく40歳以後の人も戒めるべきである。

16日 164.

色欲論二則

その二

少壮の人、精固く(とざ)して少しも漏らさざるも亦不可なり。神滞(しんとどこお)りて()びず。度を過ぐれば則ち又(おのずか)?(そこな)う。故に節を得るを之れ(かた)しと()す。飲食の度を過ぐるは人も亦或は之れを(ただ)せども、淫欲の度を過ぐるは人の伺わざる所にして、且つ言い難し。自ら規すに非ずんば誰か規さん。 

岫雲斎

若くて盛んな人が、精を極端に抑圧するのは良くない。

精神が停滞して豁達でなくなる。
だが、度を越すと体を損う。節度が必要であるが難しい。飲食の度を過ぎるのは人も注意するし規制し安いが、閨房の度を過ぎても他人には分らない、また口に出し難いものだ。
自分が規制しなければならないものだ。

17日 165. 

活上の節度

民は水火に非ざれば生活せず。而れども水火又能く物を焚溺(ふんでき)す。飲食男女は、人の生息する所以なり。而れども飲食男女又能く人を?(しょう)(がい)す。 

岫雲斎

人間は水と火が無ければ生活できぬ。
然し、水は人を溺らせ、火は物を焼く。
飲食や男女の交わりは生きる上に必要なものであるが、この二つは人を害する危険性がある。

18日 166.  

儒者の心得三則 その一
学を為すに、門戸(もんこ)標榜(ひょうぼう)するは、只だ是れ(じん)(よく)(わたくし)なり。 

岫雲斎
学問をするのに、門戸に看板を掲げ学才を見せびらかすのは私欲であり、真に学問する者のなすべきことではない。

19日 167
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儒者の心得三則 その二

今の儒は今の釈を攻むること勿れ。儒は既に古の儒に非ず。釈も亦古の釈に非ず。 

岫雲斎
現在の儒学を学ぶ者は、現在の仏教を攻撃してはならぬ。今の儒学は、最早や古の儒学ではなく、仏教もまた同じだからである。

20日 168
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儒者の心得三則 その三

其の言を儒にして、其の(こう)を儒にせざれば、則ち其の言やまさ()自ら(そし)るなり。 

岫雲斎
云う所は儒者のように立派でも行為が儒学の通りでなくては、その発言は当に自らを謗ることなのである。

21日 169
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洋学の批判

泰西(たいせい)の説、(すで)に漸く盛なる機有り。其の謂わゆる窮理は以て人を驚すに足る。昔者(むかしは)程子(ていし)(ぶっ)()の理に近きを以て害と()しき。而るに今洋説の理に近きことは、仏氏より甚し。且つ其の(いだ)す所、奇抜淫(きばついん)(こう)にして、人の奢侈を導き、人をして駸駸(しんしん)(ぜん)として其の(うち)に入るを覚えざらしむ。学者当に亦淫声(いんせい)()(しょく)を以て之れを待つべし。 

岫雲斎

西洋学問が盛んとなる気配がある。それは理を極めるもので驚くべきものがある。

昔、程子(ていし)(程明道と程伊川の兄弟)が、仏教は理に近く人々を害すると言ったが西洋学問は理に近い点から申すと仏教より甚だしい。

彼らのなす、思いもよらぬいかさま事は人間を奢侈に誘導し、ずんずんその中に入るようである。

学者は洋学を、淫らな声の美女と考えて彼らのなすままに惑わぬことじゃ。

22日 170
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儒の窮理
窮理の二字、易伝に原本す。道徳に和順して、義に(すじみち)し、理を窮め性を尽くし、以て命に至る。故に吾が儒の窮理は、唯だ義に(すじみち)するのみ。義は我に在り。窮理も亦我に在り。若し外に(したが)い物を()うを以て窮理と為さば、恐らくは終に欧羅(ようろっ)巴人(ぱじん)をして吾が儒に(まさ)らしめん。可ならんや。 

岫雲斎

窮理は易に基づく、道徳に従い行動は義に適い本性を尽くし命に至るのである。

儒教の窮理は行いが義に合するかどうかで義は我に在る。
だから窮理も我に在る。
それを自分以外のものに真理を探究し窮理とするならば、我々の儒者よりも欧州人の方を優れたものにしてしまう。これで良いのか。

(これは、一斎先生少し意味が違うと思われる。)

23日 171

天道と至教
吾れ俯仰(ふぎょう)して之れを観察すれば、日月(じつげつ)は昭然として(めい)を掲げ、星辰(せいしん)燦然(さんぜん)として(ぶん)を列し、春風(しゅんぷう)和燠(わいく)にして()()べ、雨露(うろ)膏沢(こうたく)して物に(あまね)く、霜雪(そうせつ)は気凛然(りんぜん)として(しゅく)に、雷霆(らいてい)威嚇(いかく)(ぜん)として(ふる)い、山岳は安静にして(うつ)らず、()(かい)は弘量にして能く()れ、谿壑(けいかく)は深くして測る可からず。原野は広くして隠す所無く、而も元気は生々して()まず。其の間に斡旋す。凡そ此れ皆天地の一大政事にして、謂わゆる天道の()(きょう)なり。風雨(ふうう)(そう)()も教に非ざる無き者、人君最も宜しく此れを体すべし。 

岫雲斎

天を仰ぎ伏して地を見ると、日月は明らかに光輝き、星は燦然と綾をなしている。
春風は穏やかに万物を化育し、雨露は万物に普く恵みをもたらしている。
霜雪は厳粛な気の如く粛であり、雷の威光は鳴り響いている。
山岳はどっしりと不変である。河海は広く何ものも受け入れ、谷や絶壁は千尋の深さである。
野原は浩々として何ら隠す物もなく、生々として休むことなく活気を漲ぎらせ間を取っている。
全てこれらの現象は、天地の一大政事であり、天の道の至大な教えである。
風雨も霜露も教えでないものは無い。
人の君主たる者は、これらを確りと身につけておらなくてはならぬ。

24日 172.

天下の体と務
天下の(たい)、交易を以てして立ち、天下の務、変易を以てして行わる。 

岫雲斎
天地自然の本質は陰陽交代(交易)により成立している。時に従い、世の中の事も、事によりて変化する。

25日 173. 

創業と保守

吾れ古今の人主を観るに、志の文治(ぶんじ)に存する者は必ず業を(はじ)め、武備を忘れざる者は能く成るを守る。 

岫雲斎
古今の人君を見ると、文を以て治めようとする志の者は必ず創業の人物であり、武備を忘れない人は、よく後を守り続ける人物である。

26日 174

消費と生産

国家の(しょつ)()に於けるは遺策無し。園田、山林、市廛(してん)を連ね、尺地の租入を欠く無く、金、銀、銅並に署を()きて鋳出(ちゅうしゅつ)す。日に幾万計なるを知らず。而るに当今上下困弊(こんへい)して、財帑(ざいど)足らず。或ひと謂う、奢侈の致す所なりと。余は則ち謂う、特に此れのみならずと。蓋し治安日久しきを以て、貴賎の人口繁衍(はんえん)し、(これ)を二百年前に比ぶるに、恐らくは(ただ)に十数倍なるのみならざらん。之を衣食する者、年を()うて(ぞう)()し、之を生ずる者給せず。勢必ず(ここ)に至る。然らば、則ち困弊此くの如きも、亦治安の久しきに由る。是れ賀す可くして歎ず可きに非ず。但だ世道の(せめ)有る者、徒らに諸を時運に?(ゆだ)ねて、之を救う所以の方を(おもんばか)らざる可からず。其の方も亦別法の説く可き無し。唯だ之を(くら)う者(すくな)く、之を用うる者(しずか)に、之を生ずる者(おお)く、之を(つく)る者()かれと曰うに過ぎず。而して制度一たび立ち、上下(しょうか)之を守り措置宜しきを得、士民之を信ずるに至るは、則ち蓋し其の人に存す。 

岫雲斎

国家は食糧とか通貨上の問題で手落ちは許されぬ。
田畑、山林、市場に至る僅かの土地の租税収入の滞納もなく、金貨、銀貨、銅貨など造幣所で鋳出する金銭は毎日幾らあるか分らぬが当今上下とも疲弊しカネが足らぬとは何故なのか。
某氏云う、「贅沢だ」と、自分はそれのみでないと思う、考えて見ると、平和が長く続いて人口が増え、200年前と比較すれば十数倍であろう。
故に衣食する人口は年々増加するのに、それらを供給する事がそれに伴っておらぬから食糧不足は当然のことである。

だが、国が疲れたのは平和が続いたことに拠るのだから、実はこれは喜ぶべきもので嘆く必要はない。
ただ、人心を誘導する責任者は、徒らにこれを時の運に任せてきりにして、これの解決方法を考えないのは良くない。その方法は、格別変わった手段ではない。

「大学」にあるように、「働かないで食う者を減らし物品節約、生産者を増やし、生産スピードを上げる」ことに過ぎない。
このような制度が成立し、国民がそれを守り、その運営を軌道に乗せ、国民もそれを信用すれば良い。

それが成功するかどうかは、上に立つ人次第であろう。

27日 175
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いつの世にも小人あり
世に小人有るも亦(ことわり)なり。小人は小知すべく、不賢者は其の小なる者を(しる)す。()れ亦天地間()の人無かる()からず。或ひとの謂う、堯舜の民、比屋(ひおく)(ほう)()しとは、則ち過つこと甚し。但だ(とう)()の世、小人有りと雖も、??(こうこう)として自得し、各々其の分に安んぜしのみ。  岫雲斎

世の中に小人がおるが、それはそれなりの理由がある。

小人は、知識も大局観も欠けている。愚者は小人を知って助け合う。天地の間にはこのような小人がいなければならないのだ。或人謂う、「堯・舜の時代の人々はみな大名にしてよいくらい立派だった」と。これは間違いだ。当時は、小人もいたが自ら自覚して満足し各自がその分を守っていたに過ぎないのである。
外見上立派な人間ばかりに見えたのである。
28日 176
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一党一国論

方は類を以て(あつま)り、物は群を以て分る。人君は国を以て党を為す者なり。(いやし)くも然ること能わずんば、(しも)各々自ら相党せん。是れ必然の理なり。故に下に朋党有るは(くん)(どう)の衰えたるなり。乱の(ちょう)なり。 

岫雲斎

方向を同じくするものは集る。物は群れごとに分かれる。トップ指導者は、国民国民全体を以て一党となすべきである。出来ない場合、国民は夫々幾つかの党派に分れるのは必然のこと。だから、党派が出来るのはトップの道が衰えたことを意味する。

国の乱れの兆候である。

29日 177

君道と師道

聡明叡知にして、能く其の性を尽くす者は君師なり。君の(こう)(めい)は即ち師の教訓にして、二つ無きなり。世の下るに?(およ)びて、君師判る。師道の立つは、君道の衰えたるなり。故に五倫の(もく)、君臣有りて師弟無し。師弟無きに非ず。君臣即ち師弟にして、必ずしも別に目を立てず。或ひと朋友に師弟を兼ぬと謂うはあやまれり。 

岫雲斎

聡明かつ叡知ある人で良くその天分を尽くす方は君主と教師を兼ねた人物である。その場合、君主の言うことが教師の教訓となる。二つではないのだ。だが後世になると、君主と教師が分れた。師の道が立ってきたと云うことは君師の道が衰弱したからである。だから、五倫の項目に君主があり師弟は記されていない。師弟が無いわけではない。君臣が即師弟であったからで別に師弟の項目を立てる必要が無かったのである。
或る人が五倫の中の朋友が師弟を兼ねていると言うのは誤りである。

30日 178
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邦を治める道

(くに)(おさ)むるの道、教養の二途(にと)()でず。(きょう)(けん)(どう)なり。()(どう)なり。養は(こん)(どう)なり。(ぼどう)なり。 

岫雲斎

国家を治める大道は、教と養の二途のみである。

教は天道(乾坤の乾道)であり、父道である。
(乾坤の坤道)は地道であり母道である。

菅直人に教えてやりたい。