群集墳の流行家族墓の流行を支えた横穴式石室

11月

群集墳の流行

1日 家族墓の流行を支えた横穴式石室

第六世紀に入って、なぜに家族墓が流行したのか。それは天皇陵の合葬も一つの契機になったと思われますが、そうした合葬に便利な横穴式石室が内部主体として採用されることも大きな原因とみられます。

2日 横穴式石室と
追葬

第五世紀以前にも合葬例はあるにせよ、その頃までの内部主体の主流である竪穴式石室や粘土槨(ねんどかく)、石棺は追葬に不便な形式であり、合葬は一般的な風習とはなりえなかったと見られます。処が口のある横穴式石室は破壊することなく追葬ができるのです。

3日

この横穴式石室の知識とその建造技術の普及こそは、それまで潜在的にあったとみられる合葬への欲求に火を注ぎ、豪族たちはもとより一般庶民たちをも巻き込んで横穴式石室を持った古墳造りに狂奔させる事態を招いたのではないかと推測されます。

4日 合葬始まる

天皇陵を始めとする豪族たちの中期までの古墳は、膨大な人員を動員することによってのみ完成できるのであり、一般庶民にはとても一人の人間の埋葬の為にそうした古墳を造ることは出来なかったわけです。処が。後期になると豪族たちの古墳は小さくなっていたばかりか、横穴式石室による同族や家族の合葬を行いはじめたわけです。

5日 古墳の一般化

そうなると、それまで豪族の古墳に合葬されることもなく、古墳に羨望の眼差しを向けていたであろう圧倒的多数の一般庶民が、あれなら自分達にも造れるのではないかと考えたとしても不思議ではありません。

6日 家族墓

そして、一人のための古墳ではなく家族を埋葬する為の小さな古墳であれば、そこに葬られる皆の力を合わせれば出来ないことはないという訳で、あちこちで家族墓としての古墳造りが始まった、それが爆発的なブームとなって全国に広がり第六世紀から第七世紀にかけて何百基もの小古墳群が各地に見られるようになった、というような群集墳発生のストーリーが考えられるわけです。 

7日 註 
粘土槨(ねんどかく)
古墳の内部施設。古墳の封土中に石室を設けず、直接木棺を埋めて周囲を厚く粘土で覆うもの。木棺が割竹形の場合、粘土槨(ねんどかく)の形も長い円筒形状、櫃形の場合短いかまぼこ形をとる場合が多い
8日 群集墳流行の火付け役は誰か 横穴式石室は一体どのようにして発生したのか。この点について考古学では、中国や朝鮮で夫婦合葬の風習のために採用されていた横穴式石室が日本でも採用されるようになったのだと考えています。ただし、日本では一つの横穴式石室から十体以上の遺骸数が確認されることがあり、夫婦合葬というより、同族・家族の合葬という発想で横穴式石室が採用されていったと思われます。
9日 構築が比較的少人数で また、一般に横穴式石室は巨石を使いますが、本来、巨石の運搬や構築など庶民階層の力ではどうすることも出来なかったはずです。然し、中国や朝鮮から梃子や滑車の利用方法も伝わり、それまで不可能と思われたような巨石の運搬、構築が比較的少人数で出来るようになった事も群集墳流行の下地になったと考えられます。
10日 日本全国に拡大 こうした横穴式石室の採用、その構築技術の普及は、恐らく帰化人たちによってその端緒が開かれたのではないかと思われます。即ち、大和朝廷に実務官吏として採用されたであろう帰化人たちが、祖国の墓制を日本でも実施し、それが天皇陵の内部主体として採用されるなどの段階になって、一気に日本全国に広がっていった、そうした事も考えられるわけです。
11日 九州 ちなみに、九州に於いては既に第五世紀から横穴式石室が普及し始めており、第六世紀には石室内に様々な装飾が施された「装飾古墳」が北部から中部九州にかけて盛んに構築されています。とりわけ、第六世紀後半には高句麗の壁画古墳との関係が濃厚なものがあり、当時、新羅の勢力拡大に伴って日本と高句麗との間に交流がもたれるようになったことなどが背景として考えられています。
12日 註 
装飾古墳
石室内壁や石棺に、回が文様の彩画や彫刻による装飾を持つ古墳の総称。浮彫や線刻の施された石障をもつ横穴式石室、壁画に彩色文様や絵画を描いた横穴式石室、墓室の内壁や外部な浮彫・線刻・彩色画などのある横穴の四種に分類できる。ぼ、5-7世紀につくられた。
13日 家族墓を受け入れた社会情勢 以上のように、中国や朝鮮などから入ってきた墓制、横穴式石室とその構築技術というものが、群集墳発生の遠因となっていることは間違いのないことですが、それ以上に重視しなければならならないのは、家族墓という発想が受け入れられる社会的背景が出来上がっていたということです。
14日 旧氏族層の衰退 即ち、家族墓からなる群集墳の流行は、氏神を中心として結合していた氏族単位の発想よりも、次第に氏族より小さなレベルの集団ないし家族という単位の発想が強まっていたことを物語っているのです。言い換えれば、それまで各地方において強大な力を持っていた氏族が弱体化し解体し始めていたということです。それが大和朝廷の地方支配の浸透による旧氏族層の衰退と結びつく事を見逃してはならないでしょう。
30講  高松塚古墳と古墳時代の終焉
15日 末期古墳と
氏族制度の
終焉
氏姓制度と古墳文化
これまでの講義で見てきましたように、総じて古墳の態様はその当時の社会組織、社会構造に大きな影響を受けています。例えば、中期の巨大古墳であれば、被葬者とその墳墓を造る人々との上下の支配関係が古墳を通して如実に示されているわけです。
16日 古墳と国家の結びつき

こうした視点に立つならば、古墳と国家の結びつき、歴史解釈の上で重要な働きを示すようになります。この事は、まさしく「記録なきところ、墳墓これを語る」という諺があるほどで、記録が無くても古墳が歴史的事実を立証する具体的な材料になるということです。
それでは、これまで見て来た第六世紀までの古墳を全体として振り返って見た場合、どのような歴史的事実が確認できるのでしょうか。

17日 古墳の変遷と歴史的事実

各期における古墳が夫々の時代の社会情勢を反映している事は、これまでに述べてきた通りです。然し、そうした各期の特徴的な歴史的事実とは別に古墳の変遷を通じて共通する歴史的事実も見てとれると思います。

18日 古墳造営の
自由裁量

即ち、第六世紀までの古墳は特にそれを造るための法的な規制が殆ど無く、みんなが自由に古墳を営んでいたという歴史的事実に気づかれるのではないでしようか。力のある者は大きな古墳を造る、力のない者は造らない、或は力に応じた古墳を造る、と言う古墳造営における自由裁量が見られるのです。

19日 氏姓制度の社会

こうした古墳造営にみられる自由さこそは、律令体制以前のいわゆる氏姓制度の社会を反映したものと把握できます。逆に言えば、古墳造営の態様が語る実力支配の社会こそは氏姓制度の社会をよく表していると言えるのです。

20日 氏姓制度社会の終焉

そして、この論理を推し進めれば古墳造営に関して何らかの法的規制が行われるようになった時、古墳時代は大きな曲がり角を迎えるというだけでなく、氏姓制度の社会は終焉を迎えると考えられます。

古墳造営にかけられた法の網
21日 大化の薄葬令 大化二年(西暦646)、つまり中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼしたクーデター事件の翌年です。この年の正月、いわゆる大化改新の詔が発せられ、その直後の322日に孝徳天皇は墓姓に関する詔勅も発布しました。この詔勅のことを今日一般に「大化の薄葬令」と呼んでいます。
22日

なぜ薄葬令と言うのかと言えば、それまでの古墳が非常に厚葬であった。例えば、色々な副葬を古墳に入れるなどして厚葬が行われていたのに対し、孝徳天皇の詔勅は、死者を葬むるのに厚葬ではいけない、余り手をかけてしいけないという詔勅であるという解釈がなされ薄葬令と言われているのです。

23日 「薄葬令」への疑問 孝徳天皇の詔勅を「薄葬令」と命名する根拠の一つは古墳の「厚葬」にあるわけですが、然し中国や朝鮮半島など他の国の墳墓と比較して日本の古墳が果して厚葬と言えるのか、また大化改新以後に古墳が薄葬になったと言えるのか、そうした点からみて「薄葬令」なは大いに疑問が生じます。
24日 中国の墳墓令との比較

中国の墳墓令を見ると、確かに中国の皇帝はしばしば「埋葬は薄葬でなければいけない」という詔勅を出しています。恐らく、それが念頭におかれたため、孝徳天皇の詔勅も薄葬令だというふうに解釈されたのかもしれません。然し、日本の古墳で最も厚葬と思われるものと中国の墳墓とを比較してみれば、例えば、中国で厚葬と言われる秦の始皇帝陵の副葬品と日本のそれとを比較してみれれば、比較するのもおこがましいほど日本のものは貧弱に見えます。そうであれば、孝徳天皇の詔勅を厚葬を禁止した薄葬の令であるとすることは余りに現実離れしているように感じるのです。

25日 墓制令

「薄葬令」というべきものではなく「墓制令」
実際、詔勅をよく検討してみると、これは「薄葬令」というべきものではなく、「墓制令」と言うべきものなのです。

26日---30日 身分により墳墓の大きさを規定

詔勅は身分によって墳墓の大きさを規定しているだけです。まず(きみ)以上、上層の貴族((おみ))・下層の貴族((おみ))というように支配層を三つの階層に分け、それぞれの階層に応じた墳墓の大きさを規定しています。 
この三階層は盛り土のある墓室の造営、つまり古墳の造営を認められますが、封土の大きさや工事日数や使役できる人数などで差をつけられています。ほかに官僚たちは墓室はよいが盛り土は認められず、庶民は墓室も盛り土も不可でただ埋めるだけという具合です。 
このようにして、庶民の墓にまで規制を及ぼしているのを見ると、手厚く葬ることを禁止したというより、いままで自由に造らせていた墳墓に対し、身分に応じた墳墓を造らせることに主眼があると見るべきでしょう。
私はこれを「薄葬令」でなく「墓制令」と呼びます。