「平成に甦る安岡正篤警世の箴言」1.
安岡正篤先生ご存命中の膨大な講義は、人間的営為、大自然の造化、和漢洋の歴史等の深い思索と造詣があり、そしてそれらの中の安岡哲学は、時代を越えたものである。本講義は35年前のものであるが恰も現在の警告の如くに見える。平成の大乱世となった今、安岡正篤先生警世の真言を考えることは現代的である。
   平成19年11月                      徳永日本学研究所 代表 徳永圀典
平成19年11月度

第一講 ヨーロッパ精神

1日 深刻な内外情勢 我が国は、内外共、極めて厳しい歴史的状勢を迎えつつある。この深刻な状勢に対応する為に、日本人は常に厳しく 自らを律し、激動する時世に対処できるような充分なる胆識を養うべきである。
その為に、日本人は何をなすべきか、安岡正篤先生のお言葉の中から再考してみたい。
2日 日本の地政学的立場 現在、ヨーロッパと比較すると、東アジアは、実に混沌としている。中でも中国の歴史的台頭と、 世界の覇権国アメリカの実力低下のハザマにある日本は、極めて微妙である。地政学的に見て、日本は、非常な逆境、難境にある。
3日 未熟な日本人 日本は島国であり、大陸諸国の民族のような、治乱・興亡の経験が無い。よく言えば善良、悪く言えば未熟で、絶えざる不安、困惑がつきまとう。 時局が複雑化し悪質化し、昔のような武力戦でなく、専ら巧妙な政治戦、謀略戦の時代となると、日本は到底彼らの敵ではないものがある。日本は既に彼らに篭絡されているやに見える。
4日 練れていない日本 欧州諸国は、あの狭い地域に40ヶ国以上あり、始終戦争と平和、友好と侵略を繰り返して鍛錬されているから練れている。日本は危っかしいのである。島国の中で何かやっている時はいいが今後は、政治家も実業家もまた思想家・

学者に至るまで、よほど修業しないと日本の繁栄は難しくなるものと思われる。そこで、私が読書研究の間に、これはと注目したものの中から若干ご紹介致しますが、いづれもヨーロッパ人ならよく親しんでおる人物とその名言のなかから摘録したものであります

ヨーロッパの精神
5日 精神的怠惰
我々は身体よりも精神に於て一層安逸を貪っている

ラ・ロシュフーコー

ラ・ロシュフーコーはフランスの有名なモラリストで文学者でありますが、これを理解し易く表現すれば、怠けているととう言葉が一番適当でしょう。怠けるというと、一般には肉体のことらとりがちですが、実際は精神活動に於いて一層怠けやすいものです。
6日 使うほど良くなる頭脳

最近、大脳生理学が一つの流行になって、色々研究も進み、人間の脳の神秘な活動が相当解明されるようになりました。それによると、人間の脳と言うものは、使えば使うほ

ど、困難な問題と取り組めば取り組む程、良くなる。ちょうど金物を磨くと光るようなもので、人間の頭は使わなければいけないということです。
7日 考えない人間 処が不幸にして人間は、これを逆に考えております。その上、ラジオ・テレビ等による視聴覚文明が発達し安直にわかる印刷物・出版物が氾濫 するため自分の頭を使って考える必要が段々無くなって参りました。そこで今日の文明がさらに普及すると、人間は愈々馬鹿になるという傾向にあります。
8日 子供は早くから教えよ

数年前、専門家の出した結論によりますと、私達は頭脳の能力の十三パーセント位しか使っておらないということであります。これに関した問題ですが、先日アメリカの専門家が来日した時に「日本の教育家は、子供に余り早くから教えることはよくない」と言

うが、子供は早くから教えるほど宜しい。もの心ついたら、どんどん教えなければならぬ」と言うて警告しておりました。頭脳を遊休施設にするということは非常に勿体無いことです。出来るだけ難問題と取り組み、頭を使うようにしなければなりません。
9日 利欲は真の富も友もつくらない 美徳は河が海の中に消え去るように、利害打算の中に消える」。「利欲はいくらも富を作らない。利欲故に柔和な人間は始末が悪い」。
ヴォーヴナルグという人は高貴な精神と、ゆかしい人柄を備え、若いうちから友達に父と慕われた人でありますが、不幸病の為に32歳で亡くなりました。友人のヴオルテールは彼を評して「彼はこの上なく不運であったが、この上なく落ち着いた人であった」と申しています。

(ヴォーヴナルグ、715-1747)

今日、人間の考えを一番ひろく支配しているものは、利を追う、つまり儲けるということです。

何が利か、どうすれば利を得ることができるか、これが生活の全てになっております。

然し、余り利を追うと、どんな美徳もこの利害打算の中に消えてゆくもので、東洋でも「利は智をして昏からしむ」と言っております。利口馬鹿とも言います。
 

10日 富とは 富むということは苦労が無くなることではなくて、苦労の種類が変わることに過ぎない(エピクロス前42-271)
繁栄はいくらも心友を作らない(ヴォーヴナルグ)
金ができて栄えると、本当の利を得ることなく、矛盾や錯誤が続出して利が利でなくなると言うことは、今日の日本を見ればよくわかりましょう。
11日 国をあげて利を追った結果 終戦後、国をあげて利を追いましたので、成る程、GNPはあがりました。そして貿易は盛んになって外貨もどんどん貯まりました。処が今、日本はその利で困っております。ここに指摘した数か条が全て現実の問題となってきました。 これは西洋の箴言でありますが、東洋に於いても古来、論語や孟子の中に幾らでも論じられておりまして、真理というものは古今東西変わることのない厳粛なものである、ということを改めて考えさせられるのであります。
12日 利により行えば・・・ 例えば前述の「利は智をして昏からしむ」という語にしてもそうです。利ばかりを追求しておると本当のことが分からなくなります。昔から欲呆けという言葉がありますが、本当にその欲に呆けるのであります。また、論語には「利によりて行えば怨多し」とありまして何事も利益本位 にやりますと、知らぬ間に他人に怨を作る。案外、人間は利を追う癖に利で悩んでおるのであります。そういう意味から申しますと、折角人間の美徳が、利害打算の中に消え去る。従って「利欲はいくらも富をつくらない。繁栄は幾らも心友をつくらない」ということが経験を積めば積む程考えさせられるわけであります。
13日 苦労しなければ本当の人間にならぬ。 苦悩は肉体的にも精神的にも人間が成長してゆく為に欠くことのできない条件である。過失や失敗の為に取り乱さない様に心掛けよ。自分の過失を知ることほど教訓的なことはない。それは自己教育の最も重要な方法の一つである。」(カーライル 1795−1881) 古人に「成功は常に()(しん)の日にあり。敗事(はいじ)は多く得意の時に因る」という有名な格言があります。ちょっと成功したからというて、軽々しく得意になるような人間は、たいてい軽薄で、経験に乏しく、深く反省することをしないものです。
14日 成長に苦悩は不可欠 カーライルの言葉の通り、人間は苦悩によって練られてゆくものでありまして、肉体的にも精神的にも人間が成長してゆく為に苦悩は欠く事の出来ない条件であります。 そして苦悩に敗れたらおしまいですから過失や失敗の為に取り乱さないように心掛ける必要がある。自分の過失を知るということは自己教育の最も重要な方法の一つであると共に、人を教育する者の常に注意すべきことであります。
15日 苗木の知恵 この頃は、麦畑が少なくなりましたが、昔はこの上本町(大阪市)周辺でも麦畑がありまして、早春になると百姓は朝早くから麦畑に出て麦踏みをやっておりました。麦は踏んで根固めをしないと徒長(とちょう)してよい麦ができません。植林でもそうです。良い土地に沢山肥料を施 して苗木を下ろすと木は徒長して脆弱(ぜいじゃく)で役に立たないものになる。そこで荒れ地に苗を密植して木を(いじ)め、ある程度成長した時期を見計らってこれを分植する。そして少しづつ自然肥料を与えて化学肥料はなるだけ避ける。そうすると材質のよい木が得られます。
16日 人間の苗木 人間も同様でありまして、なるべく少年時代に鍛えておかないと徒長して駄目な人間になってしまいます。近頃甘い母親が育てた過保護の学生が問題になっておりますけれども、昔は中学校(現在の高校)の入学試験に親がついて行くなどということは無かった。第一子供が恥ずかしがって親と一緒に行きませんでした。 処が昨今は大学まで母親や父親が心配そうについて行く。酷いのになると入社試験に親がついて行く。こういうことは世界の文明国で日本ぐらいのものでしょう。いかに日本人が甘ったれておるか、過保護になっておるか、ということが世界的な話題になっておりますが、こんなことで確りした日本人で出来る訳がありません。もっと鍛えねばいけません。
17日 現在の教育 そういう意味で現在の教育を見ておりますと非常に用意が足りません。剣道を例にとっても、昔は、先ず礼儀作法を教え、それから足さばき、構え、打ち込み等を稽古させて、なかなか試合をさせませ んでした。
これは柔道も同様であって、先ずお辞儀の仕方から、身体の訓練をやって、試合等は余ほど後にならないとさせませんでした。つまり予備教育・準備教育に十分時間をすけたのであります。
18日 人間の本質的要素 学問について考えて見ましても、この予備教育を十分にやり特に大切な徳性と良い習慣を養うようにしなければなりません。 人間には大別して本質的要素と附属的要素の二つがあって、その中でも本質的要素とは、人の人たる所以のもの、即ち人間として欠くことの出来ぬものでありまして、徳性がこれにあたります。
19日 人間の附随的要素 これに対して、知能とか技能というものは、いくら効用があっても、あくまで附随的要素であります。また習慣・躾というものがありますが、 これは徳性に準ずる大切な要素であります。そこで、これ等の本質的要素を無視した知識教育・技能教育というものは非人間的教育に走ります。
20日

明治以降の教育

明治以降の我が国の教育を考えてみますと、不幸にして外国の功利的・機械的文明の急激な刺激により教育は全て学校本位になって一番大切な道徳教育・人格教育というものを棚上げにして、追いつけ追い越せの大躍進教育をやりました。 その結果、知識偏向・技術偏向の人間をつくつたことが今日の日本に大きな影響を与えております。現在アメリカやヨーロッパの指導者、碩学等が論じておるところを注意しておりますと、やはり人間の本質的な教育が必要で、あまり功利的に走っては滅亡のほかない、と専門的立場から夫々指摘しております。
21日 環境問題の卓見 環境問題を取り上げてみてもそうです。いまスミソミアン体制という言葉がよく新聞・雑誌等に出ております。数年前、環境問題の専門家会議を名高いスミソミアン協会で開いたところからその名が出ております。その時に新進の人類学者でエドワード・ホールという大変卓見に富んだ学者が大講演をやりまして、その最後に彼は「然し、環境環境

と云って、いくら環境を論じても駄目だ、これを突き詰めれば各人が自分自身に対する考え方、生き方というものを反省・革新するよりほかに方法が無い。自分を棚に上げていくら環境問題を論じても駄目だ。自分の問題として従来の考え方や習慣を思い切って直してゆくこととより他に方法はない。」と云っております。大抵の人間は自分を棚に上げて人のことばかり言いますが、やはりこの結論は卓見だと思います。 

22日

耶律楚材(やりつそざい)

私が大変敬慕している人物に耶律楚材(やりつそざい)といって恐らく世界の歴史の中でも第一級の宰相があります。蒙古の成吉思(じんぎす)(かん)が満州を征服した時に、遼という国がありまして、彼はこの遼の王族の一人でありますが非常に英邁(えいまい)な人物で、その識見と経綸(けいりん)は実に天 才的で傑出しておりました。
これが成吉思(じんぎす)(かん)に見込まれてその幕僚(ばくりょう)となりました。時に耶律楚材(やりつそざい)は27才であったと申します。爾来、宰相として三十余年にわたって剽悍(ひょうかん)な勃興期の蒙古の君臣を見事に駕御(がぎょ)して、蒙古帝国の建設を実現しました。
23日 混乱を憂う この一大英傑(えいけつ)が「一利を(おこ)すは一害を除くに()かず。一事を(ふや)すは一事を()らすに()かず」と言っております。これは政治家のみの金言ではありません。 軽々しく利を興すより害を除くことを考えなければなりません。近く衆議院議員の総選挙が行われ、引き続き新しい内閣が発足して政策を遂行してゆこうという時期にあたりますが、このような見識と信念がないと、日本を愈々混乱に陥れるということを憂うものであります。
24日 真の宝 いかなる人を賢というか?
あらゆるものから何かを学びとる人。
いかなる人を剛()というか?
自分自身に克つ人。
いかなる人を富というか?
自己の分に満足する人(足るを知る人)
(ユダヤ法典・タルムード)
これもヨーロッパやアメリカの識者で知らぬ人が無いと言われる有名な言葉でありまして、ユダヤの法典と言われる「タルムード」の中に書かれております。
25日 自己の分に満足 自己の分に満足するそんな消極的なことでこの生存競争の激しい時にやってゆけるか、とよく人が考えるのですけれども、これは凡人の浅はかさであります。勿論、自己の分に満足すると申しましても 自己の分とは何ぞやというと中々大変な問題でありますが、要するに足るを知るということです。たるという字に「足」を当てていることに注目しなければなりません。なぜ足を当てて手を当てないかということを考えてゆくと、無限に興味のある問題であります。
26日 足る人 天海僧正
「事足れば足るにまかせて事足らず足らで事足る人ぞ
(身こそ)安けれ」
一説には沢庵(たくわん)の作とも言われる。
ラ・ロシュフーコー
最も才能に乏しい者の勝れた才能は、他の善い行に従う道を心得ることである」。
フランスの有名なモラリストであり文学者であるラ・ロシュフーコーが智恵も才能も乏しい者の為に一つの救いの道を教えてくれました。即ち最も勝れた才能は何かというと他の善行に従う道を心得ることであると。処が人間には迂潤とか、妬みとか、いうようなものがあって容易にこれが実行できません。これを行う道は先ず以てよい友達を得ることであります。
27日 誠の友は最大の宝 誠の友はあらゆる宝の中最大のもの、しかも人々が、それを手に入れようと案外考えない宝の一種である
(ラ・ロシュフーコー)
良き師、良き友を持つということは意外に難しいものであります。なぜかと言うと、
世に先生と称する者、友人と称する者は沢山あるけれども、本当の意味の良師・良友は少ないからです。そこで本文にある誠の友はあらゆる宝の中で最大のものであるということが理解できます。しかも人々は案外それを手に入れようと考えません。
28日 交友に就いて 多くの友人は人を交際嫌いにさせ、多くの信心家は人を信心嫌いにする
 
 (ラ・ロシュフーコー)つき合うのが嫌になる俗友、悪友、愚友、凡友が多いために、真面目な人は往々にして友人嫌い、人間嫌いになります。民間に流布されている宗
教も、その中には狂信者や邪信者等のうるさい人達がおる為に、これ亦信心は嫌だというように成り易い。然しこれは例外でありまして、やはり本当の師・誠の友というものはあらゆる宝の中で最高であることには相違ありません。これは必ずしも友交ばかりではありません、政治の世界を見ても同様であります。
29日 民主主義の欠陥と堕落 世界はデモクラシーが政治屋に堕落させたそんな政治家にくたびれている
    (ディスレリー)

イギリスの大宰相であったディスレリーの名言であります。いかにも政界の長老、経験者らして言葉です。 

30日 民主主義の悩み 今日、わが国も議会制民主主義政治を採用しておりますが、これを一言にして言いますと、議会政治・選挙政治でありまして、その根底は民主主義であります。然し議会制民主主義というものはどんなものであるかと言う少しく深い知識、自覚になると民衆は殆どこれを知りません。これは日本ばかりでなく、アメリカでも更にその最も先駆者で  あり、ヨーロッパに於ける議会制民主主義政治の本山であるイギリスに於いても識者はこの問題に悩んでおります。そして現代世界は政治学者、社会学者の等しく肯定しておる結論は、この共産主義政権の攻勢に対して妥協するか、どこまで非妥協でゆくか、という二つの問題に限られてきたということでありますが、日本人はこういう問題について深く考えない。甘い。油断がある。従って非常に危険であります。