安岡正篤先 「経世と人間学」 その九

平成21年11月

 1日 (もく)(びょう)

「また虎毛の大猫一匹まかり出て、我思ふに、武術は気勢を貴ぶ。故に気を練ること久し。いま其気豁達(かったつ)()(ごう)にして天地に充つるがごとし。 敵を却下に踏み、先ず勝て、然して後進む。声に随ひ響に応じて、鼠を左右につけ変に応ぜずということなし。
 2日

所作を用ゆるに所作自ら湧出づ。(けた)(はり)を走る鼠は(にら)み落として(これ)をとる。然るに彼の(きょう)()来るに形なく、往くに跡なし。

是いかなるものぞや。
古猫(こびょう)の云、汝の修練する所は是れ気の勢に乗じて働くもの也。我に(たの)む所ありて然り。善の善なるものに非ず。
 3日

我やぶって往かんとすれば敵も亦やぶって来る。また、やぶるにやぶれざるものある時はいかむ。我覆ふて挫かむとすれば敵も亦覆ふて来る。覆ふに覆はれざるものある時はいかむ。

(あに)我のみ剛にして敵みな弱ならむや。豁達至剛にして天地にみつるがごとく覚ゆるものは皆気の(しょう)なり。孟子の浩然の気に似て実は異也。
 4日

彼は明を載せて剛健也。此は勢に乗じて剛健なり。故に其用も亦同じからず。(こう)()の常流と一夜の洪水との勢いの如し。
且気勢に屈せざるものある時はいかむ。

窮鼠却って猫を噛むという事あり。彼は必至に迫って恃む所なし。生を忘れ慾を忘れ勝負を必とせず。身を全うするの心なし。故に其志金鉄(きんてつ)の如し。(かくの)此者(ごときもの)は豈気勢を以て服すべけんや。
 5日 解説 また、虎毛の大きな猫が進み出て、「自分が思うには武術は大いに気勢を貴ぶので、長い間気勢の修練をして今日に至りました。物事にこだわらず、その上猛々しく張り切り、相手を圧倒して進むものですから、 どんなに鼠がとびはねても自由自在にその変化に応ずる働きができました。そこで桁梁を走る鼠は睨みつけただけで落ちてきます。処があの強鼠はその働きがわからぬ位素早く動くのは、どうしてでしょうか」。
 6日

すると古猫が「あなだが修練したのは自分の気勢によって働くことで、然も俺にはこれができるという自負心があるため最善ではありません。自分が突進すると敵もまた突進してくるでしょう。

然し、こちらから突進できないときはどうしますか。また圧倒しようと敵も圧倒してくるでしょう。圧倒できないときはどうしますか。いつも自分が強く敵が弱いということはありますまい。
 7日

非常に心を広く、強く持つのもこれは孟子にある浩然の気に似ておりますけれども、浩然の気とは違います。孟子の方は叡智をちゃんと持って、そこから出る剛健でありますが、あなたのは、ただ勢いに乗じた強がりに過ぎません。
ちょうど、大きな川が悠然として変わらずに

流れているのと、一夜の洪水との相違のようである。その上、あなたの気勢にも屈しない気の強いものにはどうしますか。窮鼠が猫を噛むという言葉があって窮鼠が命懸けで勝負など問題とせず突進してくれば、あなたの修練した気勢はこれに勝つことができるでしょうか」。
 8日 原文 「又、(はい)()の少し年たけたる猫静かに進みて云う、仰せの如く気は(さかん)りと(いえども)(しょう)あり。象あるものは微なりと雖見つべし。我心を練ること久し。 勢をなさず。物を争はず。相和して戻らず。彼強き時は和して彼に添ふ。我が術は帷幕(いばく)を以て(つぶて)を受くるが如し。強鼠ありと雖我に敵せんとして()るべき所なし。
 9日

然るに、今日の鼠、勢にも屈せず、和にも応ぜず。来往(らいおう)神の如し。
我未だかくの如きを見ず。古猫の云、汝の和と云うものは自然の和にあらず、思うて和をなすものなり。

敵の鋭気をはずれんとすれども、僅に念に渉れば敵其気を知る。心を和すれば、気濁りて()に近し。思うてなす時は自然の感をふさぐ。自然の感をふさぐ時は妙用(みょうよう)何れより生ぜんや。
10日

只思うこともなく、為すこともなく、感に随ひて動く時は我に(しょう)なし、象なき時は天下がに敵すべきものなし。
然りと雖各々の修する処悉く無用の事なりといふにはあらず。

道器(どうき)一貫(いっかん)の儀なれば、所作の中に()()を含めり。気は一身の用をなすものなり。其気豁達なる時は物に応ずること窮りなく、和する時は力を闘はしめず。金石にあたりても能く折るることなし。 
11日

然りと(いえども)僅に念慮(ねんりょ)に至れば皆作為(さくい)とす。道体(どうたい)の自然にあらず。故に向ふ者信服せずして我に敵するの心あり。我何の術をか用いんや。無心にして応ずるのみ。

然りと雖も道極りなし。我が言う処を以て至極(しごく)と思ふべからず。昔私が(りん)(ごう)に猫あり。終日眠り居て気勢なし。木にて作りたる猫の如し。 

12日

人その鼠を取りたるを見ず。然れども彼の猫の至る処近辺に鼠なし。処を替えても亦然り。我行きて其故を問ふ。彼答えず。四度問へども四度答えず。答えざるにはあらず。答ふる処を知らざるがなり。

是を以て知る。知るものは言わず、言ふ者は知らざることを。彼の猫は己を忘れ、物を忘れて無物(むぶつ)に帰す。神武にして殺さずといふものなり。我亦彼に及ばざること遠しと。
13日 解説 今度は、灰色の年をとった猫が静かに進み出て「お話のように気勢の盛んなものは形に現れます。形に現れるとどの様に小さいものでも見ることができる。

そこで私は、気勢を張らず、物を争わず、和して矛盾せず、相手が強いときは彼と一つになって離れない。丁度投げた石を幕で受けるようなものである。

14日

そこで、どんな強い鼠でも暖簾(のれん)に腕押しの状態となって私に対抗できません。ところが今日の鼠は勢にも負けず和にも応じませず、その振る舞いは全く神のようで、こんな鼠を

見るのは初めてであります」。すると古鼠が「君の和は自然のものではなく、まだ作為した和である。彼の鋭気を外そうとしても、君の心にそういう思いがあると、すぐ察知されます。
15日

余り心をやわらげると勇気がにぶって惰になり心が動くと自然と形に現れる。そこで無念、無為にしておると、名人の境地であるから、これに敵

対するものがなくなる。然しながら皆さんが勉強し練習されたことは総て役に立たない、などというのではありません」。 

16日

「道器一貫の儀なれば、所作の中に至理を含めり」、万物を創造化成していく働きを「道」と言います。従って、これは古猫の言うように無限であり自由であります。

その創造変化の働きによって造られるもの、これが「器」であります。つまり道は限りなく融通無碍であるが器は融通がきかない。
17日

人間でも道を学んだ人は融通無碍で自由がきくが道を学ばぬ人間は融通がきかない。これは器にすぎぬからです。これが道と器の違うところです。

然し器は道によってあるもので道は必ず器を伴う。従って、道器は本来一貫であるから我々も道に即して千変万化の器用をなさなければなりません。
18日

よくあの人は器量人だと言います。女の()りょう(○○○)は、主として顔を言いますが、男の器量は人格の出来ばえです。

道に基づいて色々のものを量り容れる出来具合いです。従って、道を学ばなければ本当の器量にはなりません。
19日

「気というものは、肉体を通じて発するエネルギーであるから、豁達(かったつ)なる時はどのような物にも応じ、和する時は力を闘わすことをせず、金石にあたっても折れません。

然しながら少しでも意識的にやりますと、自然ではないから、立向かう相手は心服せず敵対する心を持ちます。従って無心が一番よろしい。然し道というものは極まりないものですから、私の言葉も最上ではありません。
20日

昔、私の近所に一匹の猫がおったが、この猫は殆ど一日寝てばかりいて元気がなく、木で彫刻した猫のようであった。その上鼠を取るのを見た者はないが不思議にこの猫がおると近くに鼠のかげ

がなくなります。猫が場所を変えても同様で、やはりその場所には鼠がいなくなるので、私はその理由を四回も尋ねましたが、この猫は答えませんでした。
21日

昔、私の近所に一匹の猫がおったが、この猫は殆ど一日寝てばかりいて元気がなく、木で彫刻した猫のようであった。その上鼠を取るのを見た者はないが、不思議にこの猫がおると近くに鼠のかげ

がなくなります。猫が場所を変えても同様で、やはりその場所には鼠がいなくなるので、私はその理由を四回も尋ねましたが、この猫は答えませんでした。
22日 原文

(しょう)(けん)、夢の如く(この)(げん)を聞きて出で、古猫を(いう)して曰く、我、剣術を修すること久し。未だ(その)(みち)を極めず、今宵(こよい)各々の論を聞いて我が道の極意を得たり。

願くば、猫其奥儀を示したまへ。
猫云う、否、我は獣なり。鼠は我が食なり。我何ぞ人のことを知らんや。夫、剣術は専ら人に勝つことを務むるにあらず。大変に臨みて生死を明かにするの術なり。
23日

士たるもの常に()(しん)を養ひ、其術を修めずんばあるべからず。故に先ず生死の理に徹し、此心偏曲(ししんへんきょく)なく、不疑(ふぎ)不感(ふかん)才覚(さいかく)思慮(しりょ)を用ゆるこことなく、心気(しんき)和平(わへい)にして物なく、

(たん)(ぜん)((ふち)のように静かに澄みきった姿)として常ならば、変に応ずること自在なるべし。此心(ししん)僅に物ある時は、(かたち)あり。(かたち)ある時は敵あり我あり。相対して(あらそ)ふ。かくの如きは変化の妙用(みょうよう)自在(じざい)たらず。 
24日

(わが)先ず死地に落入って(れい)(めい)を失ふ。何ぞ快く立ちて明かに勝負を決せん。仮令(たとへ)、勝ちたりとも(もう)(しょう)といふものなり。

剣術の本旨にあらず。無物とて(がん)(くう)をいふにはあらず。心もと形なく、物を(たくわ)ふべからず。僅かに蓄ふる時は気も亦其処(そこ)()る。
25日

此気僅に()る時は、融通豁達なる事能はず。向ふ処は過にして、不向処は不及なり。過なる時は、気溢れてとどむべからず。不及(ふきゅう)なる時は()えて用をなさず。共に変に応ずべからず。我が所謂(いわゆる)物といふは、不審不倚(ふしんふき)

敵もなく我もなく、物来るに(したが)って応じて(あと)なきのみ。易曰(えきいわく)無思(おもうなし)無為(なすなし)寂然不動(じゃくぜんふどう)(かんじて)遂通於(てんかのことに)天下之(ついつうす)故。此理を知て剣術に学ぶ者は道に近し。
26日

(しょう)(けん)は夢のように、この言葉を聞いて、古猫に頭をさけで言うには「自分は長いこと剣術の練習をしているが、まだその道を極めることができない。今晩皆さん方の意見を聞いて剣術の極意を知った。どうかもう少しその話を続けて下さい」。

すると、古猫が「いやいや私達は獣であって鼠は私達の食物である。その私達にどうして人間のことが分かりましょうか。然し、考えてみますと、剣術というものは人に勝つためのものではなく、大事に臨んで生死の道を明らかにするための術であります。
27日

(しょう)(けん)は夢のように、この言葉を聞いて、古猫に頭をさけで言うには「自分は長いこと剣術の練習をしているが、まだその道を極めることができない。今晩皆さん方の意見を聞いて剣術の極意を知った。どうかもう少しその話を続けて下さい」。

すると、古猫が「いやいや私達は獣であって鼠は私達の食物である。その私達にどうして人間のことが分かりましょうか。然し、考えてみますと、剣術というものは人に勝つためのものではなく、大事に臨んで生死の道を明らかにするための術であります。
28日

無物と言っても内容のないナッシングではありません。心には元来形もなく、物を蓄えるというような事も出来ませんから一寸でも滞りがあると自由自在とは参りません。

従って、立向かうと元気が溢れ過ぎてとどめがきかない。また反対に元気がなくては役に立たないため、どちらも変に応ずることが出ません。
29日

自分が無物と言うのは、蓄えず、()らず、敵もなければ、我もない、物がくればこれに応じて何の迹もとどめないという事です。

易の繋辞伝に「思うなし、為すなし、寂然不動、感じて天下のことに遂通す」とありますが、これは造化というものは人間の意識から言うと無思無為であります。
30日

無意識で森羅万象に充満している。この道理を知って剣術を学ぶものこそ道に近いというべきでありましょう」。

(しょう)(けん)は猫にえらく剣道を教わったものであります。