11月6日 |
その時、高倉下が「この先は荒ぶる神が多い。八咫烏を遣わすのでその導きに沿い進め」との高木神のお告げを伝えた瞬間に一羽の烏が現れた。その後、神倭伊波礼毘古命一行が八咫烏について進んで行くと、吉野川の下流で魚を採っている神・贄持之子に出会った。さらに進むと、井戸から尾の生えた神・井氷鹿が現れた。 |
11月7日 |
さらに山でも尾を持つ神・石押分之子が待ち構えていた。何れも地元の神々で神倭伊波礼毘古命に忠誠を誓った。これらの三神は、阿陀の鵜飼部、吉野首、吉野の国栖の祖先にあたり神倭伊波礼毘古命の平定が進んでいることの証左である。 |
11月8日 |
このようにして宇陀にやって来た一行は、付近に住む兄弟・兄宇迦斯と弟宇迦斯に八咫烏を遣わせ「臣従を誓うか」と問うた。然し兄宇迦斯はいきなり矢を放ってきた。兄宇迦斯は軍勢を集め神倭伊波礼毘古命を撃つつもりでいたが、数が足りず別の策を練った。臣従すると嘘をついて油断した処を殺そうと企んだ。一方、最初から臣従するつもりの弟宇迦斯は兄の企みの詳細を神倭伊波礼毘古命に教えた。為に兄宇迦斯は自分で仕掛けた罠に嵌まり命を落とした。 |
11月9日 |
初代天皇・神武の誕生
さらに進んだ一行は、奈良盆地の忍坂に入る。そこでは、尾の生えた土雲と呼ばれる土豪たちが岩屋で唸り声をあげながら待機していた。神倭伊波礼毘古命は沢山の料理を準備して彼らをもてなした、歌を合図に隙を突いて討伐した。 |
11月10日 |
遂に、邇芸速日命が「天つ神の皇子が天降りされたと聞いたので、追って降って参りましたよ」とやってきて神倭伊波礼毘古命に天の皇子のしるしである宝物を捧げ、仕えることになった。こうして荒ぶる国つ神の平定が終り、神倭伊波礼毘古命は、畝火の白檮原宮で天下を治めた、初代天皇・神武の誕生である。 |
11月11日 |
神倭伊波礼毘古命は、大物主神の娘・伊須気余理比売を皇后とし137歳まで生きたとされる。陵墓は、畝火山の北の白檮尾のあたりといわれる。ここで、神倭伊波礼毘古命の后・伊須気余理比売に就いて調べてみた。 |
11月12日 |
畝傍の白檮原宮で即位した神倭伊波礼毘古命には日向で娶った阿比良比売という妻と二人の子がいた。然し即位して天皇となったので皇后を決めなくてはということで、ふさわしい娘を探していた。 |
11月13日 |
その時、大久米命が、神の御子という美しい娘がいるという。神の御子というには理由があった。「三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、その容姿麗美しくありき。故、美和の大物主神、見感でて、その美人の大便まれる時、丹塗矢に化りて、その大便まれる溝より流れ下りて、その美人の陰を突きき」。 |
11月14日 |
意訳すると下記の如し。「美しい少女に魅せられた三輪の大物主神が、赤く塗った矢に化けて、少女の陰部に突き刺した。娘がその矢を持ってきて床の辺りに置いた処、矢は忽ち麗しい男の姿となり、二人は結婚した。そして生まれたのが、比売多多良伊須気余理比売であった。三輪の大物主命を父とする神の御子であった。大物主命は、出雲で国作りをしていた時、海を照らしてやつてきた神であった。 |
11月15日 |
狭井
狭井と言えば、狭井神社は、三輪神社の摂社であり、狭井の姫ゆり祭として名高い。(笹百合祭り)狭井とは山百合のことである。ここで比売多多良伊須気余理比売は神倭伊波礼毘古命結婚し三人の子をなした。
葦原の しげしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し |
11月16日 |
欠史八代
神倭伊波礼毘古命、即ち神武天皇は、御年137才で崩御。日向で娶った妻・阿比良比売の子である当芸志美美命が父天皇の后であった伊須気余理比売を娶り三人の異母弟を殺そうと図った。それを知った母・伊須気余理比売は、息子たちに歌で陰謀を知らせた。処が、兄の神八井耳命は震えて殺すことができない。そこで、弟の神沼河耳命は、兄の武器をとり当芸志美美命を殺した。 |
11月17日 |
綏靖天皇=神沼河耳命
こうして、神沼河耳命は次の天皇、綏靖天皇となり、葛城の高岡の宮(奈良県御所市)で天下を治めた。その後、後につけられて諡号で言うと、安寧、懿徳、考昭、考安、孝霊、孝元、開化の天皇である。綏靖天皇を含めてこの八代を欠史八代と申す。系譜しか書かれていない。
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11月18日 |
崇神天皇と大物主神
崇神天皇は、御真木入日子印恵命と申す。現在の櫻井市金屋、師木の水垣で治世された。疫病で民が死に絶えそうになり天皇はこれを憂い嘆き、夢で大物主命が現れて告げた。
「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国安らかに平らぎなむ」と。 |
11月19日 |
そこで、天皇は早速に意富多多泥古を見つけ出して神主とした、御諸山(三輪山、櫻井市)に大三輪の大神(大物主大神)を祭らせた。神に指名された意富多多泥古は、大物主命の子孫で、大物主命が活玉依毘売という娘のもとに通い、その間になした子の曾孫であった。 |
11月20日 |
崇神天皇「御真木入日子印恵命」の御世は東国開拓の時代であった。天皇は大毘古命(孝元天皇の息子)を高志道(高は越の国、北海道)へ、その子・建沼河別命を東の12ヶ国々へ、日子坐王を旦波(丹波)へ派遣して平定した。こうして天下に平和と富をもたらして初めて税(調)を取った。国の基礎を定めたこの天皇の御世を称えて「所知初国之御真木天皇」と言う。 |
11月21日 |
垂仁天皇
御真木入日子(崇神天皇)の後を継いで即位した伊久米伊理毘古伊佐知命こと垂仁天皇の皇后は沙本毘売と言う。沙本毘売には兄があり沙本毘古王という。この兄が、兄と夫とどちらが愛しいかと聞いた。 |
11月22日 |
沙本毘売は兄こそ愛しいと答えたのが悲劇の始まりであった。兄は陰謀を妹にもちかけた。「汝寔に我を愛しと思はば、吾と汝と天の下治らさむ」といひて、すなはち八塩折の紐小刀を作りて、その妹に授けて曰ひけらく「この小刀をもちて、天皇の寝たまふを刺し殺せ」。 |
11月23日 |
沙本毘売は天皇が自分の膝を枕にして寝ていた時に、天皇の首を刺そうとしたのだが、三度刀を振るっても出来ない、悲しみで涙が天皇の顔にかかった。気がついた天皇は、今しがた見た不思議な夢の意味を尋ねた。「紗本の方より暴雨零り来て、急かに吾が面に沾きつ。また錦色の小さな蛇、我が頸に纏繞りつ」。これを聞いた皇后は、遂に隠しきれず兄の企みを打明けた。 |
11月24日 |
そこで天皇は討伐に立ち上がった。沙本毘古王はやがて討たれるのだが、愛する沙本毘売を奪い返したい、皇子は取り戻したが、沙本毘売を取り戻すことは出来なかった。この皇子は本牟智和気と名づけられたが次の主人公となるのだ。 |
11月25日 |
本牟智和気王と出雲沙本毘売の子、本牟智和気王は長い髭が胸まで垂れるようになっても物を言わなかった。ある時、空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて初めて口を動かしそうにした。天皇は山辺の大?にその鳥を捕獲させることにした。 |
11月26日 |
その鳥を追って、木の国から針間国、稲羽国と過ぎて遂に越の国の和那美の水門で鳥を捕まえて大和に持ち帰った。それでも物を言わない。天皇は深く心を痛めていたら夢に神が現れて「私の宮を天皇の宮殿のように造るならば必ず物を言うようになるだろう」と告げられた。 |
11月27日 |
そこで、皇子は出雲の大神の宮に参拝することになり、曙立王と菟上王の二人と旅立った。出雲で大神に参拝し、大和に帰る途中、肥河(斐伊川)で突然皇子が口を開いた。「この河下に、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。もし出雲の石くまの曾宮に坐す葦原色許男大神をもち拝く祝の大廷か」と問いたまひき。 |
11月28日 |
岐比佐都美が建てた飾り物の曾宮に坐す大国主神即ち葦原色許男大神を斎祀る神主の祭場ではないのかと尋ねたのである。供の二人は大喜びし都に早馬をして天皇に知らせた。天皇は大いに喜んで出雲の大神の宮を造らせたのである。 |
11月29日 |
三輪の大物主神
この三輪の大物主は大変に神々しい登場の神である。「海を光して依り来る神ありき」であった。そして「倭に自分を祀りなさい」と言って三輪山に去っていかれた。丹塗りの矢になったり、鉤穴をすり抜けたり、不意に登場して来る神のようである。 |
11月30日 |
三輪山麓の纏向遺跡近くに「箸墓古墳」という話題の古墳がある。卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳、近くの山辺の道には大和朝廷の実質的な創始者・崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)等もあり大和朝廷の発祥の地と言われる。纒向遺跡には20数基の古墳が存在する。
このうち現状から前方後円墳と判別できるものとして箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳がある。近年の橿原考古学研究所や桜井市教育委員会等々の発表によれば、纒向古墳群のなかの、勝山古墳、矢塚古墳、ホケノ山古墳、マバカ古墳などは出土物の調査等から、建造時期が3世紀半ばまで遡るとされ、これで卑弥呼活躍の時期と一致すると、邪馬台国近畿説論者たちは声高らかに叫んでいる。 |