「人つくり本義」その三 安岡正篤 講述      「人つくり本義」索引
      人づくり入門  
小学の読み直し 

三樹(さんじゅ) 一年の計は(こく)()うるに()くはなし。十年の計は木を樹うるに如くはなし。終身の計は人を樹うるに如くはなし。菅子・権修
平成22年11月1日

 1日 人に三不幸あり

伊川先生言う。人・三不幸あり。少年にして高科(こうか)に登る。一不幸なり。父兄の勢に()って()()となる、二不幸なり。

高才あって文章を能くす、三不幸なり。
 2日 少年にして高科に登る不幸

年の若いのにどんどん上にあがる。世の中はこんなものだと思ったら大間違いである。というのは修練というものを欠いてし

まうことになるからで、これは不幸である。これは官ばかりではない。親のお蔭で若輩が重役になったりする。みな同じことである。
 3日 大きな不幸

また色々の勝れた才能があって文章、文は飾る、表わすということで、つまり弁が立ったり

文才があったりして表現が上手なこと。これも大きな不幸である。
 4日 大きな不幸

今日は選手万能の時代で、ラジオとかテレビとか、野球とか、歌舞とか、若輩の出来るような

ことにわいわい騒ぐ。これは当人にとって大きな不幸であります。
 5日 変態現象

若造がちょっと小説を二つ三つ書くと、忽ち流行作家になって大威張りする。小娘がちょっと歌や踊りが出来ると、やれテレビだ映画だとひっぱり出して誇

大に宣伝する。つまらない雑誌や新聞がまたそれをデカデカと報道する。変態現象というか実に面妖なことで、決して喜ばしい現象ではないのであります。
 6日 本当に大成には

というのは、人間でも動物でも、或はまた植物でもなんでもそうでありますが、本当に大成させる為にはそれこそ朱子の序文

にある通り「習・知と与に長じ、化・心と与に成る」という永い間の年期をかけた修練。習熟というものが要るのであります。
 7日

決してインスタントに出来上がるものではない。特に幼。少年時代というものは、出来るだけ本人自身の充実・大成に力を注いで、対主会活動などは避けた方が良いのであります。

また自らも避けるべく心掛けるべきで、それでこそ大成出来るのであります。これを忘れて、外ばかり向いて、活動しておると、あだ花のように直ぐ散ってしまう。
 8日

前輩(ぜんぱい)()って説く、後生(ごしょう)才性(さいせい)人に過ぐる者は畏るるに足らず。()だ読書(じん)()推究する者畏るべしと為すのみ。

又言う、読書は只だ尋思を(おそ)る。(けだ)し義理の(せい)(しん)()だ尋思し、意を用いて以て之を得べしと為す。鹵奔(うぼう)にして(はん)(いと)う者は決して成ること有るの理無し。
 9日

説は言うに同じ。かって先輩が言った。後生(ごしょう)のうちの色々の才能のあるものは決して畏れるに足らぬと。

度々申しますように、人間を内容の面から分類して、一番の本質をなすものは徳性であって、色々の知性や知恵と言った才能はその属性であります。
10日 才性は付属的なもの

これは天然に備わっておる、と言うので性をつけて才性と云っている。こういう持って生まれた付属的な才能は、

つまり頭が良いとか、文章がうまいとか言った才能の勝れたものは決して畏るるに足らぬと言う。
11日 読書は尋思

「唯だ読書(じん)()(すい)(きゅう)する者畏るべしと為すのみ。又言う、読書は只だ尋思を(おそ)る」。(おそ)るは単なる()そる(○○)ではない。肝腎という意味であります。読書は尋思か肝腎であります。

「蓋し義理の精深は唯だ尋思し、意を用いて以て之を得べしと為す。義とは我ら如何になすべきや、という実践的判断、理はその意味・その法則であります。
12日

思うに義理の精深は大いに心を働かしてはじめてこれを遂げるので、「(うぼう)にして(はん)(いと)う者は決して成ること有るの理無し」、

鹵奔(うぼう)は穴だらけ、節だらけ、整理・整頓の出来ておらぬ乱雑・雑駁な状態。乱雑・雑駁で手間ひまかかることを嫌がるようなものは決して成るものではない。
13日 青少年の教育に一番悪いもの

ちょっとなんか出来るから、と云って持ち上げることは青少年の教育には一番悪い。大人でも同じことで、一芸一能を自慢して好い気になっておったらば駄目であります。

これは(てい)明道(めいどう)(てい)伊川(いせん)の文集にある一節であります。
14日

()()曰く、(けん)(たっと)びて色を(かろん)じ、父母に(つか)へて()く其の力を(つく)し、君に事へて能く

其の身を致し、朋友と交り、言いて信あらば、未だ学ばずと()うと(いえど)も、吾は必ず之を学びたりと()はん。 
15日

()()という人は孔子の弟子の中でも学問のよく出来た真面目で謹厳で、どちらかと言うと少し融通のきかぬ人であった。春秋末期の大動乱の中にあって、魏の文候というような勝れた実力

者から堂々たる待遇を受けておるところを見ると、余程偉い人物であったに違いないのであります。孔子より44才も若く、従って、孔子在世中はまでほんの青年であったわけであります。
16日 本当に学んだ人

(けん)(たっと)びて色を(かろん)じ」は、「賢を賢として色に易う」と読んでも宜しい。色は性ばかりでなく、あらゆる物欲の対象であります。賢を貴んで色などを問題にしない。

父母に仕えてよくその力を尽し、君に仕えてよくその身を捧げ、よく友達と交り、言う言葉に信がある。こういう人は未だ学ばずと雖も本当に学んだ人と言うべきである。世の中には学ばずと雖も学んだものの及ばぬ人がある。
17日 学の枝葉末節

そういう人の学と普通の人間の学とは違うのでありまして、普通の人間の学と言うものは知性とか技能とか言った付属的なもので、謂わば学の枝葉末節であります。

一々の細かい物象を捉えてやるから科学(えだがく)大元(おおもと)の学は根本の教えであるから、宗教(そうきょう)或はこれをしゅうきょうと言うのであります。
18日 学に志すものは衣食等の不足は言わない 孔子曰く、君子は(しょく)()くを求むる無く、(きょ)・安きを求むる無く、事に敏にして而して言を慎み、 (ゆう)(どう)に就いて而て正す。
学を好むと謂うべきのみ。
19日 君子は腹一杯食ってはいかぬ

これも論語の学而編(がくじへん)にある一節でありますが、「君子は食・飽くを求むる無く」、君子は腹一杯食ってはいかぬなどと言うと、直ぐこの頃の人間はそういう(ひち)(むずか)しい道学(どうがく)は困ると言って横を向いてしまう。

然し、生理学・病理学・衛生学といった科学がやっぱり同じことを説いておる、というと忽ち納得する。困ったものであります。
20日 人間には鍛錬が大切

「居・安きを求むる無く」、人間は安居しておっては駄目で、やっぱり雨風にさらされたり、暑さ寒さに鍛えられたり、

また時には山野に起き臥ししてこそ生命力・体力というものが鍛えられる。
21日

「事に敏にして言を慎み」、孔子はしきりにこの敏という字を使っておりますが、今日の言葉でフルに働かせるということであります。

この夏には不景気のた為に約二千余の中小企業が倒産したということでありますが、従ってそれらの施設は現在遊んでおるわけで、所謂遊休施設になっている。
22日 脳の遊休施設

こういう遊休施設はすぐに目につくのでありますが、ここにみんなが忘れておる遊休施設がある。それは己の脳、つまり頭であります。これくらい勿体ない遊休施設はない。

我々はこの自然の与えてくれた脳力をフルに働かせなくてはならない。この脳力をフルに働かせることを敏というのであります。
23日 敏忙

だから私は、びんぼう(○○○○)という時に貧乏という字を使わない。敏忙(びんぼう)という字を使う。私は貧乏は嫌でありますが、

敏忙は大いに好むところであります。敏にして而も言を慎む「有道に就いて而て正す」、道を解する人、道を持っておる人について正す、独断主義はもっともいけない。
24日 現代人は誠に不幸

孔子曰く、(やぶ)れたる?(おんぼう)()て、()(かく)()る者と立ちて恥ぢざる者は、其れ()か。
(へい)はやぶれたと読むよりも、古びたと読んだ方が宜しい。()(かく)は毛皮であります。由は孔子門下の最年長者であった。志のあるものは、着る

ものや身辺のことは余り気にかけないものであります。
この頃はあらゆるマスメディアを通じてこれでもか、これでもかと贅沢なものを教えるので、こういう
(へい)おん(おんぼう)を着て恥じない、などということが難しくなってしまいました。そういう意味では現代人は誠に不幸であります。だから生活の資を多くそういう下らぬことに使ってしまう。
25日 青春の堕落

昔は本郷の大学り反対側は殆ど本屋であったが、今はパチンコ屋だとかレストランだとかに押されて、昔の半分になってしまっている。昔の学生は食う物も食わずに本を買った。

今の学生は食って飲んで、その上でなければ本を買わない--と本屋の主人は嘆く。正に青春の堕落であります。
26日

我々も学生時代には本屋によっては借金して買ったものであります。「あんたは見込みがあるから借そう」とか「あんたはどうも見込みがなさそうだから駄目だ」とか、本屋の親父に

も中々面白いのがおりました。今時は、そういう書生もおらぬし、本屋もおらぬ。誠にコマーシャルになってしまったものであります。
27日 真に道に志す者は

孔子曰く、士・道に志して而して悪衣・悪食を恥ずる者は未だ(とも)(はか)るに足らざるなり。

真に道に志すものは、衣食の粗末なことなど気にするものではありません。 

28日 (きょく)

(きょく)(れい)に曰く食を共にしては()かず。飯を共にしては手を(うるほ)さず。飯を(たん)することなかれ。放飯(ほうはん)することなかれ。(りゅう)せつすることなかれ。

咤食(たしょく)することなかれ。骨を()むことなかれ。魚肉を反することなかれ。(いぬ)に骨を投げ与うることなかれ。固く()んとすることなかれ。
29日 食を共にしては飽かず

曲礼は礼記の中の一篇「食を共にしては飽かず」、独りで腹一杯食わない方が宜しい。寮生活などしてみると、がつがつかきこんでスキ焼きなどして、気がついた時には何もない。こういうのは食を共にして飽こうとするものであります。

「飯を共にしては手を沢さず」、昔は飯は木の葉等に盛って指先でつまんで食べた。だから指をべたべたさせない。今でも東南アジア等に行くと土人がやっている。「放飯すること勿れ」、飯を丸めたり食べ放題に食べることをしない。
30日 味のある文章

「流せつすること勿れ」、「咤食(たしょく)することなかれ」、流せつは、音を立ててすする事、スープを飲むのに音を立ててすするのがおりますが、西洋人の最もこれを嫌うようであります。咤食(たしょく)は舌づつみをして食うことで、これは犬や猫のやることであります。「骨を()むことなかれ。魚肉を反することなかれ」、骨をかんだり、魚肉をひっくり返して食べてはいけない。「(いぬ)に骨を投げ与うることなかれ」、これは色々の意味にとれますが、要するに犬と雖

も生物であるから、敬意を表する意味で投げ与えることをしない。こういうことをする人間に限って、人間に対しても投げ与える。
人に物を与えることは大事なことで、乞食でも放り出された飯は食わないものであります。物を与えるには与え方がある。敬意を表して与える。人間の微妙な心理であります。
「固く獲んとすることなかれ」、是が非でもとろうとしてはいけない。魚を釣っても釣り落すという事がある。物に拘るという事は一番いけない。味のある文章であります。