第21講 高句麗好太王碑文が教える強大な日本統一国家

平成25年11月

1日 高句麗好太王碑文が教える強大な日本統一国家 見落としてはならないのが有名な高句(こうく)()好太(こうたい)(おう)碑文(ひぶん)です。この碑文は、391年から470年ごろまでの朝鮮半島に於ける日本軍の作戦行動の一端を明らかにしております。それには、日本は武力によって半島南部を制圧し、好太王は新羅と組んで、百済と結ぶ日本に対抗し、5万からの大軍で日本を任那・加羅まで追いやったとあります。
2日 九州の狗奴国が大和を統合した 碑文が記すような継続的かつ大規模な戦争を遂行するには、もはや地域ブロック的な国家はもとより、原大和国家や狗奴国という地方統一レベルの国家でも不可能であると考えられます。大軍が海峡を渡って敵地に上陸し、かつ何年にもわたって軍事行動を継続する為には、兵力の補強、輸送船も兵糧などから考えて強大な軍事・経済力がその背景になければなりません。そうであれば、少なくとも391年までに日本の統一が完了していたばかりか、既に国家体制が整備されていたわけです。碑文が教えるこの強大な日本国を説明するには、やは362年の仲哀天皇の戦死をもって九州の狗奴国が大和を統合したという歴史構成をするしかないと思います。 
3日 好太王碑
 正しくは、国岡上広開土境平安好太王陵碑。高句麗中期の国王・広開土王の功績を称えて建てられた碑。鴨緑江中流輯安県の東崗にある。1882年発掘。高さ6.2米、幅2米ほどの自然石を利用した方柱。
狗奴国の大王・応神天皇

狗奴国の大王・応神天皇

4日 応神天皇の実像 応神天皇の生誕について「記紀」は異常出生説話を伝えていますが、その説話を含んだ母・神功皇后の物語が架空のものと見られる以上、そのまま信じることは出来ません。ただ、そうした異常出生説話は、応神天皇が並みの人ではない、通常の天皇とは違うのだということを暗示していると見られます。
5日 日本初の「大王」 実際、応神天皇には、日本初の「大王」と称されるに相応しい伝説や素材が多く残されています。大陸・朝鮮文化の積極的移入、朝鮮への進出、巨大な応神陵など、「大王」と言われるに十分な具体的治績を残しています。
6日 狗奴国王とは
応神天皇
この応神天皇の崩年は「古事記」の崩年干支註記から推定すると394年頃で、仲哀天皇の崩年362年から32年間が応神天皇の治世と見られます。そうすると、その実在年代は第四世紀中葉を中心とする時期であり、仲哀天皇と戦って勝利し、原大和国家を統合して初めての日本の統一国家の大王として君臨した狗奴国王とは、この応神天皇だったと考えてよいでしょう。そこで、この応神天皇を中心として、いままで述べてきたことを纏めると次ぎのようになります。
7日 応神天皇を王とする九州狗奴国は原大和国家に勝利 応神天皇を王とする九州狗奴国は、第四世紀中葉、原大和国家の王・仲哀天皇自らが率いる軍と交戦状態に入ります。処が、仲哀天皇は矢にあたって戦死されてしまいます。原大和国家の遠征軍は崩壊し、応神天皇は逆に大和を討伐して統合し、急速に統一勢力を築いていきます。「神功皇后紀」は、皇后が新羅征伐後に帰国してきた時、ご坂(かごさか)(おう)(おし)(くま)王が胎中天皇(応神天)の即位を阻止するため播磨・淡路で皇后を迎撃して入京をはばんだと伝えられていますが、この物語などは、九州国家。狗奴国による大和討伐を伝説化したものと考えられます。
8日 狗奴国の王・応神天皇は、369年には新羅討伐 第四世紀中葉に起ったこの日本の大変動は、朝鮮半島にも影響しました。混乱に乗じて、南鮮の韓民族間の統一運動が活発化し、新羅や百済が独立し、日本の植民地と化していた弁韓の国が新羅の侵略を受けたのです。然し、九州・本州西半・四国の統合に成功して強大化した狗奴国の王・応神天皇は、369年には新羅討伐を行い、さらには好太王碑文に見られるような大規模な朝鮮半島侵略を遂行していったのです。
9日 統一国家(大和政権)の大王は狗奴国王 こうした軍事行動が可能であるには、日本の統一国家が長年にわたる日本と朝鮮半島の事情に精通し、かつ朝鮮出兵に地の利がある九州に本拠地を持っていなければなりません。然し、原大和国家は、第四世紀中頃まで、朝鮮と直接交渉はないのです。まして、原大和国家は九州遠征にさえ敗北し、その後に大規模かつ継続的な朝鮮出兵をなし得るとは考えられません。その点、狗奴国は九州の地にあって第一世紀以来、狗奴韓国を支配していたと見られる倭奴国の流れを汲んで朝鮮事情に精通し、朝鮮に橋頭堡もあったとみられ十分に朝鮮遠征の遂行能力を備えているのです。そうした点から見ても、第四世紀半ばに日本統一を果たし、その統一基盤にたって朝鮮出兵を行ったのは、九州を統一していた狗奴国であると断定します。そして、その統一国家の大王こそ、後に応神天皇と称された狗奴国王であったと考えるのです。
22 仁徳天皇の王朝交替
仁徳王朝の成立過程
10日 仁徳王朝説と応神王朝説 中国の文献の上では、仲哀天皇から仁徳天皇にかけてのわが国に関する記述が抜けているのですが、その間に「日本書紀」には神功皇后(応神天皇の母)、応神天皇の二代が加わり次ぎの仁徳天皇へと続いています。
11日 応神天皇こそ
九州の狗奴国王
その時期のことを考えますと、仁徳天皇の父親としての応神天皇の物語が「日本書紀」に出てきますが、前講で述べた通り、この応神天皇こそ、原大和国家の崇神王朝と戦い、崇神王朝の三代目の仲哀天皇の戦死を経て原大和国家を統合していった九州の狗奴国王とみられるのです。
12日 仁徳王朝が原大和王朝を継続 然し、崇神王朝が仲哀天皇の戦死によって崩壊し、原大和国家を統合していったその時の九州の狗奴国王が応神天皇であるとしても、私は“大和朝廷”を引き継いだのは応神天皇ではなく仁徳天皇とみなし、仁徳天皇から名実ともに、王朝が交替するという説を出します。それ故、大和朝廷の主宰者としての王朝として崇神王朝の次の王朝を「仁徳王朝」と呼んでいます。然し、これに対しては、多くの歴史家が応神天皇から王朝が代わるとして応神王朝説を立てています。
13日 仁徳天皇の父親として応神天皇を考えることに異論はありませんが、私はそれでも応神天皇から新しい王朝が始まるのではなく、仁徳天皇から王朝が交替すると主張するわけです。その根拠は「古事記」「日本書紀」の記述です。
14日 応神天皇は狗奴国王であり続けた 応神天皇は、第四世紀の後半期に在位した天皇であると想定できます。第四世紀の後半といえば、原大和国家との戦いを経て、大和と九州の統合によって国力を強大化させた狗奴国が朝鮮半島へ大規模な軍事作戦を展開した時期に当たります。前講で述べたように、この朝鮮出兵は、朝鮮情勢に疎い原大和国家のなせることではなく、朝鮮情勢を知悉し、かつ朝鮮と濃密な利害関係をもつ狗奴国でなければなし得ないことです。また、その作戦規模の大きさから見ても、朝鮮出兵軍及びその指揮系統は九州を本拠地にしていたとみなければなりません。
15日 従って、応神天皇は崇神王朝を崩壊させて原大和国家を統合していったとはいえ、原大和国家の大和朝廷を引き継いだわけでなく、未だも“狗奴国王”として、九州にいて必要な軍事・政治・経済の指揮を取っていたとみられます。即と、応神天皇は都を九州においていたのです。
16日 応神天皇東遷皆無 それを裏付けるのが「記紀」で、仁徳天皇が難波()に都を定めたという記述は「記紀」ともに出できますが、応神天皇には都を遷したとか、九州から東遷したというような伝承は皆無なのです。
17日 仁徳王朝説 古代に於いては、初代の天皇は有徳の天皇でなければならないと考えられていました。これも中国の王朝史に対する考え方で、「記紀」の編纂者たちも、そうした思想を身につけていたと考えられます。
18日 仁徳天皇は聖帝 そうした考え方に着目して「記紀」を見ますと、応神天皇に関しては余り有徳の天皇であるという説話はありません。処が、仁徳天皇には、わざわざ有徳の天皇であると云う事を立証する為に兄弟禅譲の伝承が出てきて、やっぱり仁徳天皇は聖帝であるとする聖帝伝説までついてきます。
19日 和の王 明らかに、「記紀」編纂者たちには、応神天皇ではなく仁徳天皇を初代天皇として意識しています。「記紀」編纂者たちには、応神天皇は九州の王で仁徳天皇は大和の王、というような認識があったのではないか。私はそのように推察します。
20日 仁徳天皇から新しい王朝 いずれにせよ、仁徳天皇=聖帝、そして難波遷都、逆に応神天皇=九州。こうした条件を併せ考えますと、応神天皇よりも仁徳天皇から新しい王朝が成立したと見るのが妥当であめと考えます。
21日 即ち、前崇神王朝を滅亡させた応神天皇の代は、まだ狗奴国王として九州におられたということで、大和朝廷を引き継いだとはいえない。それよりも初代天皇に相応しい仁徳天皇を始祖とする「仁徳王朝」を考えるというわけです。
22日 仁徳天皇の難波遷都
もとの都は大和にあった?
「記紀」には仁徳天皇が難波に都を定めたことを唐突に記し、九州からとも書いていないことは勿論、その理由も説明していません。そこで、その理由を巡って解釈上の問題があります。
23日 まず前提として、仁徳天皇の難波遷都の時期は、中国との交渉が次第に開かれていたとする見解があります。これは「晋書」などを基にしてよく説かれます。多くの歴史家は、そうした事情が背景にあって、中国との交渉するために大和の盆地では不便だからそれまで都のあった大和から大阪の海岸近くの難波に都を移して中国との交通の便を図った、それが難波遷都の理由であると主張します。
24日 然し、この考え方には無理があります。仁徳天皇の後、確かに履中天皇、反正天皇、恭天皇、雄略天皇と、第五世紀の王朝は天皇の代を追うにしたがって中国・朝鮮との関係が深くなっていきます。処が、仁徳天皇の後、都はすぐまた不便な大和に入ってしまうのです。もし中国との交渉の便のため遷都がなされたとするならは、これらの天皇の代こそ難波が都であることが活きてくるはずです。それにも関わらず、中国との交渉の頻繁な天皇たちは交通の便利な所へ都を移さず大和に都を構え続けたのです。
25日 そうであれば、中国との交渉を理由に仁徳天皇の難波遷都が行われたわけではないのです。これは、そもそも、もとの都が大和にあったと固執するから理由が分らなくなるのだと思います。仁徳天皇の父である応神天皇の代には、まだ大和朝廷の天皇というより狗奴国の王として九州の都にいた、処が仁徳天皇は九州から大和に近い難波へ遷都してきた、と考えれば合理的な説明がつくと思います。
26日 難波遷都の背景 問題は、なぜ仁徳天皇が九州から大和ではなく難波に遷都してきたかということです。それを考える鍵は朝鮮情勢にあると思います。応神天皇の代から日本が百済援助のために朝鮮出兵をし高句麗と戦ったことは好太王碑文で明らかです。日本軍はこの時、五万もの高句麗の大軍を相手にして戦っています。相手が五万の兵力でもって押し寄せてきて負けたというのですが、それには倭・百済の連合軍の方もそれに対応できるだけの兵力をもって対決しなければ戦いになりません。
27日 そうすると、この時の日本は非常に大きな兵力を投下して百済を援助していたことになります。而も、数年足らずで初回の敗戦を補ってまた同じような大軍を朝鮮に渡らせ戦ってまた負けて壊滅的な打撃を受けて退却したと碑文は記しています。高句麗の好太王碑文、これは顕彰碑ですから勝利を誇張して書かれているわけで、多少は差し引いて考えるとしても、百済は滅亡の土壇場まで追い込まれているのです。従って高句麗は非常に強力だったと考えられます。その強力な高句麗軍が百済を倒して日本軍は南鮮の海岸まで追い詰められて追い落とされたと書いてあるのです。
28日 難波遷都の一つの理由 そうなると高句麗討伐どころか、今度は海を渡って高句麗がいつ攻めて来るかわからない、という非常に危険な状態に日本は立たされているわけです。この時、九州の都にいたとみられる仁徳天皇は、どう対応するでしょうか。恐らく、都をそのままにしていては海を渡って来るかもしれない強力な高句麗軍によって蹂躙されるかわからない、九州を去ってすぐに攻撃されないような別の場所に都を移さなければならない、と考えるのではないでしょうか。 
29日 私はこれが難波遷都の一つの理由と考えます。さらに、五万の大軍に対抗できる程の兵力をはるか中部朝鮮まで投入し、かつ戦争を継続しているわけですから、莫大な人的、財的な資源を費やしたはずです。しかも、負けてしまって得るものは何もないのです。この朝鮮出兵によって消耗した経済・軍事力は相当なもので、日本側は一国を傾けるほどの打撃を受けたとみなければなりません。そうなると、消耗した軍事・経済力を回復するための補給はもはや九州だけでは賄いきれない、東の方へ移って新しい土地を開拓し、その土地から兵力なり財力なり資源を獲得して、それによって高句麗に対応しなければならない、という発想が出てきて当然です。こうしたことも遷都の理由として考えてよいでしょう。
30日 仁徳天皇の難波遷都の大きな理由 即ち、對高句麗との戦局が悪化したため高句麗の都攻撃ま危険を避け、また東国の開拓拠点となってしかも朝鮮へ比較的容易に兵力を動員、派遣できるような場所として瀬戸内航路の終着点であった難波の地への遷都が行われた、というのが仁徳天皇の難波遷都の大きな理由であろうと考えられます。