「平成に甦る安岡正篤先生警世の箴言」13

平成20年11月度

広瀬淡窓

 1日 剛と仁

「寧ろ人情を失うも、小利(しょうり)を捨てざるは賈豎(こじゅ)(ごう)なり。

寧ろ大事を誤るも、人情を(いため)らざるは婦人の仁なり。故に至吝(しりん)は剛かと疑はれ、至弱(しじゃく)は仁かと疑はる。」
 2日 剛と仁の解説 例え、非人情であろうが、わずかな利益をも無視しない、それをとる。これは小商人の強いところである。また時によっては、人情のために大事を誤まるようなことがあるが、これは婦人の仁というものである。 だから、(けち)に徹しておると何だが大変強いところがあるように思われ、弱いと仁かと疑われる。これは非常に難しいことで、とかく人間はそういうように偏するものです。これは極端な例でありますが、世間によくあることであります。
 3日 約束は必ず果さなければならない 「人請求するあり。固く拒むに忍びず。往々(だく)して(しか)も果さず。()しその人に逢へば、之が為に(たん)(ぜん)たり。 伝に曰く、その諾の責あらんよりは、寧ろ()むの(うらみ)あれと。又曰く、()にして実ならざるは怨の(あつ)まる所。」
 4日 解説

人から何かを請求されると、どうしても断ることが出来ず、承知をしながらその約束を果せない。それでたまたまその約束をした人に逢うと赤面しなければならない。

だから古人も一度承知をしながら約束を果せないで責任を苦にするよりは、むしろ多少その為に恨まれても、最初に断った方が宜しい、と言っており、又見かけがよくても実が無いのは、多くの人々から恨まれることになる。
 5日 王通 中国の隋の時代に、王通という天才的な哲人がおりました。日本の学者の中には王通を吉田松陰と比較する人々がありますが、この人も確か三十歳で没しております。 然し、病没でありまして、松陰先生のように最後の悲劇的な人ではありません。王通の門下生から隋を滅ぼして唐を建設した維新革命の人材が輩出したと伝えられて、その点松陰と似ておるというわけです。
 6日 諾の責なし 王通に「文中子」−王通のおくり名の中説という書物が残っており、この中に無のついた七つの格言が載っております。「諾の責なし」という語もその一つであります。 一度承知した以上は必ずそれを実行するということです。相手を尊敬し、信頼しておればおる程、その人に失望させられることは洵に嫌なことであります。だから、「よし」と約束した以上は実行することが確かに大切であります。
 7日 嫉妬心の強い人間とは交わらない 妬心(としん)深き者は内争(ないそう)を生じ易し。(とも)(まじわり)を結ぶべからず。
(とも)に事を(はか)るべからず。」
ねたみ心や・やきもちの強いのは、外に出ないが、人に知れない内の争を生じ易い。だから妬心の深い者とは交を結んだり、事を相談してはならない。共同で事業をやっても、あいつ仕事を取りはしないか自分でうまいことをしないか、等と気を廻して争を生じ易い。
 8日 女偏(おんなへん)(しつ) この言葉は痛い切実なものであります。ねたむ(○○○)と言う字は、女偏に石、即ち「()」と書きますが、また女偏に疾=(しつ)」と書いてやはり同じ意味に使います。 この二字を合わせて嫉妬(しっと)でありますが、これは世の女性からは酷い文字だと言って苦情の出る字で、つまり男にも嫉妬心があるではないかというわけであります。
 9日 男性の嫉妬心

特に人間の欲望の中で一番強いのは、権力支配の欲望であります。然し、権力支配の欲望となりますと、女性よりむしろ男性が主でありますから、その意味では嫉妬心は男性の方が強いかも知れません。過去を調べてみても、男性の嫉妬によって事が破れて悲劇を起こした例が多数あります。

過去の歴史ばかりではありません。現に地球上で毎日といってよい程同じ悲劇が繰返されているのであります。この言葉は淡窓先生にとっても、恐らく体験から滲みでた言葉であろうと思われます。その証拠に先生は、日田の地を出て後は時の大名などの権力者に結びつくようなことは一切しておりません。先生の偉大な所以の一つであります。
10日 ()(しつ)

(けん)有って(しこうし)て知らざるは一の(しつ)なり。知って而て(まじ)はらざるは二の失なり。交はって而て(とも)に謀らざるは三の失なり。與に謀って而て與に事を成さざるは四の失なり。

與に事を成して而て與に功を分たざるは五の失なり。此の五失を除けば(こう)(どう)(ます)有り。憧々(しょうしょう)として往来するがごとき、千百人と(いえど)も、(なん)ぞ事に(たすく)あらんや。」
11日
「失」

解説@

実に痛い言葉であります。まづ第一は、人の上に立つ者、志のある者が賢者を知らないということである。そして賢者と知っても、これと交わらないのは第二の失。

また賢者と知って交わった以上、胸襟を開いて共に事を謀らなければならないのに、それをしないのは第三の失である。折角相談しながら、一向に事を成就するように努力しないのは第四の失である。
12日

解説A
お互いに知り、信じ、相談して成功したのに、虚心にその功績を分かち合わないのは、第五の失である。この五失を除けば、交友の道は有益なものである。ただ、ふらふらと行きあたりばったりに付き  合うのは、どれ程多くの人と交わっても、そんなものは何の益もない。よく世間を見ておると、この五つとも、どこの社会にもあることで、その点、昔も今も一向に変わりがない。人の世の常と申しますか、洵に痛い指摘であります。
13日 膽識(たんしき)がなければ大事を為すことは出来ない。

「書生・(まつりごと)を為すは俗吏(ぞくり)に及ばず。()ほ医師方書を研究するも、その病を治すに至っては、草医(そうい)に劣るが如し。

大抵、理を窮むること(はなは)(くわ)しく、心を用ふること(はなは)だ蜜なる者は、行事必ず不活動なり。気に任せて敢行するの得たるに()かず。故に大事を()すは、(たん)を以て主と為す。識之(しきこれ)に次ぐ。」
14日 経験と度胸 例えば、政治家と役人官僚が好い事例です。さすがに政治家は演説上手、口は達者ですけれども、実務となると役人の方がよくできる。ちょうど医者が書物によってその道の研究をいくらやっても、実際に病人を治すとい う手腕については、よく経験をつんだ田舎医者でも却って上手であります。医書を読んだり病理学の研究をしておりますと、理屈は分かるけれども、経験がない為に実際の役に立たない。そこで経験と度胸・実行力でどしどし実験してゆく必要があります。
15日 聴診器は枝葉末節 昔は、大学にも名医がおられて、例えば青山胤通先生などもその一人ですが、いつも実習生をつれて病院を回診された。そして実習生に対して診察をせぬ中に、「あの病人は助かるか、助からぬか、どう思う?」と問われる。すると実修生は きまって「よく診察しないと分かりません」と答える。
すると先生は「医者というものは、脈をとったり、聴診器を使ったりする前に、患者を一目見て、この患者は危険だとか、大丈夫だとか分かるようでなければいけない。聴診器だ脈診だというのは枝葉末節だ」と教えられたそうであります。
16日 本当の医道 一目で分かるまでには可なりの修業をしなければならないが、それが分かるようになるのが医道だということでしょう。処が昨今の病院や医者は全くこれと反 対で、洵に非人間的であります。
淡窓先生の指摘されたのはこれと同じことであります。また先生は、しきりに膽識(たんしき)ということを説いておられます。
17日 三識

元来、「識」には凡そ三つありまして、その一つは知識。これは人の話を聞いたり、書物を読んだりして得る、ごく初歩的なものでありますから、薄っぺらであります。これに経験と学問が積まれて「見識」にならなければなりません。更にその上に、実行力が加わってはじめて

膽識(たんしき)」となるのです。
従って、知識だけではだめでありまして、知識が見識になり、その見識もさいごには膽識(たんしき)になって、始めて役に立つのです。これは医者ばかりではありません。実業家、政治家等々所謂実際家ほどこの三識が要求されるのであります。
18日 膽識

真面目な実践の行者に

淡窓先生の自新録をこのようにして読みますと、いかにも先生は普通の学者でない、非常に出来た人であることが痛切に感じられるのであります。先生の直系の子孫である広瀬正雄代議士はかって大臣もされたりして、一門が今日も繁栄しておられます。
よく確信政治という言葉を聞きますが、これはやはり各自が真面目な実践の行者

となり、実行の学問をして、先ず自分を日新しなければ、世の中を新たにする。革新する等ということは出来るものではありません。従ってその意味において、日本の各界にもっと出来た人間が出ないとどうにもなりますまい。どうにもならぬばかりでなく混乱します。そこで本当の意味の人物、教養と見識、膽識(たんしき)のできた人の輩出が望まれるのであります。
(昭和501031)
第十講
 人生と国政
19日 学問の妙処 今回を以て先に「経世と人間学」を上梓した後を受けて、新たに講を始めてよりちょうど十回目になります。それで一応締めくくりの意味と、最近の時局に鑑みまして、本日はこの教材を選びました。このうちどれ一つをとりましても実はいくらでも論じられる問題であります。 然し、これを要約して講ずるのも学問の妙処であります。
前回は、幕末の日本で、豊後日田の山紫水明の郷に、全国から前後三千にのぼる学生が教を受けた広瀬淡窓先生の述懐である妙味津々の文章を紹介しました。その意を継承して少しく調子の変わった講話を致したいと思います。
20日 ()(しゅう)ということ

「論語云。子曰。学而時習之。不亦説乎」。「論語に云う、子曰く、学んで之を時習(じしゅう)す、亦(よろこ)ばしからずや」

この言葉は、誰知らぬ者のない論語の名言でありますが、そのわりに本当にこれを解釈しておる人が少なくて、多くの人々は「学んで時に之を習う。亦説ばしからずや」と読んで、ときどき復習するという意味に解釈しております。
21日 ()(しゅう)とは

これは全くの誤りではありませんが、浅い解釈で、本当はもっと深い、生きた意味があります。即ちこの場合の「時」という字は、時々という意味ではなくて、そのときそのときという意味であります。我々が日常体験するその一つ一つを好い加減にしないで、そのときそのときを活かして勉強する、活用する、これが「時習」であります。

或は時という字はこれ(○○)とも読みますから、少し凝った学者の中には「学んでこれ之を習う」と読ませておる人もあります。それもよいのでありますが、強いてそのように訳読しなくとも、じしゅう(○○○○)で結構であります。よく注意しておりますと、昔の学校などにこの時習という名がついております。熊本にある時習館などもその一例であります。
22日 初めて活学となる それから「習」という字。これも広く通用した文字でありますが、正しく解しておる人は案外少ないようです。習という字は、上の羽は()()、下の白はしろ(○○)ではなくて、鳥の胴体の象形文字であります。つまり習という字は雛鳥が大きくなって巣離れする頃になると、親鳥の真似をして羽を広げて()ぶのをお手 本にして雛鳥が翔ぶ稽古をするように、所謂体験をする、実践をするという意味でありますから、「また(よろこ)ばしからずや」ということも活きて参ります。人間生活があらゆる面で便利になるにつれて、思想だの学問だのというものも普及すればする程通俗になります。然し、本当の学問は、自分の身体で厳しく体験し実践するものであります。この意味が本当に理解されて初めて活学になります。
23日 教育の本質は

幕末から明治の初めにかけて行われた塾式教育の時代には、行儀作法から始めて極めて具体的、個性的、実践的に学問教育が行われましたが、それが近代の学校制度になるに及んで多数の生徒が一堂

に集まり、教科書を使って勉強するようになりました。それから師弟も人間と人間との関係、直接の関係が無くなって、ただ知識本位、理論本位に終始して、次第に人間としての具体的な存在や行動から遊離して参りました。
24日 実生活を見失わぬこと 学問というものは体験を貴しとなし、その体験を練磨することでなければなりません。その意味で「学んで之を時習す。亦説ばしからずや」という語は非常に短いものでありますが限りなく深い意味と効用があります。
学問・修養というも

のは、論理だの思想の遊戯だのというものでは駄目であって我々は日常の実生活を見失わぬようにしなければならぬということであります。従って、「時習」の語は儒教の大切な一つの眼目でありますが、これを現代広く普及しております禅の立場から考えまして次の第二をあげておきました。 

25日 公案「獨坐(どくざ)大雄(だいゆう)(ほう)

碧厳録第二十六則其他

(そう)(ひゃくじょうに)百丈(とう)如何(いかんが)(これ)奇特事(きとくのこと)丈云獨坐(じょういうどくざ)大雄(だいゆう)(ほう)(そう)礼拝(らいはいす)丈便打(じょうすなわちだす)

僧・百丈に問ふ、如何が是れ奇特の事。丈云ふ、獨坐大雄峰。僧礼拝す。丈便ち打す。

26日 (へき)厳録(がんろく)

禅に有名な「碧巌録」という本があります。これは日本に最も広く普及している禅書の一つでありまして、禅について学ぶ人が必ず読むのはこの「碧巌録」と、もう一つ「無関門(むかんもん)」という書物であります。この二冊はともに中国の宋代につくられたのであります

が、我が国に伝わりまして一般に広く普及致しました。
その碧巌録の第二十六則に、この「獨坐大雄峰」という有名な公案があります。これは専門の禅師・禅僧に言わせますと、随分いろいろ広長舌(こうちょうぜつ)を振うところですが、つきつめて申しますと、極めて簡単に説明することも出来ます。
27日 百丈懐海(ひゃくじょうえかい)

唐代に百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という大変偉い禅僧がおりました。この人によって禅宗という一つの体系が出来たというので特に名高い人であります。湖南省の百丈山におりましたので百丈禅師とも言います。その頃までの禅は、まだ独立した宗派をつくらず、儒教や道教の建物を借りて、いはば(ひさし)を借りて修

業しておりましたので、極めて自由且自然でありましたが、次第に盛んになるにつれて、どうしても専門道場が要るようになり、禅宗という一派、つまり組織形態をつくりあげました。そういう意味の開山、或は創始者の代表がこの百丈懐海(ひゃくじょうえかい)であります。大雄峰というのは、百丈山は別の名を大雄山(だいゆうざん)と言うたからであります。
28日 奇特なこと 或る時、一人の僧がやってきた百丈和尚に訊きました、「如何(いかん)()奇特(きとく)の事」。奇特という文字を難しく解して、何か禅宗の神秘な悟りの問題として取り扱う人もありますが、奇特というのは当時の俗語でありまして、日常用語の少し変わったという意味です。従って、「何か変わったことはありませんか」と、今日でもいう挨拶を百丈和尚にしたわけです。 そうすると、言下に百丈和尚は「獨坐大雄峰―俺がこうしてこの寺におる、これくらい変わったことはないよ」と答えた。まことに当意即妙(とういそくみょう)であります。私達もよく経験することであれますが、誰かに会いたいと思っても中々会えない。処が全然予期してなどいなかった人に突然会うこともある。人間が互いに会うということは誠に不思議なことであります。まして同じ会社で同じ仕事をする、或は夫婦となり、親子、兄弟として生まれる、考えてみるとこれくらい不思議なことはありません。つまり「奇特なこと」であります。
29日 当意即妙(とういそくみょう)

処が、学問修業をすると、そのような通俗的な問題を忘れて、一般大衆の知らない問題だの、理論だのを聞いたり述べたりしたがるものです。この僧も、出家して各地の寺院を廻り、多くのお坊さんに接した雲水であります。その雲水の口から出た言葉でありますから百丈和尚は

それを言下に活用してぴしっーと一本やり返したわけです。
そこで、はっと気がついたのでしょう、「僧礼拝す」とありますから、雲水僧はぺこりとお辞儀をしたわけです。すると間髪を入れず「丈便(じょうすなわ)()す」、百丈和尚が又ぴしゃとひっぱたいた。「今ここにこうして百丈がおることぐらい変わったこと、神秘なことはない」。いとも簡単であります。
30日 活を入れる 然し口では簡単に言うても、実はそう簡単なものではありません。僧はいかにもわかったようにお辞儀をしたが本当にわかったのか?そこで又ぴしゃとやられた。これが所謂参禅公案の妙処というものです。口で言うても、中々本当に分からないから、ぴしゃとやった。 この頃の言葉で申しますとショック療法であります。平凡な人間、生意気な人間に、真正面から理屈を言って聞かせても、余り効果がない。そこで、そういう因習的になっている人間には、はっとするような驚きを与える。活を入れる。この活を入れることによって特に発達したのが禅の特徴であります。