13金印「漢委奴国王」は本物か!?倭奴国の存在 

平成24年11月1日

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金印「漢委奴国王」は本物か!?

倭奴国の存在

 

「後漢書」の解釈

「後漢書」は、西暦57年、「倭奴国」の王の使者が後漢の光武帝に朝賀してきたと記しています。その後漢と通商関係を結んだ倭奴との渉外関係の記事で注目すべきは、次の点です。 

第一点として、前漢時代に百余国に分裂していたと言われる倭国が、後漢時代になると、入貢した国は30ほどの国だけと記されていることです。

第二点として、それらの30ばかりの入貢した倭人の国の中で、特に奴国が群小国家群の公的な代表者として光武帝から認められたということです。

第三点として、代表者としての奴国の王に対し、後漢に服属した外蛮の王に与えられる印綬が授けられたということです。

第一点について、注意すべきことは、「後漢書」は「前漢の時代には百余国があったが、それから百年あまり後の後漢の光武帝の建武中元2年になると、朝貢した国は凡そ30余国である」と書いていねのですが、この記述をもって、それはこの時代までに日本列島の社会の統一運動が進み、新しい統一者が力を得た結果、だいたい30ばりの国が残った、100国あったものが30国、三分の一に減ったのだと解釈する人がこれまで非常に多かったということです。

然し、「後漢書」は朝貢した国の数だけ述べているのです。

従って、この33余国のほから入貢しない倭国がもっとあってもよいわけですから、決して百余国が30余国に減ったということでなくてもよいわけです。30余国は、あくまで入貢した倭国の数を渉外記録によって記したと解釈すべきです。

統一が進んで三分の一に減ったという今までの通説は誤釈であり、30余国は後漢帝国に朝貢して官許貿易権を承認された倭の群小国家の数であると考えればよいのです。この数は倭国内の統一とうこととは全く関係のないことです。つまり、後漢と交易を結んでいなかった倭人の国は、他に沢山あったわけです。 

小国家連合体の首長国

第二点において、倭奴国はそれら朝貢をしてきた倭国を束ねる存在であるというわけですから、そこに小国家連合体とでもいうべき国家集団が推定できます。そして倭奴国は、その小国家連合体の中の首長国のようなものではなかったかと思われるわけです。

倭奴国は朝鮮・中国との交易にとって重要な地域(九州北部)を掌握し、交易の独占権をもって他の小国に相当の影響力を持っていた、また、自に対立する国の中国への朝貢を阻止していた、というようなことまで考えられます。

また、そうでなくても、少なくとも北九州あたりにあった奴国が30ほどの倭国の代表者に択ばれ、第三点にみるように、漢の皇帝から印綬を授けられるほど、他国に比して優位な勢力を持っていたことは間違いないことと言えます。

第二点、第三点は、当時の倭人の国々の状態を考えるのに、極めて重要な意味を持っているわけです。 

註 印綬

  身分や位階を表す官印を身につける為の組み紐。 

金印「漢委奴国王」は本物か

印綬下賜をめぐる問題点 

金印下賜の不明瞭な根拠

倭奴国の王は30ほどの倭国の代表者として漢の光武帝から印綬を授けられた---これに関しては、その印綬を巡る問題があります。

「後漢書」には、ただ「光武賜うに印綬を以てす」と書いてあるだけで、その印綬がどういう印であったかの説明はしていません。処が、それを日本では勝手に、この印綬は「金印紫綬」であったと、印綬のいわばランクまで規定しているのです。

何を根拠に日本人がそのように規定したのかといいますと、天明4(1784)に筑前国の志賀島から発見された一個の黄金の印があり、その黄金の印の印文として「漢委奴国王」という五文字が刻まれていました。そこで、これによって即座に「後漢書」にいう「光武賜う」ところの印綬とはこれであるとして、金印紫綬ということに決めつけてしまったわけです。然し、外蛮の王に対して金印紫綬を授けたということは、それがもし本当のことであったとすると大変なことなのです。

漢の印の制度からいいますと、外蛮の王に授ける印綬には、「金印紫綬」・「銀印青綬」・「銅印黒授」・「木印黄綬」と四通りの印があります。そして、夫々の王の格づけによって、その印綬の中のいずれを授けるかが決定されていたのです。それだけの種類の印があるわけてですから、印綬を賜ったというだけの記述から、その印のランクを直ちに金印紫綬であったと規定することは出来ないわけです。

それにも拘わらず、和田清博士の如き大家の説を見ましても「後漢の時代に於いて外蛮の王が金印紫綬を賜ったのは、ビルマの大国の王だけであるから、倭奴国の王が金印紫綬を賜ったということは当時、漢帝国から余程の大国と間違えられていたのである」という説明をされています。

然し、九州の志賀島から出土し、黒田家が所蔵している金印が、本当に光武帝から下賜されたところの印綬の真物としてよいのかどうか。 

註 印綬

  身分や位階を表す官印を身につけるための組紐。 

  筑前

  旧国名。今の福岡県の北西部。 

国宝になってしまった偽金印

志賀島で発見されたという金印は、その印文に確かに「漢委奴国王」という五文字が刻まれていいます。然し、漢の印制の上から言いますと、外蛮の国に対して「漢委奴王」と書くならば印制に合いますが、「漢委奴国王」てでは印制に合わないのです。漢の王室が外蛮の王に授けた印綬の場合、金印であろうと銀印であろうと銅印であろうと、どの印を見ても「国王」とは絶対にしないのです。 

中国に於いては「国王」と言われるのは中国の皇帝以外にいないわけです。ですから、各外蛮の王を「王」として認めても「国王」とは呼ばないのです。 

さらに印制に従えば「漢委奴王」として、その後に「印」とか「章」という字が必ず入らなければいけません。志賀島の金印の場合にはそれもないわけです。

志賀島の金印は全く漢の印制に合っていないわけで、明らかに偽印です。 

処が、わが国ではこれを本物の印だとして、文化財保護委員会(現文化庁)で国宝にしてしまったものですから、後からどうにもなりません。未だに国宝になっています。今日、このことを誰も問題にしませんが、印制の上から言うと国宝の金印にはそういう不備な点があることは明らかです。

註 国宝

文化財保護法により重要な文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、類いない国民の宝として文部大臣の指定を受けたもの。  

印綬下賜の史料的価値

金印であろうが無かろうが、文献上大事なことは、倭奴王が印綬を貰ったという史実なのです。当時、日本から30ばかりの国が朝貢したけれども、その中の奴国に倭の代表者という立場を認めて、とにかく印綬を授けたのです。その印を押していなければ外交文書としての国書としては通用しないのです。

そうした権限を与えられたということだけでも十分意味のあることです。その視点に立つならば、金印であろうが銀印であろうが、或は国宝の印が真印てであろうが偽印であろうが、そんなことはどちらでも一向に差し支えないことです。それよりも、代表者が決められたということ、そしてそこまで朝貢貿易が進んでいたという史実を読み取ることの方が大事です。