徳永の「古事記」その8 
      「神話を教えない民族は必ず滅んでいる」

平成24年11月

1日 この戦いは壮絶で兄の(いつ)(せの)(みこと)は矢を受けて重傷、そして「我々は太陽神の子なのに、日に向って布陣を敷いていた為に敗れた。これからは日を背にして戦おう」と言った。
「故ここに()りたまひしく「()(ひの)(かみ)の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。故、(いや)しき(やっこ)が痛手を負ひぬ。今者(いま)より行き(めぐ)りて、(そびら)に日を負ひて撃たむ。」と(ちぎ)りたまひて、南の(かた)より廻り()でましし時、()(ぬの)(うみ)に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。故、血沼海とは謂ふなり」。現在の大阪湾南部と言われる。
2日 兄の言葉を受けた神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)は海路を大きく変えて再上陸を試みたが紀の国の水門(みなと)の辺りで(いつ)(せの)(みこと)は落命した。(現在の泉南市付近)。最後の言葉は「賎しい奴の手にかかり死ぬことになろうとは」の雄叫びであった。この事から、その地は男之水門(をのみなと)と呼ばれた。陵墓は(きの)(くに)竈山(かまやま)に造られた。(現在の和歌山市和田に(いつ)(せの)(みこと)を祀る竈山(かまやま)神社があり古墳もある。)
3日 高木神のお告げと八咫(やた)(がらす)の登場
神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)の一行は、熊野の地で再上陸を果たした。陸を進んで行くと大きな熊が近づいてくるのを見た瞬間、一行はなぜか意識を失ってしまった。高倉下(たかくらじ)という男が現れ神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)に太刀を献上すると意識を取り戻した。その太刀を一振りすると周囲に潜んでいた熊野の荒ぶる神々がみな切り倒されてしまった。その後残りの一行も目を覚ました。
4日 高倉下(たかくらじ)は夢の話を語った。「夢の中で、建御雷之男(たけみかづちのをの)(かみ)下されて、天の皇子に献上するようにと告げた太刀です。天照大神と高木神が葦原の中つ国は、荒ぶる神たちが騒がしくて、我が子らが苦しんでいるのを案じて、建御雷之男(たけみかづちのをの)(かみ)に命じられたもの。私は夢の告げる通りに太刀を見つけて献上したのです」。
5日

この太刀は、佐土(さじ)()(つの)(かみ)、または(みか)()都神(つのかみ)、又は、()(つの)御魂(みたま)という名で現在は、石上神宮(天理市)に坐しましている。(あま)つ神の皇子をこれより奥つ方にな入り()でまさしめそ、荒ぶる神(いと)(さわ)なり。今、(あめ)より八咫(やた)(がらす)を遣わはさむ。故、その八咫(やた)(がらす)引導(みちび)きてむ。その立たむ後より( い)行でますべし」と。

11月6日 その時、高倉下(たかくらじ)が「この先は荒ぶる神が多い。八咫(やた)(がらす)を遣わすのでその導きに沿い進め」との高木神のお告げを伝えた瞬間に一羽の烏が現れた。その後、神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)一行が八咫(やた)(がらす)について進んで行くと、吉野川の下流で魚を採っている神・贄持之子(にえもつのこ)に出会った。さらに進むと、井戸から尾の生えた神・()()鹿()が現れた。
11月7日 さらに山でも尾を持つ神・石押分之子(いわおしわくのこ)が待ち構えていた。何れも地元の神々で神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)に忠誠を誓った。これらの三神は、阿陀(あだ)鵜飼部(うかいべ)吉野首(よしののおびと)、吉野の国栖(くず)の祖先にあたり神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)の平定が進んでいることの証左である。
11月8日 このようにして宇陀にやって来た一行は、付近に住む兄弟・兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとうかし)八咫(やた)(がらす)を遣わせ「臣従を誓うか」と問うた。然し兄宇迦斯(えうかし)はいきなり矢を放ってきた。兄宇迦斯(えうかし)は軍勢を集め神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)を撃つつもりでいたが、数が足りず別の策を練った。臣従すると嘘をついて油断した処を殺そうと企んだ。一方、最初から臣従するつもりの弟宇迦斯(おとうかし)は兄の企みの詳細を神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)に教えた。為に兄宇迦斯(えうかし)は自分で仕掛けた罠に嵌まり命を落とした。
11月9日 初代天皇・神武の誕生
さらに進んだ一行は、奈良盆地の忍坂(おさか)に入る。そこでは、尾の生えた(つち)(ぐも)と呼ばれる土豪たちが岩屋で唸り声をあげながら待機していた。神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)沢山の料理を準備して彼らをもてなした、歌を合図に隙を突いて討伐した。
11月10日 遂に、邇芸速日命が「天つ神の皇子が天降りされたと聞いたので、追って降って参りましたよ」とやってき神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)に天の皇子のしるしである宝物を捧げ、仕えることになった。こうして荒ぶる国つ神の平定が終り、神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)は、(うね)()白檮(かし)原宮(はらのみや)で天下を治めた、初代天皇・神武の誕生である。
11月11日 神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)は、大物主神の娘・伊須気余理比売(いすけよりひめ)を皇后とし137歳まで生きたとされる。陵墓は、畝火山の北の白檮(かしの)()のあたりといわれる。ここで、神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)の后・伊須気余理比売(いすけよりひめ)就いて調べてみた。
11月12日 畝傍の白檮(かし)原宮(はらのみや)で即位した神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)には日向で娶った阿比良比売(あひらひめ)という妻と二人の子がいた。然し即位して天皇となったので皇后を決めなくてはということで、ふさわしい娘を探していた。
11月13日 その時、大久米(おほくめの)(みこと)が、神の御子という美しい娘がいるという。神の御子というには理由があった。三島溝咋(みしまのみぞくひ)(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿(かたち)(うる)()しくありき。故、美和の大物主神、見感(みめ)でて、その美人(をとめ)大便(くそ)まれる時、丹塗(にぬり)()()りて、その大便(くそ)まれる溝より流れ下りて、その美人の(ほと)を突きき」。
11月14日 意訳すると下記の如し。「美しい少女に魅せられた三輪の大物主神が、赤く塗った矢に化けて、少女の陰部に突き刺した。娘がその矢を持ってきて床の辺りに置いた処、矢は忽ち麗しい男の姿となり、二人は結婚した。そして生まれたのが、比売(ひめ)多多(たた)()伊須気余理比売(いすけよりひめ)であった。三輪の大物主命を父とする神の御子であった。大物主命は、出雲で国作りをしていた時、海を照らしてやつてきた神であった。
11月15日 ()()
狭井と言えば、()()神社は、三輪神社の摂社であり、狭井の姫ゆり祭として名高い。(笹百合祭り)()()とは山百合のことである。ここで比売(ひめ)多多(たた)()伊須気余理比売(いすけよりひめ)神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)結婚し三人の子をなした。
  葦原の しげしき小屋(をや)に (すが)(たたみ)    いや清敷(さやし)きて 我が二人寝し
11月16日 欠史八代
神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)(この)(みこと)、即ち神武天皇は、御年137才で崩御。日向で娶った妻・阿比良比売(あひらひめ)の子である当芸(たぎ)()()(みの)(みこと)父天皇の后であった伊須気余理比売(いすけよりひめ)を娶り三人の異母弟を殺そうと図った。それを知った母・伊須気余理比売(いすけよりひめ)は、息子たちに歌で陰謀を知らせた。処が、兄の神八(かむや)()(みみの)(みこと)は震えて殺すことができない。そこで、弟の神沼(かむぬ)(なかは)(みみの)(みこと)は、兄の武器をとり当芸(たぎ)()()(みの)(みこと)を殺した。
11月17日 (すい)(ぜい)天皇神沼(かむぬ)(なかは)(みみの)(みこと)

こうして、神沼(かむぬ)(なかは)(みみの)(みこと)は次の天皇、綏靖天皇となり、葛城の高岡の宮(奈良県御所市)で天下を治めた。その後、後につけられて諡号(しごう)で言うと、安寧、懿徳、考安、孝霊、孝元、開化の天皇である。(すい)(ぜい)天皇を含めてこの八代を欠史八代と申す。系譜しか書かれていない。

11月18日 崇神天皇と大物主神
崇神天皇は、御真木(みまき)入日子印(いりひこいに)(えの)(みこと)と申す。現在の櫻井金屋、()()水垣(みずがき)で治世された。疫病で民が死に絶えそうになり天皇はこれを憂い嘆き、夢で大物主命が現れて告げた。
「こは我が御心ぞ。故、()()多多(たた)()()をもちて、我が御前(みまえ)を祭らしめたまはば、神の()起らず、国安らかに平らぎなむ」と。
11月19日 そこで、天皇は早速に()()多多(たた)()()を見つけ出して神主とした、御諸山(みもろやま)(三輪山、櫻井市)に大三輪の大神(大物主大神)を祭らせた。神に指名された()()多多(たた)()()は、大物主命の子孫で、大物主命が活玉依毘売(いくたまよりびめ)という娘のもとに通い、その間になした子の曾孫であった。
11月20日 崇神天皇「御真木(みまき)入日子印(いりひこいに)(えの)(みこと)」の御世は東国開拓の時代であった。天皇は大毘(おほび)(この)(みこと)(孝元天皇の息子)を高志道(高は越の国、北海道)へ、その子・(たけ)(ぬな)(かわ)別命(わけのみこと)を東の12ヶ国々へ、日子坐(ひこいますの)(きみ)を旦波(丹波)へ派遣して平定した。こうして天下に平和と富をもたらして初めて税(調(みつぎ))を取った。国の基礎を定めたこの天皇の御世を称えて「所知初国之(はつくにしらしし)御真木(みまきの)天皇(すめらみこと)」と言う。
11月21日 (すい)(にん)天皇
御真木(みまき)入日子(いりひこ)(崇神天皇)の後を継いで即位した伊久米伊理毘(いくめいりび)古伊佐(こいさ)(ちの)(みこと)こと垂仁天皇の皇后は沙本毘売(さほびめ)と言う。沙本毘売(さほびめ)には兄があり沙本毘(さほび)古王(このきみ)という。この兄が、兄と夫とどちらが愛しいかと聞いた。
11月22日 沙本毘売(さほびめ)は兄こそ愛しいと答えたのが悲劇の始まりであった。兄は陰謀を妹にもちかけた。「汝寔(いましまこと)(あれ)()しと思はば、(われ)(いまし)(あめ)(した)()らさむ」といひて、すなはち()塩折(しおおり)(ひも)小刀(がたな)を作りて、その(いろも)に授けて曰ひけらく「この小刀(かたな)をもちて、天皇(すめらみこと)の寝たまふを刺し殺せ」。
11月23日 沙本毘売(さほびめ)は天皇が自分の膝を枕にして寝ていた時に、天皇の首を刺そうとしたのだが、三度刀を振るっても出来ない、悲しみで涙が天皇の顔にかかった。気がついた天皇は、今しがた見た不思議な夢の意味を尋ねた。紗本(さほ)の方より(はや)(さめ)()り来て、(にわ)かに吾が(おも)(そそ)きつ。また錦色の小さな(へみ)、我が(くび)纏繞(まつは)りつ」。これを聞いた皇后は、遂に隠しきれず兄の企みを打明けた。
11月24日 そこで天皇は討伐に立ち上がった。沙本毘(さほび)古王(このきみ)やがて討たれるのだが、愛する沙本毘売(さほびめ)を奪い返したい、皇子は取り戻したが、沙本毘売(さほびめ)を取り戻すことは出来なかった。この皇子は本牟(ほむ)()和気(わけ)と名づけられたが次の主人公となるのだ。
11月25日 本牟(ほむ)()和気(わけの)(きみ)と出雲沙本毘売(さほびめ)の子、本牟(ほむ)()和気(わけの)(きみ)は長い髭が胸まで垂れるようになっても物を言わなかった。ある時、空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて初めて口を動かしそうにした。天皇は山辺の大?(おおたか)にその鳥を捕獲させることにした。
11月26日 その鳥を追って、木の国から針間国、稲羽国と過ぎて遂に越の国の和那美の水門で鳥を捕まえて大和に持ち帰った。それでも物を言わない。天皇は深く心を痛めていたら夢に神が現れて「私の宮を天皇の宮殿のように造るならば必ず物を言うようになるだろう」と告げられた。
11月27日 そこで、皇子は出雲の大神の宮に参拝することになり、(あけ)(たつ)(おう)(うな)上王(かみおう)の二人と旅立った。出雲で大神に参拝し、大和に帰る途中、(ひの)(かわ)(斐伊川)突然皇子が口を開いた。「この河下に、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。もし出雲の石くま(いはくま)(その)(みや)(いま)葦原色許(あしはらのしこ)(をの)大神(おおかみ)をもち(いつ)(はふり)大廷(おおにわ)か」と問いたまひき。
11月28日 ()比佐(ひさ)()()が建てた飾り物の曾宮に坐す大国主神即ち葦原色許(あしはらのしこ)(をの)大神(おおかみ)(いつき)(まつ)る神主の祭場ではないのかと尋ねたのである。供の二人は大喜びし都に早馬をして天皇に知らせた。天皇は大いに喜んで出雲の大神の宮を造らせたのである。
11月29日 三輪の大物主神
この三輪の大物主は大変に神々しい登場の神である。「海を(てら)して()()る神ありき」であった。そして「倭に自分を祀りなさい」と言って三輪山に去っていかれた。丹塗りの矢になったり、(かぎ)(あな)をすり抜けたり、不意に登場して来る神のようである。
11月30日 三輪山麓の纏向遺跡近くに「箸墓古墳」という話題の古墳がある。卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳、近くの山辺の道には大和朝廷の実質的な創始者・崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)等もあり大和朝廷の発祥の地と言われる。纒向遺跡には20数基の古墳が存在する。
このうち現状から前方後円墳と判別できるものとして箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳がある。近年の橿原考古学研究所や桜井市教育委員会等々の発表によれば、纒向古墳群のなかの、勝山古墳、矢塚古墳、ホケノ山古墳、マバカ古墳などは出土物の調査等から、建造時期が3世紀半ばまで遡るとされ、これで卑弥呼活躍の時期と一致すると、邪馬台国近畿説論者たちは声高らかに叫んでいる。